田舎について考える
最近は田舎に移住して地域おこしをやろうとしたりYouTuberをやろうとしたりする人がしばしば地元民と揉めたりしているので、田舎について考えることにした。ちなみに私は人口10万人程度の港町で育ったけれど、駅がある中心部以外は畑と田んぼが広がっていたので若干田舎だと思う。●田舎とは何か田舎は都会の対義語で、家が少なくて田畑が多い農村や漁村などの場所を指す。田舎と言っても程度の幅があって、都市部まで電車や車で1時間程度の距離ならそれほど不便でもないけれど、山奥とかの過疎地になると町の中心地となるような商店街や商業ビルがなかったり、客が少なくて採算が合わないので飲食店や小売店が少なかったり、インフラが貧弱で消防署がなくて消防団で消火活動したり、人材育成の拠点になる学校がなくて他の町まで長距離通学しないといけなかったり、駅がなくて車が必須だったりして不便である。田舎には自然が多いけれど手つかずの自然でなくて誰かが開墾して整備してきた里山なので、森にも人の手が入っていて林業や山菜取りをしているし、川も治水されていて魚が遡上できるように魚道が作られたり田んぼへの水路が作られたりしていて、間伐や除草や排水溝の掃除とかの手間もかかる。「自然が豊か」というのは決してリゾート地のような写真映えするような素敵なものでなくて、放っておくと草木や害獣や害虫が家を侵食してくるし冬は雪の重みで家が潰れるので動植物と縄張り争いする生存闘争に近いし、除草や雪かきや害虫駆除とかの利益にならない作業が多くて時間をとられるので仕事の効率も悪い。都会の人は田舎暮らしに理想郷のような幻想を持つのだろうけれど、田舎の実態を理解しないまま移住した人は必然的に失敗する。・田舎者は純朴ではない新潟出身の坂口安吾は『堕落論』で、「一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである。農村は淳朴だという奇妙な言葉が無反省に使用せられてきたものだが、元来農村はその成立の始めから淳朴などという性格はなかった。」と田舎者を批判している。私も田舎者を純朴と美化するのは間違っていると思う。南極のペンギンみたいに初めて人間をみて無防備にわらわら近寄る好奇心旺盛な田舎者もいるだろうけれど、そういう人は進学や就職を機に田舎を去るだろうし、北センチネル島のセンチネル族みたいに交流を拒否してヘリコプターに弓矢を向けてくる感じが田舎の人間の本性だろう。地域猫でない野猫も人になつかなくて餌をあげようとしてもやたらと攻撃的で威嚇したり臆病ですぐに逃げたりする。田舎ではろくに教育を受けられないので無知で、無知だからこそ未知のものを怖がって、よそ者を見たら泥棒か詐欺師か何かだと思って疑い深くて偏見に凝り固まって攻撃的になる。田舎は飢饉や自然災害とかで困窮してきたので耐乏精神はあるけれど、明治時代から高度経済成長期までの栄えている都市に出稼ぎに行くという思考で止まっていて、自分たちが田舎に産業を作って豊かにするという発想がなくて、金の使いどころを理解していないので教育や産業に投資をせずに補助金目当てに利用者がいない箱物を立てたりして人材や産業が育たないし、文化レベルが低いとそのぶん民度も低くなる。例えば秋田県は見栄っ張りな県民性だと言われていて、実用性よりも見栄を張るために豪華な車や服を買って無駄ともいえるような金の使い方をする一方で、上小阿仁村ではよそから来た医師が高給取りと嫉妬されて定着しないし、2022年の人口動態統計では秋田県は出生率も婚姻率も全国で最低で自殺率も一位になっているので、秋田県には地域特有の問題があるといえる。さらに田舎は人が少ないが故の縁故主義になりやすくて、同じ町長が長年議会を牛耳っていたりするし、市町村議会レベルだと候補者も少なくて無投票当選になったりして変な政治家も多い。新参者の若者やよそ者が無知で頑固な老人たちを変えようとしたところで和を乱すとして対立を招いて多数派の老人たちに疎外されて、不毛な労力をかけるよりもその土地を去る方が個人としては幸せになれるので若者が去って高齢化して人口が減って町村合併して消滅したりしている。田舎者は他の町の成功を見ても他所から学ぼうとしないし、無駄に近隣の市町村に対抗意識を持っていて市町村合併を拒んだりしてつまらない争いをしている。そもそも田舎者に合理性があればよそ者から文化や技術を学んでもっと発展しているはずで、閉鎖的でよそ者を受け入れない保守的なところが発展しないのは必然である。江戸時代は移動制限があって鑑札をもらって関所を通らないと他の藩に行けなかったので農民は土地に縛られていて移住できなくて藩同士の交流も乏しかったけれど、その中でもよそ者と交流が多いところは顕著に発展した。出島がある長崎、北前船の西回り航路の立ち寄り先の日本海沿岸部の港町、米問屋があって商人があつまる大坂、参勤交代で全国から大名が集まる江戸とかで特産品の交易とともに文化や技術も伝播した。例えば宮津節という民謡が江戸末期に日本中の花柳界で流行したそうだけれど、これは丹後に立ち寄った北前船の商人から口伝で伝わったもので、よそ者との交流から文化の発展につながったといえる。岐阜県の白川郷みたいに世界遺産として生活様式を残すほどの価値がある田舎はあまりないのだから、観光名所や産業とかの売りがない田舎こそ開放的になって移住者や観光客を呼んだりして変わろうとしないと発展しない。昔は田舎は本屋やテレビ局が少なくて都会と情報格差があったけれど、今はインターネットが普及して情報格差はなくなったのだから田舎も変わってもよさそうなものだけれど、田舎の実権を持っている老人たちが電子機器を使えないし使い方を覚えようとしないので技術革新や合理化が起きなくて、電卓とFAXを使う昭和の頃の価値観のままで進歩が止まっている。・田舎の生活費はそれほど安くない田舎は地価が低いので家賃こそ安いものの、移動に車が必須なのでガソリン代や車検とかの車の維持費がかかるし、なまじ土地が広い分インフラ整備に金がかかるので水道代やガス代が高いし、雪国では暖房の費用もかかるし、小売店が少なくて競争が乏しいので加工食品は東京より高い。庭や畑で野菜を育てられるならそのぶん食費は安く済むけれど、水やりや除草とかの手間がかかるので労働時間を時給換算したら安いというほどでもない。東京と同じ広さのアパートに半分の家賃で住めるとしてもそのぶん他の出費が増えるので、大きな家に大家族で住むなら田舎のほうが割安になるけれど、単身ならトータルの生活費は都会とあまり変わらない。●田舎暮らしのメリットとデメリット・生活の基本がある自分が食べるものを自分で栽培して収穫するのは生きる上で基本的なスキルである。農家がいろいろな仕事をやっていたので百の姓があるということで百姓と呼ばれたように、畑の柵を作ったりもするし、梅干しや梅酒や干し柿とかも作るし、農閑期は藁で縄を作ったり竹で籠を編んだりする。豊作なら親戚や近所へのおすそ分けもして、近所との人付き合いもあって孤立しない。庭の手入れとかで毎日何かやることがあるので、忙しい半面で体を動かすことが多くて日々の生活に充実感がある。大きな木がある古い神社や江戸時代の頃に作られた町割りを見ると伝統を継承しながら歴史の中の一時代を生きているという時間の感覚を持ちやすいので、都会みたいに故郷もなく孤立するような感覚がない。・食べ物がおいしい田舎では旬の野菜や果物が食べられる。港町だと魚が新鮮なのでスーパーのパック寿司でさえ十分おいしい。山の近くだとたいていソバを栽培しているのでソバがおいしい。私が大学受験のために上京したときに食べたコンビニ弁当のチャーハンがすごくまずくて、こんなものに値段をつけて売っているのかとびっくりした。逆に言えば、コンビニ弁当ばかり食べていた人が田舎に行ったら食べ物がうまくてびっくりすると思う。あと田舎は車の交通量も少なくて空気もきれいなので、散歩するだけでリフレッシュできる。・創造力が培われる田舎は動植物が多いので好奇心旺盛な子供にとっては退屈しない。私は実家から徒歩10分で海に行けたので、子供の時はしばしば放課後にビーチコーミングして貝殻を拾ったり、流木を拾って彫刻したり、防砂林でキノコやアケビやアリジゴクやミノムシを観察したり、キジやウグイスやヒヨドリの声を聞いたり、オジギソウをつついたりキイチゴをつまみ食いしたりしていた。父の実家は山のふもとにあったので、祖父母に会いに行くときは山でオニヤンマを捕まえたり、田んぼで蛙を捕まえたり、川で小魚を捕まえたりしていた。実家の庭の巣箱には毎年シジュウカラが営巣していたし、親戚の家には毎年ツバメが巣を作っていたので、鳥の子育ての様子を間近で観察できた。風の湿り気と土が濡れる臭いで雨雲が近づいてくる気配もわかる。都会みたいにスマホを通じて視覚と聴覚の情報だけが入ってくるのに比べて田舎は五感の刺激が多いので、そのぶん認知能力が向上すると思われる。雑木林にはスマホのナビとかもないので、どっちに行って何をするのか自分で意思決定する必要があるので非認知能力も向上すると思われる。岐阜県では里山学習として森遊びの体験を提供しているけれど好評のようである。都会の小学生が夜10時くらいまで塾に通っているのを見ていると、くたびれるまで外で遊んで夜はちゃんと寝る田舎の生活のほうが健全だと思う。子供を田舎でのびのびと育てたくてわざわざ都会から引っ越す人もいる。芸術家もしばしば静かな田舎にアトリエを作って、森や海とかの周囲の環境からインスピレーションを得ている。・人間関係が面倒くさくてDQNが多い田舎には私立学校がほとんどないので私は高校まで公立学校だったけれど、私が行った中学は市内で一番荒れていて体育教師が不良に膝蹴りされて内臓破裂したりしてたまに警察が学校に来たり、教師が泣きながら職員室に引きこもって授業が中断されたりしていて、教育環境はよくない。DQNに対応する精神力は鍛えられるけれど、いじめとかで潰れる子供もいるだろう。大学に行く人は進学を機に人間関係がリセットされるけれど、ずっと田舎暮らしだと学校の同級生や先輩後輩の人間関係がずっと付きまとうし、車の車種も覚えられてどこに出かけていたとか噂される。それに高卒のマイルドヤンキーが地元に残ってつるむのでDQN率も高くなるし、都会では絶滅した暴走族が田舎にはまだいたりする。田舎は人目につかないところが多いので山や川へのごみの不法投棄もある。犬飼いの民度も低くて無駄吠えしたり放し飼いしたりうんこが路上に放置されたりしていて、私が小学生の時は登下校の道で犬のうんこが雪に埋もれているトラップだらけだったし、放し飼いで飛び掛かってくる好戦的な犬がいたりした。田舎は持ち家が多いので、隣人ガチャが外れてもアパートほど気軽に引っ越せない。町内会の加入拒否や会費の使途をめぐるトラブルもしばしばある。回覧板を隣の家に回すのも非効率で、町内会のホームページやブログを作るなりすればいいのに、たぶん老人がパソコンやスマホを使えないのでアナログなやり方のままなのだろう。・虫が多い土手を自転車で走っているとイナゴが飛んできてバチバチと顔に当たるし、メマトイがしつこく目の周りにまとわりつくし、家にカメムシが侵入してきて臭いし、ムカデも侵入してきて危ないし、植木の葉っぱにイラガとかの毒がある毛虫がいて危ないし、庇に蜂が巣を作ったりして危ない。林の中を散歩していると巨大なクモの巣に気づかずにつっこんで顔がねとねとになったりする。虫が嫌いな人にはストレスが多いだろう。・仕事が少ない田舎の一次産業の農業や漁業はたいてい世襲で、工場はあるけれどサービス業があまりないので、土地を持っていない人や普通科を卒業した人は仕事の選択肢が少ない。よそ者は田舎に引っ越して新規就農しようとしても農地を貸してもらえなかったりするし、役所がイオンとかの大型スーパーマーケットを誘致しようとしても地主や商店街が拒否したりして新規に雇用を生む産業も起きにくい。公共事業も減らされて田舎で稼げる仕事の定番だった土建業さえも成り立たなくなりつつある。●田舎の重要性都会には人も金も集まるので発展しやすいけれど、田舎を放っておいて廃れさせてよいわけではない。特に安全保障の面では一極集中よりも人口を分散させる方がメリットがあるので、田舎も維持して整備する必要がある。・防衛の要になる日本の端の北海道と沖縄と島嶼部は国防において重要なので基地があって、海上保安庁が中国や北朝鮮やロシアの船を警戒している。もし田舎をほうっておいたら密入国し放題になって不法移民が居ついたりするし、ロシアのウクライナ侵攻みたいに外国に侵略されたときにちゃんとした道路や橋や港がないと部隊を配備して迎え撃つこともできないので、金をかけて警備する必要がある。・リスクヘッジになる田舎でも高速道路や電車や港や空港などのインフラが整っていると災害が起きたときの救助や復興も迅速に効果的に行えるようになる。例えば東日本大震災が起きたときには隣の県から支援物資を輸送して炊き出しをしたり家をなくした被災者を受け入れたりした。もし南海トラフ地震が起きたときには反対の日本海側が支援する側になるので、太平洋ベルトだけに集中して投資するのでなくて日本海側にも投資してインフラを整備することがリスクヘッジになるし、もし地震で東海道新幹線が潰れても日本海側を経由して東京と大阪を迂回できるようなルートがあれば復興も早くなるので結果的に損失が少なくて済んで投資が無駄にならない。特に都市部は人口が多いのに自分で食料を生産できなくて輸送が生命線になるので、大都市間のインフラ整備だけでなくて付近の田舎から食料を調達する輸送ルートが複数あることが重要になる。戦時中でも都会の人が田舎に疎開したおかげで空襲を逃れて生き延びた人もいたし、私の実家の付近では集団疎開してきた人たちのために畑を潰して家を建てて、田舎暮らしが気に入った人たちが戦後も帰らずにそのまま住み続けたそうな。田舎の駅や港や空港は利用者が少なくて赤字なので無駄だと言われがちだけれど、緊急時の輸送手段が増えるという点では無駄ではないので、帳簿上の利益だけ見ずに帳簿に乗らないリスクを軽減するためにインフラを維持するべきである。国土が上下に長くて北と南で気候が違うのも農業や漁業をするうえでメリットが多くて、例えば何かの魚種が不漁でも他の地域で他の魚種が豊漁になったりして多種多様な食材を調達できるので食料不足になりにくくなる。●田舎とフィクション都会の人の田舎のイメージはフィクションによるものが大きいと思う。『となりのトトロ』や『おもひでぽろぽろ』みたいにのどかな田舎暮らしを美化するとか、『八つ墓村』や『TRICK』みたいに陰惨な事件が起きたり「祟りじゃー」という迷信深い老婆が出てきたりするとか、ステレオタイプが両極端である。森敦の芥川賞受賞作の『月山・鳥海山』は自身の体験を基に貧しい田舎の実像を描いていてよいと思うけれど、リアリティを重視すると地味になるので大衆受けはしない。『ばらかもん』や『Dr.コトー診療所』は島が舞台で、島は人口が少ないがゆえに人間関係を濃密にして特色を出しやすいものの、癖が強い島民と仲良くするという人情もののステレオタイプな展開になりがちである。島でなくて何の変哲もない田舎は舞台にする価値があるのかというとあまりない。『東京喰種』みたいに誰でも知っている都会を舞台にした方がお洒落な感じで華があるので、田舎はエンタメの舞台になりにくい。もし『埼玉喰種』とかだったらダサい感じがして流行らなかったかもしれない。『SR サイタマノラッパー』みたいに田舎で格好つけようとするギャップを売りにするやり方もあるけれど、何度も使える手法ではない。登場人物が方言を使うと大多数の人が理解できないのも作品作りの制約になっていて、それゆえに田舎を舞台にしていても主人公はたいてい田舎育ちでなくて都会から田舎に行って標準語を話す人が多い。そうなると都会人の目線で田舎を観察して田舎の珍しい慣習や行事に驚いたり感動したりしてリアクションする構図になって、田舎の表層をなぞるだけの似たような展開になってあまり面白くならない。じゃあフィクションでは田舎をどう描けばいいのさという話になる。田舎を異文化として異化するにはリアリティが必要になるし、方言とかの細部にこだわらないと田舎の個性は出ないので、現地を取材して歴史や地理や地元民の慣習を把握することが必須になる。自分の地元や転勤とかで長期間住んだことがある場所を書くのなら問題ないけれど、北条裕子の『美しい顔』みたいに行ったことがない場所を資料と想像だけで書こうとするとリアリティがなくなるので、取材できないなら実在の田舎を舞台にしない方がましである。田舎を都会でない場所として異化の装置として使ったり、都会に対するアンチテーゼとして使ったりするのでもネタにはなるけれど、身土不二や地産地消とかの田舎ならではの思想やその土地の個性を描ければ田舎をもっと活かせるかもしれない。富士山が日本のシンボルになっているように田舎の山も象徴主義のシンボルとしても使えるし、シンボルやメタファーの選択肢が多いと言う点では純文学とは相性がよさそうである。スタインベックの『怒りの葡萄』は大不況で土地を追われた農家の物語としてみれば田舎の話といえるし、パール・バックの『大地』も祖父は農民で、ヘミングウェイの『老人と海』は田舎の漁師の話だけれど、日本だと田舎の小説と言えばコレというような大作がない。「水木しげるロード」みたいに作者の出身地が観光名所になることがあるけれど、うまく田舎をフィクションにできたらいわゆる聖地巡礼としてファンが来て観光にも役立つしスポンサーがつきやすいので、これから田舎系フィクションが発展する可能性はあると思う。今までファッションや音楽とかの文化は渋谷や原宿とかの都会が発祥で田舎に伝播する感じだったけれど、インターネットで情報格差がなくなった現代では田舎こそユニークな価値を発信できるかもしれない。バルビゾン派が田舎発祥だったように、文学でも田舎発祥の流行を起こしたら面白いと思う。