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テーマ:サッカーあれこれ(20134)
ドイツから客員教授が来て、研究会が行われた。
アカデミックでしかも社会学的な観点の切り口なので、専門の違う私はついていくのがやっと、という感じだったが…。 彼の研究の内容は、ドイツにあるトルコ人チームのサッカーがトルコでもドイツでもないタイプのサッカーであることに着目したもの。トルコのサッカーがドイツに行った時にそこから何かの影響を受けて、変化した。その影響が何かが研究内容となっている。ちなみに彼の視点は、国のスタイルというのは作ったりとかでなく、「そこにあるものを解釈する」ものである。 ここからは私の問題意識なのだが、例えばブラジル人がJリーグでプレイするとき、そのチームのサッカーに適応するが、しかし実際彼らを見てみんな「ブラジル人だ」と思う。そこにらしさが存在する。が、セリエAに行った中田はどこかしらイタリア人プレーヤーになり、根底にあるのは中田英寿であり、日本人ではないように感じる。他の海外組といわれる選手達も同様であろう。日本人サッカープレーヤーというのは日本という根底を持って海外には行っていないように見える。そう見えるのは、日本人の根本が何なのかわからないからだ。だから、スタイル云々の話がよくわからなくなり、最近までの私もだが、「スタイルを確立せよ」という表現に終始してしまう。 しかし、日本の特徴は決して作るものではなく、既に存在するものなはずではないか。先の客員教授はスタイルが「そこにあるのを解釈するもの」という考えで、イビチャ・オシムも最近「日本の選手というのはヨーロッパの選手が持っていない、素晴らしい資質も持っていますよ。それは私が言う必要はありません。そういうものを日本人はもうすでに見せています。」と発言している。「確立しなければ」と考えていた(私だけではないはずだ)一方で、社会学的見地とオシムの意見がリンクしているのは大変興味深い。 確かに、世界中でサッカースタイルは段々均質になってきている。しかし、ドイツを見るとドイツらしいと思うし、イタリアを見るとやはりイタリアらしいと思う。Jリーグを普段から見ていても、日本代表を見ていても、私は日本の持っている何かしらの特徴はやはり存在すると思う。ただ、それは一体何なのだろうか? この、「何か」がある程度言語化されない限り、日本らしさが確立されず、ユースからA代表まで、監督一つで全てが0に戻ってしまい、これ以上のレベルアップが望めなくなっている。今の日本の立ち位置はそういう所ではないだろうか? よって、今日本サッカーがやるべきなことは、「自分たちの持っているもの」を「解釈する」ことに他ならないのである。それはサッカーだけでなく、アカデミックな観点からも検討が必要ではないかと思われる。 つづく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.06.22 03:27:33
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