戦争と殺人について考える
最近はパレスチナの武装組織のハマスがイスラエルを襲撃して市民を殺害している。ロシアのウクライナ侵攻も終わりが近いと言われながらも相変わらず続いていて、双方で数万人が死亡している。世界は戦争と殺人だらけで、どんなに経済が発展しようが戦争で財産を壊されたり殺人で財産を奪われたりしては意味がないので、人類が豊かな文明を築くためには戦争や殺人が起きないようにしなければならない。天変地異で天寿を全うせずに不本意に死ぬのは運が悪かったので仕方がないとあきらめがつくけれど、戦争や殺人は人間の意志で避けられるものである。というわけで徒然なるままに戦争と殺人について考えることにした。*この記事には殺人に関するショッキングな記述があるので、子供や豆腐メンタルの人やトラウマを抱えた人はラウンジを聴いて濃い目のココアを飲んで半身浴してかわいいコアラの子供が母親のうんこを食べる様子を想像したりしてリラックスしながら薄目で読んでください。●なぜ人は人を殺すのかしばしば小賢しい子供が「どうして人を殺してはいけないのか」という質問をするけれど、これは問いの立て方が間違っていて、べつに人を殺していけないわけではない。理由や条件によっては人を殺しても刑罰がない場合と刑罰がある場合があるわけで、正当防衛では殺人が無罪になることもあるし、絞首刑のスイッチを押す人も罪に問われないし、胎児の堕胎も人として認められる以前の段階なら医師は罪には問われないし、戦争でも国際法に従っている限り敵の兵士を殺しても罪にはならない。そもそもなぜ人は人を殺すのかを理解しないことには殺人を防ぐことはできない。・物や金目当ての殺人他人を殺して持ち物や財産を奪う強盗殺人は発展途上国では頻繁に起きる。女性は力づくで金を奪おうとしても男性には負けるけれど、生命保険目当てに好きでもない人と結婚して病気や事故死に見せかけて殺害するパターンがしばしばある。金をもらって殺人を引き受ける殺し屋や、金をもらって自殺志願者を殺していた座間の男も金目当ての殺人と言える。誘拐して身代金を要求して交渉が決裂して殺人するのも金目当ての殺人と言える。1913年の愛知貰い子殺人事件では養育費をもらって200人ほどの私生児を引き取っておきながら育てずに殺している金目当ての大量殺人である。・恋人を巡る殺人配偶者を見つけて子孫を残すことは人生の大きな目的になるので、浮気をして愛情を裏切ると憎しみに逆転してしばしば殺人事件に発展していて、浮気をした恋人を殺すパターンや、恋人の浮気相手が殺されるパターンがある。・復讐のための殺人ハンムラビ法典に「目には目を、歯には歯を」とあるように、やられたことと同程度のことをやり返すのは遺恨の解消のために認められていて、ある程度の復讐を認めることでやられたこと以上にやり返すことを防げたと思われる。江戸時代は仇討ちは美徳とされて、子供が殺された親の仇討ちの旅に出て下手人を自分で始末していた。南米のギャングは警察が取り締まれなくて対立するギャング同士が延々と報復をし続けているように、現代の法治国家で復讐を認めると復讐の連鎖が起きて収拾がつかなくなるので復讐は認めていなくて復讐したら情状酌量にはなっても有罪だけれど、国家が復讐する権利を取り上げたかわりに死刑がある。光市母子殺害事件だと被害者遺族の本村氏が犯人が死刑にならないなら出所した時に自分が殺すというようなことを言っていたように、遺族感情も考慮して極悪な犯罪者は死刑になる。・カッとなって殺人サルなみの知能しかないDQNは誰かと目が合ったり言動を注意されたりするとムカついて、相手を排除することでストレスをなくそうとして後先考えずに短絡的に殺人をする。ラーメン屋で他の客と口論になって踏み殺した人とかが典型的で、酔っているといっそう自制心が働かなくなって敵を攻撃しようとする。・自暴自棄になって殺人自暴自棄になった人が道連れに誰かを殺して自殺するパターンは拡大自殺と呼ばれる。一家心中だと誰かが思い詰めて家族を不幸にするくらいなら一緒に死んでしまおうと考えて家族を道連れにするけれど、無理心中をしようとしたのに犯人だけ自殺が怖くて生き残るパターンがしばしばある。・支配のための殺人戦争はたいてい権力や領土をめぐって起きて、相手の勢力を殺害して王位に就いたり、領土を獲得したりする。たいていの国は征服されたり内乱が起きたりして王家が長続きしなくて巨大なモンゴル帝国でさえ代替わりしたら滅んだけれど、天皇は実権を放棄して将軍に実権を譲って支配者でもなく被支配者でもない独特の地位にいたからこそ権力争いから逃れて、戦国時代の武将みたいに自分で兵を率いて戦って戦死したり暗殺されたりせずに済んで男系男子の血脈が途絶えなかった。南米のギャングは警察に通報した市民をみせしめに殺害して、暴力で脅して地域を支配している。ストーカーによる殺人は相手が他人と付き合って幸せになるくらいなら殺して自分だけのものにするというゆがんだ支配欲が原因で起きる。・支配から逃れるための殺人共和制ローマでは奴隷が過酷な待遇だったので3回反乱が起きていて、第三次奴隷戦争の指導者のスパルタクスは英雄視されている。アメリカでは1831年に黒人奴隷のナット・ターナーが仲間の奴隷と反乱を起こして57人の白人を殺害した事件があったけれど、直接自分に危害を加えていなくても支配者側にいる人なら間接的に自分を苦しめていることになるので白人なら誰でもよかったわけである。2002年のモスクワ劇場占拠事件では犯人はチェチェン共和国の独立派のテロリストで、ロシア軍のチェチェンからの撤退を要求して人質を殺害した。2014年の南幌町家族殺害事件では母親と祖母に召使のようにこき使われて虐待されて育った女子高生が「しつけが厳しく、逃れたくて殺した」という動機で母親と祖母を殺害していて、犯人への同情から減刑のための署名が1万以上集まって、医療少年院送致で済んだ。・自己防衛のための殺人2013年に荒川沿いの歩道をジョギングしていた女性が果物ナイフを持った痴漢に「大声を出したら殺す」と脅されて、隙を見てナイフを奪って太ももを刺して逃げて男が失血死した事件があった。続報がないのでどうなったか不明だけれど、これで正当防衛にならないのではネットで話題になったはずなので、たぶん正当防衛として認められて不起訴になったと思われる。ニュージーランドのモスク襲撃とかのヘイトクライムは異文化や異宗教によって自分のアイデンティティーが棄損されることへの防衛としてとらえられるけれど、この場合は自分の生命が脅かされたわけではないので正当防衛は認められない。・宗教行為としての殺人イスラム原理主義者は異教徒の殺害を教義として正当化している。アメリカのサタニストはサタンに生贄を捧げるために殺人をする。アフリカだと黒魔術のために赤ん坊やアルビノの人が生贄として殺害されている。・快楽のための殺人被害者を拷問して殺人の過程を楽しんだり、殺人や死体の損壊に性的興奮を覚えたり、死体を犯したりするタイプの殺人は快楽殺人と呼ばれる。支配のための殺人と似ていて、被害者の生殺与奪権を握って人権を侵害することで自分が相手よりもすごい人間だと認識して満足する。殺人に満足してしばらくはおとなしくしても、快楽を求めてまた殺人をやりたくなるので連続殺人になりやすい。殺人映像の流出で有名になったウクライナ21はウクライナの若者たちが21人を殺した快楽殺人で、ホームレスや女性や子供などの弱者をいたぶるように殺害している。フィクションに登場するイカレた殺人犯の典型である。・遊びで殺人2020年の岐阜市ホームレス襲撃殺人事件では大学生や社会人の未成年のDQNグループがホームレスの老人に石を投げて反応を楽しんで殺害していて、ウクライナ21ほどの殺意はなくても見下した相手には何をしてもいいと勘違いしている人権軽視の態度が見える。・好奇心で殺人2000年の豊川市主婦殺人事件、2014年の佐世保女子高生殺害事件、2014年の名古屋大学女子学生殺人事件のように人を殺してみたかったという理由で殺人をするパターンがあって、たいてい犯人は未成年である。犯人は共感性が欠如したサイコパスなのだろうけれど、大人なら殺人をしたところでメリットがないどころか仕事や自由を失うデメリットしかないので殺人をしないけれど、未成年だと好奇心のままに殺人に至るようである。・有名になりたくて殺人うろ覚えだけれど2000年代に有名になりたいという理由で通り魔をして殺人未遂で捕まった男がいたような記憶がある。4月には北海道旭川市で「バズってやる」と言ってネット中継しながらコンビニ店員を襲う殺人未遂事件が起きた。小田急サラダ油男も犯行前に自分が有名人になるつもりで気取っていたそうな。たぶん境界知能とかで目的と手段と利害を適切に考えられない人なのだろうけれど、頭が悪いおかげで犯行がずさんで殺人未遂で終わるようである。・口封じのための殺人犯罪者は犯罪の目撃者を口封じのために殺している。空き巣をしているところを見つかって住人と鉢合わせして突発的に殺人をしたりする場合は居直り強盗と呼ばれる。殺人してしまうと捜査班が結成されて厳重に捜査されて防犯カメラで顔が割れて全国指名手配されて結局は捕まるうえに刑が重くなって損しかないのだけれど、空き巣は見つかったら動転してやりすぎてしまうようである。官僚やジャーナリストとかの真実を知りすぎた人も暗殺される。・名誉のための殺人インドだとカースト制度の価値観が強いうえに子供は父親の所有物という感覚なので、娘が下のカーストの男と結婚しようとすると一族の名誉のために娘を殺したりする。イスラム教だと娘が結婚前に妊娠したり暴行されたりすると娘が名誉を汚したという扱いになって父親が娘を殺したりする。中世だと名誉を汚された貴族が決闘して侮辱した相手を殺害している。・メンツのために殺人2017年にメキシコで17歳のYouTuberの少年が麻薬王を侮辱して殺害されたように、反社会的勢力は武力で脅すことをしのぎにしているので、舐められたら威厳を保つために粛清する。悪名は無名に勝るというように、名誉とは逆に不名誉な悪名を維持するために犯行も残忍なものになる。・世直しのための殺人現代ではあまりないけれど、昔は天誅と称して悪人とみなした相手を殺害していた。幕末には尊皇攘夷派浪士が天誅組の変を起こして幕府の代官を殺害している。・嫉妬して殺人2013年に東北公益文科大の学生が同級生に殺害される事件が起きた。この事件は人柄がよくて周囲に慕われていた被害者に犯人が嫉妬したのが動機で、被害者は鍵がかかった部屋で背中を刺された状態で発見されていて現金も盗まれていなくて、ミステリ好きには顔見知りの犯行だとわかる典型的なパターンである。自分より優れた人から美点を学ぶどころか嫉妬して嫌がらせをしたあげくに殺害するのは愚かである。人類最初の殺人と言われている旧約聖書のカインが弟のアベルを殺害したのも、弟の供物が神に気に入られたことへの嫉妬が原因である。・治安維持のための殺人通常は警察による逮捕→検察による取り調べと起訴→裁判→死刑/無期懲役という流れで凶悪な犯罪者などの社会に好ましくない人物を社会から合法的に排除して治安を維持している。ハイチは政情不安で警察や司法が機能していない無法地帯になっていて、市民がギャングを捕まえて寄ってたかってリンチして石を投げたりナタで切り刻んだり生きたまま火をつけたりして殺害している。ハイチ人はリンチが楽しくて仕方がないような凶暴な人だらけというわけでもないだろうけれど、悪人を強制的に排除しないと自分が犯罪の被害にあうかもしれないので、見せしめとしてひどい殺し方をすることでギャングを怖じ気づかせて治安を改善しようとしているのだろう。・医療行為としての殺人安楽死は日本では違法だけれど、国によっては合法的な殺人である。堕胎は日本では妊娠22週未満までは認められているけれど、国や宗教によっては殺人扱いになる。・錯乱して殺人精神病で殺せという幻聴を聞いたり、覚せい剤を使って何かに襲われる幻覚を見たりして錯乱して殺人をするパターンがある。精神鑑定で心神喪失で責任能力がないものとみなされれば無罪になったりする。・養育放棄や介護放棄のための殺人シングルマザーが育児放棄して子供に食べ物を与えずに放置したまま遊びに行って殺害したり、母親の彼氏が連れ子を育てたくなくて虐待して殺害したり、老老介護とかで介護疲れで家族を殺害する事件もたびたび起きている。●イスラエルとパレスチナの問題第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊して1918年からパレスチナはイギリスの植民地になって委任統治されて、1947年の国連総会でパレスチナを分割決議が採択されて国土の56%がイスラエルに分割されることになったものの、1948年にイスラエルが建国されたことで周辺のアラブ諸国が反発して中東戦争が起きて、それ以来アラブはイスラエルを敵視してきたし、ハマスも散発的にイスラエルを攻撃してきた。イギリスの委任統治時代の1946年にはパレスチナの土地は94%、イスラエルの土地が6%だったのが、2012年にはパレスチナの土地は8%、イスラエルの土地が92%に逆転していて、イスラエルが国際法上認められていないところまで占拠して入植地を拡大してきたのでパレスチナ人は強硬に抵抗している。日本に例えると第二次世界大戦後のGHQ統治下で勝手に建国許可が出されて分割されて岩手県と佐賀県以外の土地が移民に奪われて孤立した佐賀地区の武装勢力が抵抗しているようなものである。ドラゴンクエストでいうと竜王が世界の半分をやろうと言ったのに半分どころか92%を牛耳っているようなものである。そもそも他人に対して非人道的扱いをしなければ恨みを買うこともない。イスラエル政府はパレスチナ人が満足するくらいの大金を払って土地を買っていればパレスチナ人も別に恨まずに引っ越して新居を建てて生活するだろうけれど、そうではなくて動物扱いして非道に土地を奪って入植してきたから長年恨まれて敵視されている。イスラエルが原因で起きている戦争なのだから、イスラエルが譲歩して国際法上認められていない土地を返すなり賠償金を払うなりして解決するのが筋だけれど、なまじ武力と後ろ盾があるせいで強気で譲歩しないので何十年も問題が解決していない。ハマスが突然イスラエル市民を殺害した目的は何なのかというと、イスラエルとサウジアラビアが平和条約を締結してパレスチナとの和平交渉をするつもりだったので、それを潰すためにハマスと裏にいるイランがテロをしたと言われている。平和になったほうがよいだろうになんでわざわざテロをするのかと考えると、素人の私から見ると反撃されて死ぬことを覚悟の上での道連れの復讐に見える。正面から戦争したところでアメリカやイギリスの支援があって核兵器も保有しているイスラエルには勝ちようがないし、中東戦争みたいに周囲の国を巻き込まない限り戦争で勝って領土を取り戻すのは現実的でないし、要人を暗殺するならまだしも政治経済に影響力を持たない民間人を数百人殺したところでネタニヤフ首相が批判される程度でイスラエルの政治は変わらないだろうし、パレスチナの締め付けはますます厳しくなるだろう。合理的に考えたらハマスがやっていることには損しかないので、非合理的な動機があるといえる。復讐は生産的ではないとはいえ、他国に家族を殺されてもそれを罰する法律がなく、補償もなく、犯人の反省もなく犯行を繰り返している状況で、犯人たちが自分たちから奪った土地で幸福に暮らしているところに出稼ぎに行って底辺労働者として白眼視されながら生きるのは人間の感情としては無理で、皆が聖人君子というわけでもないので復讐心を持っても仕方がない。死んだ人を無視して遺族を置き去りにして他の生きている人たちが幸せになるのが許せなくて、復讐の連鎖の中に他人を引きずり込もうとしているのかもしれない。プーチン大統領でさえ戦うのはいいけど女子供は殺すなと言っている。これは的を射ていて、子供は人類の未来だし女性にしか子供は産めないので、何が原因であれ子供や女性が大勢死ぬのはよい社会とは言えない。それに男にとっては配偶者を見つけて子孫を残すことが生きがいになりうるし、最愛の妻や子供を失ったら死を恐れずに戦う恐ろしい兵士になる。普通に平和な国で育った人は徴兵されて銃を渡されてもためらって人を撃てなかったり怖気づいて戦場から逃げたりするけれど、復讐にかられた人は殺意満々で捕虜や人質を拷問して最大限の苦痛を与えようとしたりするし、自爆テロも辞さないので戦争が凄惨なものになる。古代の中国の王朝は何度も戦争をして復讐の恐ろしさを知っているので、王族や官僚とかを処刑するときは一族郎党を子供まですべて処刑して復讐の芽を摘んできた。ではイスラエルは復讐の連鎖をなくすためにハマスを殲滅してパレスチナ人を国外に追い出すつもりなのか。ハマスを殲滅するために空爆して無関係な市民まで殺害するのでは結局は別の復讐者を生んでアラブ諸国のイスラエルへの敵意をつのることになるし、パレスチナに武器を支援する勢力がいる限りはハマスだけ殲滅したところでハマスの代わりに他の武装勢力が出てくるのであまり意味はないだろう。バイデン大統領はイスラエルのハマスへの報復は容認してもガザの支配は間違いだと言っているし、国連人権委員会は「自衛の名の下に、民族浄化に相当する行為を正当化しようとしている」と警告して停戦を求めていて、イスラエルが報復をやりすぎないように牽制している。そもそもなぜイスラエルは入植地を拡大し続けているのかというと、人口が増えているからだろう。イスラエルはユダヤ系の移民を受け入れてきただけでなくて超正統派は旧約聖書の「産めよ、増やせよ、地にみちよ」の思想で避妊を禁じているので子だくさんで、1980年の人口は392万人、2023年には981万人で、2050年にはさらに70%増の1568万人になる予測だそうな。人口が増えるとそのぶん入植地が必要になるので、このまま人口が増え続けたらパレスチナは飲み込まれて消えるかもしれないし、そうしたらまた中東戦争が起きるかもしれない。国連が主導するSDGsも欺瞞で、サステナブルな社会を目指すのであれば人口も増やすべきではない。いったん戦争がはじまると双方が戦う意思をなくして停戦するまで兵士を投入して人口減少をもたらすので戦争は人口増加に対するスタビライザーとして機能するけれど、戦争で人口を減らすくらいなら初めから産児制限して住み分けるほうが人道的である。人口でも信仰でも資本でもどんなものでも拡大しようとすると他の人と利害が衝突する。ここに有史以来戦争を続けてきた人間の縮図があって、宗教の経典を妄信することをやめて自分の頭で考えないかぎり宗教対立は解決しない。本来は人々を安寧に導くための宗教だろうに、何教の何派だのにこだわる人が争う一方で、無神論者同士は平和に仲良くやっているという矛盾した状況になっていて、科学文明の現代では非科学的な宗教のほうがむしろ害になりつつある。核戦争でも起こさない限りユダヤ教とイスラム教のどちらかを絶滅させることはできないのだし、いつかは和解しないと宗教戦争が終わらないのだから、早く和解するほうが双方の被害が少なくて済む。イスラエルがテロに屈しない態度を見せたいのであれば、ハマスが何をしようが影響されずに予定通りにサウジアラビアと平和条約を締結してパレスチナとの和平交渉をすればよい。核戦争まで行ってどちらかが止めをさされないと戦争をやめられないのであれば、エルサレムは聖地どころか人類の愚かさを象徴する土地になる。・日本とユダヤの関係日露戦争ではロシアが反ユダヤ主義だったのでユダヤ人が日本側について、アメリカのユダヤ人銀行家のジェイコブ・シフが高橋是清の求めに応じて日本の戦時国債を買って資金援助して勲一等旭日大綬章を授与されたし、第二次世界大戦では杉原千畝がナチスの迫害からユダヤ人を助けてきた。しかしだからといって日本が親ユダヤ、親イスラエルかというと必ずしもそうではない。日本のエネルギーはサウジアラビアの石油に依存しているし、イスラム教のアラブ諸国は反イスラエルである。その一方で日本の防衛はアメリカに依存しているし、アメリカは親イスラエルである。日本はイスラエルとパレスチナのどっちにも味方したり敵対したりできない状況である。ユダヤ人のノーム・チョムスキーはマサチューセッツ工科大学のYouTubeの動画(MIT 24.912)で、 1930年代の日本のファシストはユダヤ人が世界を支配しているというナチスのプロパガンダを真に受けて、アメリカをなだめるためにはユダヤ人を味方につければいいと考えてポーランドから黒い帽子をかぶったコテコテのユダヤ人を呼んで、彼らは日本に留まらずにアメリカのユダヤ人コミュニティに行きたがるだろうと考えたものの、アメリカでは別に彼らに来てほしくなかったので日本に留まったのだと言っていた。アメリカは移民が作った国家だけれど初期に入植した移民が新移民を差別して19世紀後半から移民排斥運動をしていて、アメリカに同化しにくい南東ヨーロッパのポーランド人やイタリア人の新移民を制限して北西ヨーロッパの移民を優遇するために1921年に移民の数を制限する法律(Emergency Quota Act)を制定して、ポーランド人の移民は減らしている。日本政府は八紘一宇や五族協和のスローガンを掲げている以上はナチスの民族浄化に加担するわけにはいかなったというだけでなくて、ユダヤ人を政治的に利用する打算があったのだろうけれど、アメリカでの諜報活動が不十分だったのだろう。古代日本にユダヤ人が渡来したという日ユ同祖論を仮説として言うのは別にいいけれど、物的証拠が乏しいこじつけみたいなもので現時点では論としては信憑性はないと私は思う。●フィクションと殺人以前も何度かフィクションと殺人について考えた気がするけれど、ついでにまた考えることにする。娯楽は刺激を売りにしているので、フィクションではしばしば過激な戦闘シーンや殺人シーンがある。バトル系の少年漫画でも殺人の場面がしばしばあって、『鬼滅の刃』の内容を知らない親が子供を映画館に連れて行って文句を言っていた。じゃあ殺人シーンが不謹慎かというと必ずしもそうではない。欲と悪事にまみれた古代インドの王子のブッダが仏教の創始者になったように、悪が何なのかを理解しなければ善も理解できないし、より良い人生を追求することもできない。この世界には悪意を持って殺人をする人がいることを認識できると言う点ではフィクションは有用である。現実世界の殺人事件は所詮は他人事だけれど、フィクションでは主人公に感情移入して疑似的に生死の境の極限状態を体験できるところにメリットがある。それにフィクションの死体はグロすぎないように調節されているので、実際の殺人事件の犯行現場の写真や映像を見るよりはショックが少ない。あらゆる生物は戦うか逃げるかして自分の安全を保っているし、ふだん直接戦う機会がない現代人も自分の生命が脅かされる事態を想定しておくべきだろう。ラブストーリー以外のたいていのジャンルのフィクションでは殺人を描くことがある。ミステリでは殺人事件が起きて、警察や探偵が犯人を推理して、犯人が捕まって動機を自供するというパターンが多い。アクション映画だと警察やマフィアや軍隊が銃撃戦をするところが見どころになる。『ジョン・ウィック』や『スノー・ロワイヤル』とかの復讐系のアクション映画は見せ場を作りやすいけれど、人を殺すことや許すことについての思想を掘り下げないので、つよつよ主人公が怒り狂って無双して敵のボスを殺して終わりという似た展開ばかりであまり名作はない。青年漫画だと反社会的勢力が死体を冷凍してミンチにしたり豚に食べさせたりして証拠隠滅したりする凄惨な場面が見どころになる。ホラーだとジェイソンのような超人的なフィジカルをもった殺人鬼が猟奇的に拷問や殺人をして、主人公たちがどうやって殺人鬼を退治して生き残るかが見どころになる。時代小説やファンタジーだと国同士の大規模な戦争の場面や剣豪や武将が活躍するところが見どころになる。少年ジャンプとかの子供向けのフィクションだと正義のヒーローが凶悪な殺人犯を退治する勧善懲悪の展開になるけれど、敵が人間でなくて妖怪やモンスターで主人公が敵を殺すことに対する葛藤がなかったり、『DRAGON BALL』や『魁!!男塾』のように殺された登場人物が生き返ったりして、そのぶん死のリアリティーはなくなっている。人狼ゲームが流行した影響のせいかデスゲーム系のフィクションは多いけれど、何かの組織に強制的に命がけのゲームをやらされるという時点でリアリティーがなくなるので傑作はない。実在の殺人犯をモデルにしたフィクションだと肖像権とかが絡むので生きている間はモデルにしにくいけれど、死んだ後にフィクションのモデルになったりする。1930年代に銀行強盗や殺人を繰り返したボニーとクライドを描いた『俺たちに明日はない』や、カポーティーがカンザス州の農村の一家殺人事件の加害者に取材してノンフィクション・ノベルのスタイルで書いた『冷血』や、埼玉愛犬家連続殺人事件をモデルにした映画『冷たい熱帯魚』や、アルゼンチンの連続殺人犯のイケメン少年カルロス・エドゥアルド・ロブレド・プッチをモデルにした映画『永遠に僕のもの』とかがある。私は実際に起きた陰惨な殺人の物語は気が滅入るしオリジナリティがないし他人の人生を奪って金儲けの道具にするようで個人的には嫌いだけれど、殺人犯の生い立ちや犯行の手法を掘り下げたりすることにはある程度の社会的意義はあると思う。犯罪の被害者をテーマにしたものだと2015年のパリ同時多発テロで妻を亡くしたジャーナリストがテロリストに向けてメッセージを語る映画『ぼくは君たちを憎まないことにした』がある。死んだ人は直接語れないので遺族が語るしかないけれど、ノンフィクション的になって娯楽として鑑賞するものではなくなってしまうので、こういう作品はあまりないようである。他人の死を観察することはいずれ来る自分の死を相対化して、自分がどう生きるかを考えることにつながる。ウクライナやパレスチナのように戦地にいて死と隣り合わせに生きている人たちは人生についてゆっくり考える暇はないだろうけれど、凶悪犯罪が少なくて何十年も戦争をしていない平和な国で生きている日本人はフィクションを鑑賞しながら考える時間は十分にあるはずである。EMELの「Naci en Palestina」はパレスチナに生まれて場所も景色も故郷もないよと歌っているけれど、日本人は国も家もあるのが当たり前で他人がなんとかしてくれるという考え方をやめて、自分が国や文明や文化を作っているのだという自覚を持つべきである。その自覚があれば、様々な才能や技術で文明を担っている個々人が殺人で失われてしまうことの損失の大きさや罪の大きさがわかる。誰も他人の代わりに生きることはできないのだから、他人を故意に殺すべきではない。もし口論とかでカッとなってコイツぶち殺そうかなと思ったときは、かわいいコアラの子供が母親のうんこを食べる様子を想像して殺意を抑えたり、フィクションを創作して殺意を昇華するとよいよ。