収穫の肝心な時の支援者
ものごとには肝心な、決定的な時というのがあります。
みかんの収穫も同じで、大事な時というのがあります。
みかんの収穫にも、昨日までならいつでもよいようにみえていたものが、
明日ではもはや決定的に遅すぎるという時があります。
1月9日(木)、小田原のみかん園に、二人の収穫者が応援に来てくれました。
小田原の地域では、温州みかんの収穫は12月のうちに終えて、みかん小屋に収納されています。
それは、みかんの木を弱らせないためでもあるでしょうが、
日ごろの、のんびりとしたみかん園風景からしたら考えられない、集中力で収穫されます。
その集中力の乏しい当方などのみかん園には、
まだ木にみかんの残る畑として、みかん山じゅうのヒヨドリが集まってきています。
鳥たちに目を付けられた熟した木は、数日間でみかんは皮を残すだけとなります。
「明日では遅い」ということは、このことなんですね。
鳥たちには、盆暮れも正月も、社会生活の用事のあれこれもないんです。
ただ、熟したみかんが多くある木に、数十羽が大挙してやってくるんですね。
人間も、12月-1月というのは、社会生活からしてあれこれと忙しい時期じゃないですか。
回避する理由には、事欠かない時期でもあります。
私なども、立場が逆であれば、逃げ回っていたことでしょう。
しかし、対自然との関係では、逃げ口上というのは、いっさい通用しないんですね。
呼びかけに答えてくれた人、
呼びかけることなど出来る関係ではないのに、収穫作業をかって出てくれた人、
ここには、現瞬間の課題に対する見識があります。
意識的にも、無意識的にも、自然の事態と重なり合っている行動なんですね。
このお二人の協力を得て、本日は6コンテナ=120キロのみかんを、
それがなければ、ヒヨドリたちが食い荒らしていたみかんでしたが、
1月のこの決定的な時期に、ギリギリの努力によって、人間が確保することが出来ました。
当初、木の中と外でピーピーと激しく鳴き騒いでいたヒヨドリたとの声でしたが、
人の収穫作業がすすむとともに、その声が静かになってきたと感じるのは錯覚でしょうか。
自然の富、産物を、人が収穫するかヒヨドリが食い荒らすかで、この日々・刻々と激しい競争が展開されているわけですが。
今回の収穫、6コンテナは、人がヒヨドリたちから取り返した、奮闘の成果なんです。
八百屋さんには流通の関係でいつでもみかんがあるように、消費者にとっては見えますが、
たとえ短時間であっても、みかん畑に一度足を運ぶと、
現実の関係がどうなっているか見えてきます。
美味しいみかんは、収穫ポイントの決定的な時に努力を尽くしてこそ、人は手に出来るんですね。
これは、口を開けて待っているだけのひとには、自然と切り離された人にとっては、分からないことですが。
私なども、少し前までは、送られてくるみかんを、待っていただけでしたから、同類だったんですが。
流通の活発なことは結構なことですが、生産があっての流通であることも現実なんですね。
消費者が賢くならなければ、確かな明日は開けないし、
生産者と消費者が、お互いを理解しあわなければ、確かな暮らしは実現できないということです。