ヘーゲル『大論理学』31 三巻三篇二章「認識」その1
最近、私などは感じているんですが、名にしおうヘーゲルだし、その主著『大論理学』ですが、
私もそうでしたが、多くの素人が、その高名からして挑戦して、きっとその難しさに投げ出したでしょう。
他方、哲学の研究者は、その責任感から全体を理解しようとはするんですが、その難解さの苦しさから、よく理解できないことから、自己勝手な解釈論をはじめだすんでしょう。
その一方、科学的社会主義の権威者とされる人は、教科書的な解釈をするだけでお茶を濁している。
こうした中で、一部の地道な努力があるんだけれど、この難攻不落の山を解きほごそうとして、いろいろな努力をしているんだけれど、貴重な努力の成果があるんだけれど、それは一般には目につかず、あまり知られることはないんですね。
だいたい、私などがみるところのヘーゲルをめぐる目下の状況です。
それはともかくとして、
今回からヘーゲル『大論理学』の第三巻「主観的論理学または概念論」、
その第三篇「理念」の第二章「認識の理念」にはいります。
今回でヘーゲル『大論理学』の学習も31回目です。
あと残りは、第二章「認識の理念」と第三章(最終章)絶対的理念、この二つです。
今回から、第二章「認識」に入りますが、
最初にあたり、私などがこの「認識」論にどの様に接近するか、です。
面白いと思いませんか、この「認識」ということが、私たちにとって日々問われる認識ということが、この大部な『論理学』の展開からして、その終わりから二番目のテーマになっているんです。
いったいヘーゲルは、この「認識論」においてどの様なことを展開しているんでしょうか。
まぁ、この「認識論」への想像や期待はともかくとして、この難書への接近をどうするかです。
一、この難書を越えるための方法ですが、
これまでもの方法の一つですが、ヘーゲルが同じ対象・内容を、いろいろな著作でどの様に論じているか。それらの著作を比較するすることが、中身に迫っといく一つの方法だと思っています。
この第三巻・第三篇・第二章の「認識」ですが、
1、1816年に書かれた「大論理学』では68ページを使っています。これが本格的な最初の論文です。
2、『小論理学』、その第三版は晩年の1830年刊行ですが、岩波文庫で16ページ分です。これ大学での講義のテキストとして、くり返し使われてきたものです。
3、『1831年 論理学講義』では10ページ分です。これは晩年にヘーゲルが実際に講義したその記録です。限られた時間に、若者たちに中心が伝わるように配慮されたものです。
この『論理学』の3書は、その中身は同じはずなんですが、それが出された時・場所・聞いている相手・全体の持ち時間、などによって、その同じ内容がそれぞれの条件で表現がいろいろ違ってくるんですね。
私などは、この難書を理解するには、この同じことの表現の違いを比較して、その言いたい点を理解することが、この難書を攻略する一つの方法だと思っているんですね。
その点では、この『大論理学』ですが、これははじめて本としてまとめ刊行物ですし、学者間の論争にすきをつくらないようにと、くり返し推敲されてち密に書かれているんですね。おそらくこれを理解するのが難しいのは、この事情にあるんじゃないかとおもっています。
二、この『大論理学』を理解するための方法として、もう一つは、この書の全体観を大よそにでももって、ここの論述(細目)にあたることが大事じゃないかと。これはヘーゲル自身もアドバイスとして述べていることなんです。
確かにヘーゲル自身も、全体の序論をかいていますし、各章のはじめには「まえがき」にあたるものを書いています。これが、本論を理解していくためのヒント(案内)になっているんじゃないかと思います。
今回の「認識」の場合ですが、『小論理学』では、第223節、224節、225節がそれにあたります。
これらの節がおおよその案内にあたる、それは本当でしょうか。
その内容ですが。
その受け止め方はいろいろあると思うんですが、私などはは、少なくとも次のような諸点が含まれていると思っています。
もちろん主題は、人間の「認識」ということです。
そのまえがき部分からですが、
1、認識とは何か。論理学にとって認識とは何か、ですが。
人の主観が、対象である客観的なものをとらえる、ということですが。この基本的な「認識」ということについて、ヘーゲルはいろいろ考察しているんです。
ヘーゲルは客観的観念論者です。注意して読むと「客観的なもの」といっても、それは「客観的なものとしての思想」なんです。対象としてのものではなくて、対象としてとらえたところの思想なんです。ものじゃなくて思想なんです。ものか観念なのか、この違いは大きな問題であり、違いです。
人の主観ものをとらえる、これは人がとらえた観念ですが、しかしそれは対象そのものではなくて、観念・思想としてとらえた客観性であり、客観性としての思想だというんです。
ここに大きな違いがあることが分かりますか。観念論者としてのポリシーがあることが分かりますか。
しかしそうなると、主観的な概念と、対象の客観的概念の二つの概念(観念・思想)が出て来る。
素朴には主観と客観の関係ですが、ヘーゲルにとっては思想・概念の二つの分割があるとみているんです。
その上で、主観的観念が客観的な概念をとらえること。この「とらえる」ということをめぐっても、カントやフィヒテ、ヒュームの不可知論・懐疑論が「『物そのもの』というのはとらえれない」といってるのとは違って、ヘーゲルは理性は現実のなかにあるし、人はそれをとらえることができる、これが認識なんだ言っているんです。この違いが分かりますか。あのゴタゴタした表現の中で、これを言いたくて、これを説いているんです。これがヘーゲルの功績なんです。
2、この認識の活動には二つの仕方がある、とも言ってます。
理論的なものと実践的なもの、分析的なことと総合的なこと、この二つの仕方があると。
理論的なことというのは、対象を分析していく方法なんですが。客観がまずあり、その対象の真相を知ろうと分析していく、我々がふだん日常的にしていることなんですが。
もう一つの実践的な方法というのは、総合ということですが。今度は主観が中心で、人の主観な意図が描いたものに、対象としての客観を変えていくということです。「世界を変えて、世界を主観的なものに適合させ」(『論理学講義』P239)るということです。
この二つの認識の方向、方法の違いをヘーゲルは指摘しています。
私などは、マルクスの『資本論』を読もうとした時に、マルクスには『経済学批判の序説』という論文があって、そこでは上向法と下降法との二つの道が説かれていました。マルクスのこの二つの方法というのは、このヘーゲルの論理学とも重なってくるんですね。それが考え方のもとになっているんですね。こんなつながりあいがあるんですね。
いったい、どの様な重なりがあるのか、それは今後の問題点ですが。
これから第二章「認識」を学ぶにあたって、ざっと読み始めたときに、うかんできたところの雑感です。
これからこんなことも、念頭に置きつつ、「認識」を探っていきたいと思います。