ヘーゲル『大論理学』16 本質論へ接近する一つの道
ヘーゲル『大論理学』学習は、第二巻『本質論』に挑戦していますが、足踏みが続いています。
今回は、本質論にはいって模索する中から、私なりの一つの接近方法の紹介です。
一、大体でよいから全体像をもつことが大事だと思うんです。
ヘーゲルの著作というのは、どれもごつごつとしていて、なかなか私などの手には負えないんです。
たとえば、富士山に登ろうとして、ふもとの登山口にたったときの様なもので、頂上への道が分からず迷路の状態に置かれることになるんですね。『大論理学』の学習などはまさにそれです。
ヘーゲル自身はそれがわかっていて、別の個所でアドバイスしてくれています。
「我々は個々のものに入る前に、まず一般的な見通しをつけておかなければならない。そうでないと、ただ個別的なものだけを見て全体を見ず、ただ木々だけを見て森(が見えなくなる)。精神は自分の全体の目的と規定とについて一般的な観念を獲得しておくことが要求される。それは、我々が何を求むべきかを知るためである。即ち我々が個々の部分に入っていくとき、やがて見失ってしまう風景を全体として概観しておこうとするように・・・、何故といって、個々の部分は実際は、その全体への関係によって、独自の価値をもつことになるものだからである。」(『哲学史の序論』(岩波文庫 P45)
ようするに一般的でよいから全体像をもてということです。
これが私などには一つの問題でして、容易でないんですが。でも「迷路」にはまるというのは、自分の今の学習している位地が見えずに、ひたすらお先真っ暗な中でトンネルを掘っていく様な、そんな状況におちいるわけですから、このヘーゲルのアドバイスは大切なことなんです。
二、本質論の全体像、一般的見通しをえるための副読本ですが。
それはある程度コンパクトなものでないとその学習自体が大きな作業となってしまいます。大作だと概観・前提をつかむという、そもそも目的が見えなくなっちゃいますから、短めのものを選んでます。
その点で、2冊を手元に置いています。
1つは、鰺坂編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)
これは10名の方の、日本の現代の哲学者によるに入門書で、参考になります。
もう1つは、カール・ヘーゲル『論理学講義 ベルリン大学1831年』(文理閣)
これは晩年のヘーゲル自身による論理学講義を、息子さんが聴講し記録したものです。推敲を重ねた文章とは違って、限られた時間で、学生に理解してもらおうと配慮して語っているんですね。
この二冊を一般的見通しをつかむ上で活用しています。
三、さらにヘーゲルの「本質論」をつかむ上で、もう一冊大切な著作があります。
エンゲルスの『フォイエルバッハ論』(1886年掲載、1888年単行本)です。
エンゲルスはこの第一章で、ヘーゲル弁証法について検討しています。
「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」
-この『法の哲学』序論の有名な命題をもとにして、エンゲルスはヘーゲルの弁証法を検討しています。
その内容を見ると、ヘーゲルの『論理学』の本質論を中心にして解明しているんですね。
本質論と弁証法を学ぶ上で、大事なヒントを残してくれているわけです。
エンゲルスは1883年にマルクスが亡くなって、その遺稿集に目を通すようになった。当時の哲学史の到達した成果を踏まえない雑多な風潮がある中で、あらためて哲学的世界観についてもその成果を明らかにしようとしたんですね。マルクスの果たした業績を再確認しているんですね。その必要性があったというんですね。
一つは、そもそもエンゲルスにはその基礎研究があったんですね。晩年のマルクスの経済学研究と分担しつつ、共同でエンゲルスは自然科学と弁証法の研究を、10年くらいしていたんですね。それにはヘーゲルの論理学も含まれてます。その遺稿集が『自然の弁証法』として残されているんですね。これが基礎にあったから『フォイエルバッハ論』のコンパクトなまとめができたんですね。
もう一つは、エンゲルスにとって『フォイエルバッハ論』(と『反デューリング論』)の意義ですが、
「これらの著作で私は、現在あるもののすべてのうちで、史的唯物論について私の知るかぎりではもっとも詳細な説明をしています」(ヨーゼフ・ブロッホ宛の手紙 1890年9月21-22日付)、
ヘーゲル弁証法についての検討も、刊行されたものとしては、これが一番詳細だと思うんです。
エンゲルス自身がそのように評価しています。
この著作を生かしてヘーゲルの『論理学』の原典に当たること、ヘーゲル弁証法を検討していくこと、
これも大事な歴史的なアドバイスだと思うんです。
以上、私などの『論理学』への道ですが、これらでだいたい見えてきたと思うんです。
問題は、一般的な見通しをたてつつ、具体的に足を踏み込むということ。そして、一歩一歩、登山を開始することが肝要だと。
まぁ、これが、この間の私などの結論です。