【散歩・草花記】飲み会前に大阪を歩く。
【2016年1月22日(金)】 大阪で一日を過ごしました。 粒子線治療後の経過観察で大阪府下のM病院へ。診察結果は、http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201601220006/ その後地下鉄で梅田へ。新梅田食道街の「おおさかぐりる」さんで昼食。 大学生時代は京都の大学でしたが、軟式テニス部に入っていて、逆瀬川のコートに関西地区の試合でよく行きました。帰りに十三で乗り換えずに梅田まで乗って、よくこの「おおさかぐりる」さんでご飯を食べました。安くて、美味しくて、ボリュームがあったからです。その味や雰囲気がなつかしくて、今でも、大阪へ来るとよく寄ります。当時は、生協の食堂とそんなに変わらない値段だったような記憶があります。 今は、サービス定食が830円。ちょっとお高い感じですが、ボリュームと味は値段比大満足です。生ビールもいただきました。 「おおさかぐりる」 食券を先に買うようになったのが、以前行ったときからの変化点でした。 「サービス定食」830円 これにご飯と味噌汁が付きます。ご飯のおかわり無料のようです。(これは店の前のサンプルで実際は少し小さいですが)「新梅田食道街」について調べてみました。************************************ 1950年(昭和25年)に開業。元々は旧国鉄時代の施設関係の退職者に対する救済事業として設立されました。飲食店は素人ばかりながら、くいだおれの大阪なら何とかやれるのではないかと、すでに営業されている2、3の玄人店にも参加を願い、その指導を仰ぎながらのスタート。店舗数は開業当時は18店、現在では約100店舗が営業中。何故「新」? イメージとしてはここは梅田のど真ん中。どうして「新」なのかは諸説有り、今となってははっきり覚えている人はいませんが、次の説が有力。 昭和25 年頃と言えば、まだ戦後の混乱期。しかしこの周辺は大阪の中心地として復興も急ピッチという時代です。梅田は北を代表とする地名で、地下鉄・阪急・阪神の駅名でもあります。その中で「梅田」と名付けるとかなり広い地区を意味し、この食道街の所在地を特定しにくいこと。また、国鉄大阪駅の高架下を借りているのに、「梅田」は付けにくいという駅名への遠慮。 また、早く元気な梅田を取り戻し、新しい梅田の活力となる、みんなが気さくに楽しめる飲食の場をとの願いを込めて…などなどから「新梅田」となった。※実際には、この時代の梅田と言えば、阪急百貨店(御堂筋側のみの建物で8 階建て)と、3 階建ての阪神百貨店、それと国鉄大阪駅で取り囲む一帯という地区イメージが強かった。阪急電車の梅田駅はこの当時は、現在の百貨店横の広いコンコースがホームであり、国鉄線の下を通って発車していた。 この位置関係からすると、新梅田食道街はやはり梅田といっても端っこという感が強く、何らかの遠慮があって「新」を付けたのではないかと…。 蛇足ながら、梅田地下センター(現ホワイティ・ウメダ)が開業したのは1963 年(昭和38 年)11 月。この前後からまさに地下街時代を迎えることになるが、昭和25 年当時はまだ地上の時代である。なぜ「食道街」? 普通なら食「堂」街ですね。一つ屋根の下で同じ事をするのが「堂」。ここはいろんなものを食べさせ、飲ませる店が、狭い通路に並んでいる。だから「道」なのだと、今は亡き北京の先代当主・齊木信孝氏の命名によります。************************************ 再開発で昭和レトロの地下の飲み屋街が次第になくなる中、ここは元気に営業を続けています。残って欲しい一画です。 よく行ったブックファーストに行こうと思って探したのですが、見つからず。帰ってきてから調べたら、入居していた新阪急ビルの建て替え工事を契機に閉店したようです。地下鉄で梅田から西長堀へ。 大阪市立中央図書館で午後3時から6時半まで本を読んだりして時間をつぶしました。薄い文庫本を一冊読みました。読んだ本は http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201601220007/ 歩いて本町の飲み会会場へ。合計15,000歩でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「散歩・草花記」カテゴリー 色んな花が登場します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=15