カテゴリ:旅・お祭り
2022年9月13日(火)
せっせと透かし編みのカーディガンを編んでいます。 5日から編み始めた後ろ身頃、ようやく編みあがりました。 昨日の岐阜城と満月の写真、あまりにすごいので加工されたものと思われた方が何人かいらしたようですが、全然加工してない写真なんです。 上の2枚は、BSで放送された「中秋の名月 とっておきの満月」の画面を、私のスマホで撮ってアップしたもの。 この写真を撮った方は、何十年も岐阜城と満月の写真を撮り続けている写真愛好家の方で、これはもともと動画です。 2枚目の写真は、金華山の後方から月が少しずつ上がってお城の真後ろに。 そしてまた少しずつ離れていく(1枚目の写真)ところを動画で撮ったもの。 次の日の朝のニュースの中で放送されていた、岐阜城と満月を写真に撮ろうとしていた大勢の方々も、まったく同じような構図の写真を撮っていらっしゃいました。 スマホでも、これと同じ構図の写真が撮れていましたから、いつか私も撮ってみたいって思いました。 岐阜城、今は金華山という名称の山頂に立っていますが、その昔は稲葉山と呼んでいて稲葉城と言っていました。 岐阜と言う地名は、織田信長がつけたものと伝承されており、その昔は「井之口」と読んでいたようです。 岐は、左右の分かれる場所という意味。 阜は、小高い山の意味。 と言われていて、「左右を分けることのできる岡」ということらしいのです。 それ以前は、斎藤道三やその子孫の居城であったようですが、1567年信長が稲葉城の戦いにより斎藤氏から奪いました。 その戦いのとき、稲葉山から大勢の女性たちが飛び降りて亡くなったという滝や池も、残っています。 そうそう、信長の正室は濃姫。 濃姫は、斎藤道三の娘。 信長が稲葉城の戦いを挑んだ時は、稲葉城の主は道三の孫だったらしいのですが、舅殿の城を襲撃するという、いかにも戦国時代らしいお話です。 信長の居城になってからは麓に邸宅を立て、そこに各戦国大名やローマからの宣教師を迎え、迎賓館のようになっていたというのが最近の発掘調査で判明しています。 岐阜城と長良川の写真。 山の上の点が、岐阜城です。 岐阜城から見下ろすと、 長良川と岐阜の街並みが。 きっと、岐阜城から見下ろした町と長良川の景色を見て、信長は天下統一を目指したのでしょう。 その長良川の夏の夜には、こんな光景が。 長良川の鵜飼いです。 いつか遊覧船に乗って、見学したいって思っているんですけれど・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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