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2024.02.25
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カテゴリ:教養書
昭和初期の1930年代の批評とエッセイ集で、昭和43年に新潮社から定價千八百圓で発売された。

●面白かったところのまとめ

・小説の問題I
スタンバアグの「アメリカの悲劇」という映画の湖の殺しの場面はうまい。しかし人々は劇を待っていて、出来事を待っていなかった。どんなに平常な現実が忘れたいとは言え、人々はまったく荒唐無稽なものに決して酔うことはできないので、納得しながら酔う。出来事は劇よりも納得しにくかったから、多くの観衆はその場面に失望したと信ずる。
現代の恐ろしい小説の氾濫は数知れぬ世の中の劇を報道していて、人々の想像と事実の距離を次第に小さくしていく。日々自動人形のような無気力な生活を送り、他人の噂話ばかり聞いていれば、言葉と事実とのけぢめがつかなくなってくるのは当然である。
レマルクは「西部戦線異状なし」で霞に隠れている事実を人々に知らせたいと念じて書いている。ドルジュレスの「木の十字架」で戦線から家に帰ってきた主人公はいろいろな人に戦争の話をねだられても語らず、事実を知った青年の眼には事実を知らない人々の眼は取り付く島もない化け物の眼だった。この二作家は戦争のおかげで事実というものの前に正当に戦慄することを知った人たちで、事実というものがいかに語り難いものかという一種の絶望感の上に二人のリアリズムは織られている。
世の中には劇はない。ただ出来事の重なりがあるだけだ。出来事が己の姿を一番烈しく人々に見せつけるときこそ人々にとってこれを勝手気ままな劇に翻訳するのが最も容易で、平常な事実に至っては多くの人々に存在しないも同様である。彼らは無駄な行動が嫌いなように、精神上の吝嗇が好きである。大衆作家の問題は、事実がいかに大衆を動かすかという事情にはなく、大衆がいかに事実を糊塗するかという事情にある。
ドストエフスキイの「憑かれた人々」のなかで、ピョオトル・ステパノヴィッチ・ヴェルホーヴェンスキイという人物を書くにあたって、こういう人物を書くことが小説家の最大難事だと断り書きを書いている。自然はどんな軽薄な空疎な人間にも人間である以上生き生きとした実在性を与えている。ところが作家の精神が空疎な人間を創造しようとするとき、これを巧みに描き出せば出すほど空疎な表現にみえてくる。ドストエフスキイの偉才をもってすればヴェルホーヴェンスキイを完膚なきまでに分析することは容易だったろうが、作者はこういう困難な人物を自然が目の前で歩かしているように作中で歩かしてみたかったのだ。彼が望んだものは分析ではなく綜合であった。
近頃心理主義小説に関する議論がいろいろあって、みんな心理主義という言葉に首を突っ込んで外を見ようとしない。河上徹太郎が「心理小説についての一私見」で、今日の心理主義小説の巨匠の制作方法は、象徴派詩人等の制作方法が心理的であるに反し、単なる素朴なリアリズムに過ぎぬ、ただその描く対象が心理的であるに過ぎぬ。したがって彼らの作品は如何なる詩的精神とも縁のない純粋な散文であるという意味のことを書いていたが、正しい。最大の芸術家としての自然を見失うこと、これが現代新小説家等の最大の弱点である。

・小説の問題Ⅱ
文学というものののうちに小説という明瞭な形式があるなどという事を誰も信用してはいない。一方で、小説という文学形式がいかに曖昧なものであるといえ、そんなものはないとはだれも言い切るものはない。人々は絵を見てまるでほんとみたいだと感心し、その癖ほんとを見てまるで絵みたいだとうっとりする。小説だって同じことで、小説がまさしく小説にみえて皆退屈する。現実が何らかの意味で小説にみえなければ身がもてないのである。私達は小説を読んで、その現実性とか具体性とかを暢気に口にしているが、実は自分が常日頃抱いている現実の小説的要約を口にしているに過ぎない。
ドイツロマン派の傑物アマディウス・ホフマンが小説の中で「こういう奇怪な話をすると、諸君は信用しないかもしれないが、諸君もだんだん年をとってくると、この世がどのくらい気違い染みたものであるか、という事を得心すようになるのだ」と書いている。現実の苦い経験を嘗めた人に、小説が軽薄に見えても仕方がない。ただ問題は、生々しい経験を生々しいままに貯えるには一種の術が要る、というより一種の稀有な資質が要る。
私は老大家というものには常に尊敬を失うまいと思っているが、偶々老大家が近頃の新文学は皆子供っぽくていかん、大人の読む様な小説を書いてくれなどと書いているのを読むと馬鹿馬鹿しい気持ちになる。こういう癇癪を鎮めるには、私達若年者の作る處をてんで小説と思って読まないことで、その代わり人生における若年者の象徴と思って味わえばよい。
小説の詩的価値、倫理的価値、社会的価値、政治的価値等々と批評家は言いたがるが、そういうものは皆小説に擦り付けた価値にすぎない。人々はもっと生々しく直に小説に触っている。いい小説は批評家が容易に考える處とは違った性格で生きながらえている。この性格とは作家がどの位な深みまで世間を理解しているかという曖昧だが厳然とした事実の、曖昧だが厳然とした文学への反映をいう。

・故郷を失った文学
谷崎潤一郎の「芸について」で「現代の日本には大人の読む文学、或いは老人の読む文学というものがほとんどないと言ってよい。日本の政治家は概して文芸の素養に乏しく、文壇の情勢に暗いという誹りを受けるが、それは文壇の方にも幾分の罪がありはしないか」「日本の現代文学、殊に所謂純文学を読むのは十八九から三十前後に至る間の文学青年共であって、極端に言えば作家もしくは作家志望の人たちのみである」「文壇というものが全く若い者相手の特別な世界であることは、自然主義の昔から今日に至る迄変わりがない。政治組織や社会状態に関心を持っている筈のプロ作家と雖も、一とたび『文士』として『文壇』の仲間入りをして、『月評』に取り上げられるようになると、彼らの読者は純文学のそれとあまり違わない狭い範囲に限られてしまい、広く天下の労働者や農民をファンに持つという人はめったにない」「自分を読者の側に置いてみて、古典より他に読むに堪えるものがないということは、何かしら現代の文学に欠陥があるように思えてならない。なぜなら青年期から老年期に至るまで、ときどき燈下に繙いては慰安を求め、一生の伴侶として飽きないような書物こそ、真の文学といえるからである」「私の固陋さを嗤う若い人達も、私と同じ年頃になれば恐らく思い当ってくれる所があるだろう」という文章にぶつかって考え込んで重苦しい気持ちになった。
大衆作家達が、所謂文壇小説の狭隘を攻めてその滅亡を宣言したげな顔をする。けれども大衆小説にも亦わが国特有の光景がある。文壇小説がどんなに若い者相手であろうともこれを理解するには文学的教養を要する、単に世情に通達した大人が読んでも容易に理解できないような名作だって少なくはない。だが通俗現代小説を世間の成人たちが読むとは私には考えられない。もうわかり切った事が故意に面白そうに書いてあって、それ以上発見が語られていないものを成人たちが読むはずがないからだ。そこで彼らはどうするかというと髷物を読む。凡そ大衆小説通俗小説というもので、現代ものによらず髷物によって大人の世界と交渉しているというそういう事実が外国にあるとは私には考えられない、我が国に特殊な事情だという他はないであろう。映画を見ればもっとはっきりする。傑作は依然として舊劇の側にある。いい俳優もいい監督も。文学に比べれば映画ははるかに直接な芸術だ、一般ファンが現代ものの傑作を一番望んでいることは論をまたない。然るに実情は依然として上述のような有様なのだ。こういう奇怪な事実は日本の映画界でなくては今日みられないとは皆も断言することができるであろう。
髷物の小説やチャンバラ映画が大衆の間に非常な勢力をもっている、こういう変則な状態が長続きするとも思えぬが、容易にはほろびないだけのしっかりした根拠は持っていることも争われない。単に奔放な構想や奇怪な筋立てだけでは、大衆の文学的教養がいかに低いにせよ彼らの心を魅することは出来ない。ほんとうに彼らの心をつかんでいるものは、もっと地道なもので、作品に盛られた現実的な生活感情の流れに知らず識らずのうちに身を託すか託さないかという處が、面白いつまらないの分かれ道だと、私は信ずる。髷物やチャンバラ映画にはこの流れがあるのだ、現代ものにはこの流れがないのだ。
何事につけ近代的という言葉と西洋的という言葉が同じ意味を持っている我が国の近代文学が西洋文学の影響なしに生きてこられなかったのは言うまでもないが、重要な事は私たちはもう西洋の影響を受けるのになれて、それが西洋の影響だかどうか判然しなくなっている所まで来ているという事だ。私たちが文学に頭をつっこんだ時にはもう西洋の翻訳文学は読み切れない程あったので、二葉亭の「うき草」や鴎外の「即興詩人」などが当時の青年に与えた感情や協学は、到底私達には想像ができないのではないだろうか。私達は生まれた国の性格的なものを失い個性的なものを失い、もうこれ以上何を奪われる心配があろう。一時代前には西洋的なものと東洋的なものとの争いが作家制作上重要な関心事となっていた、彼らがまだ失い損なったものを持っていたと思えば、私達はいっそさっぱりしたものではないか。私たちが故郷を失った文学を抱いた、青春を失った青年たちである事に間違いはないが、又私達はこういう代償を払って、今日やっと西洋文学の伝統的性格を歪曲することなく理解し始めたのだ。西洋文学は私たちの手によってはじめて正当に充実に輸入されはじめたのだ、と言えると思う。こういうときに、徒らに日本精神だとか東洋精神だとか言ってみても始りはしない。何処を眺めてもそんなものは見つかりはしないであろう、又見付かる様なものならばはじめから探す価値もないものだろう。谷崎氏の東洋古典に還れという意見も、人手から人手に渡る事の出来る種類の意見ではあるまい。氏はただ私はこういう道をたどってこういう風に成熟したと語っているだけだ。歴史はいつも否応なく伝統を壊すように働く。個人はつねに否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する。

・批評について
私は元来抽象的な議論は得手ではなかったし、そういうものに滅多に心を動かされたこともなかった。理論というものを愚弄した覚えは一度もないが、理論の為の理論には絶えず不平を言って来た。誰も空論はしたくない、批評家は出来るだけ実相に即して、文学の理論を編もうとするが、出来上がった處は、作家には直接何んの利益も齎さぬ、実際制作というものからは掛け離れたものを書き上げて了う、これはいかにも奇怪な事である。それが理屈というものだ、批評というものだとこの奇怪な事実を承認して進む道も、成る程ひらけているにはいるのであるが、批評の自律性というものは小説の自律性と同様いや一層不安定なものであって、批評の限界とか方法とかに関する数多くの議論に私は一度も満足を感じたことがない。
批評は作品を追い越すことは出来ない、追い越してはならぬ。これを一つの批評態度としてひとえに退廃的だとか人間進歩の敵だとかと考えるのは、未だ考えが足りないのである。この作家と批評家との主従関係は、勿論いつも守られているとは限らぬ。現今の様な世に、批評家が作家を乗り越えようとし、作家の創作活動を指導しようと努めるのはやむを得ない勢いだ。成る程この道は正当には違いないが、それはやむを得ない勢いである限り正当なのだ。この勢いを過信するのは正しくない。時代的な実際的な思想に生きる人もあるし、もっと悠久な境地に心を寄せる人もあるので、作家がみんな所謂進歩的になられたら恐らく芸術などは不必要になるだろう。
元来自分と同時代に生き同じ問題に苦しんでいる人を厳密に評するという事は、至難なわざであって、科学的とか客観的とかやかましく言うが、まづいい加減なものだと私は思っている。批評家をもって任ずる人々は、よろしくその重厚正確な仕事を自由に発展させる場所として、文学史とか古典の研究を選ぶのが当然であり、文芸時評の如きは余技と心得て然るべきではないかと思う。
人間の生活を一番よく知っている人が一番立派な文学作家なのだ。私はもうそれを信じて疑わない。他はみんな付けたりだ。それでなくて何が文学というものが面白かろう。文学だと思って読まなければ面白くないような文学は私はもういらない。文学の害毒を知り抜いたうえ書かれたものでなくては信用する気にはなれない。拙い作品を拙いとは言うまい、拙いと考える代わりに文学の人心に及ぼす害毒の一例と考えたいと思う。
この世を如実に描き、この世を知りつくした人にもなお魅力を感じさせるわざを、文学上のリアリズムと言う。これが小説の達する最後の詩だ。

・私小説について
創作方法論というものは方法論の為の方法論に終わりやすいものだが、これは評者の罪というより寧ろ理論本来の弱みだ。理論本来の弱点に比べれば評家の才能の欠点は微々たるものである。この弱点が例えば科学の領域では見事に逆用され、美しい表現となっているが、文学批評ではそううまく行かぬだけの話しで、これが為に文学理論が軽蔑される筋合いはない。
宇野浩二の「私小説私見」によると、日本の近代小説の主流派今日まで所謂私小説にあり、明治末期から昭和の今日に至るまで傑作は私小説の側にあり、これは日本だけのもので、また日本の最近代の小説の特徴の一つと思われるが、よく考えてみると不思議な現象であると書いている。私小説が近代文学の主流であったという意見は間違ってはいないと思うが、重要な問題は「よく考えてみると不思議な現象である」という處だけで、この自覚が今日新しい作家の正当な戦場だと信ずる。
久米正雄の「私は第一に、藝術が真の意味で、別の人生の『創造』だとは、どうしても信じられない。(中略)只私に取っては、藝術はたかが其の人々の踏んで来た、一人生の『再現』としか考えられない。例えばバルザックのような男が居てどんなに浩幹な『人間喜劇』を書き、高利貸や貴婦人や其の他の人物を、生けるが如く創造しようと、私には何だか、結局、作り物としか思われない。そして彼が自分の制作生活の苦しさを洩らした、片言隻語ほどにも信用が置けない」は徹底した私小説論で、こういう考え方は自然主義の影響がいかにも強く現れているので、一流芸術とは真の意味で、別な人生の創造であり一個人の歩いた一人生の再現は二流芸術であるという明瞭な意識を、わが国の作家は今日に至ってはじめて持ったのである。バルザックの小説はまさしく拵えものであり、拵えものであるからこそ制作苦心に就いての彼自身の隻語より真実であり、見事なのだ。そして又彼は自分自身を完全に征服して棄て切れたからこそ拵えものの裡に生きる道を見つけ出したのである。

・文学界の混乱
「苦海」には人の心を爽やかにする何物もない、人の命を豊富にする何物もない。言うまでもなく僕は作者の厭世的精神が不満なのではない。厭世も強い表現となってあらわれれば、人をくつがえすに足りる。僕の言いたいのはそういう表現の強さ、そういう表現のほんとうの美しさが「苦海」にあるとは思えぬというのである。「苦海」を読んで読者が救われる救われないは問題ではない。作者があれを書いて、ほんとうに作者と生まれた幸福を感じているかどうかが僕は作者自身に聞きたいのである。作者は恐らく答えるだろう。文学が悟達への道か迷妄への道か誰が知ろう、と。併し四十年の作家生活の頂に、作家たる幸福が、いや幸福ではないとしても作家たる強い矜りが刻印されていないという事は悲しいことだ。生涯の不幸を賭けてこの刻印を確と押した作家は沢山はあるとは言えぬ。だが確かにいることを知っているからこそ、僕たちは、恐らく文学は人間を必ず不幸にすると思いつつ、文学への道に希望が持てるのである。「苦海」はこういう希望へ逆に働きかける。もっとあまい作品を読ませて呉れた方が僕らにはまだしも無害であろうか。
その仕事の世界に、実生活には到底うかがえないような深さが表現されているという様な作家が、今日日本に幾人いるであろうか。先ず大部分の作家の場合では、その仕事は実生活を抜いてはをらぬのではあるまいか。実生活の方が高みにあるのではあるまいか。この作家的弱点は従来の私小説の伝統の裡で明らかに意識されなかった許りか、かえって必死に守られてきた。実生活の夢に憑かれた作家等は、己れをしゃぶりつくして所謂深い人間的境地なるものを獲た。だが読者は何を貰ったか。極言すれば御馳走のお余りだ。実生活に膠着しつつ表現した作家等は、その実生活の豊穣が滅びるとともに文学の夢も滅びるのを知った。そういう時だ、夢殿観音が現れるのは。僕は先輩作家等の到達した境地を冷視するのでは決してない、そういう境地を羨望しないだけである。
僕はマルクス主義文學を信じてはおらぬ。併しマルクス主義が巻き起こした社会小説制作の野心を信ずる。己れを捨てて他人の為に書くという情熱を信じている。又僕は心理主義文學も理知主義文學も信じておらぬが、この道を辿るものが、速かに己れの個人的像の夢に破れ、実生活をしゃぶる夢に破れ、新しい文学の国を築く野心に駆られていることを信ずる。

・文芸時評に就いて
作家の努めるところは文学の社会化ではない。社会性を明瞭な文学的リアリティに改変する事だ、社会事情が文学作品に反映しているという事実性と社会事情を作品に表現するという実践性とが、今日くらい奇怪な混乱状態にある時はない。併し両方の概念を混同してものを考えてはいけないのだ。僕はそんなに頭が悪い筈はないのだが、と弁解しても駄目である。力及ばず止むなく社会化した文学作品を制作しているうちに、自分は結構社会性を文学化しているという錯覚に落ち入るものだ。誰がこの錯覚に悩まぬと言い得よう。人間の精神はそう強いものではない。

・私小説論
自分の正直な告白を小説体につづったのが私小説だと言えば、いかにも苦もないことで、小説の幼年時代には、作者はみなこの方法をとったと一見考えられるが、歴史というものは不思議なもので、私小説といふものは、人間にとって個人というものが重大な意味を持つに至るまで、文学史上に現れなかった。ルッソォは十八世紀の人である。では、わが国では私小説はいついかなる叫びによって生まれたか。西洋の浪漫主義文学運動の先端を切るものとして生まれた私小説というものは、わが国の文学には見られなかったので、自然主義小説の運動が成熟したとき、私小説に就いて人々は語り始めたのであった。
周知の如く、マルクス主義文学が渡来したのは、二十世紀初頭の新しい個人主義文学の到来とほぼ同じ時であった。マルクス主義の思想が作家各自の技法に解消しがたい絶対性を帯びていた事は、プロレタリヤ文学に於いて無用な技巧の遊戯を不可能にしたが、この遊戯の禁止は作家の技法を貧しくした。むろん遊戯を禁止する技法論はあり余るほどあったが、それらの技法論に共通した性格は、社会的であれ個人的であれ、秩序ある人間の心理や性格というものの仮定の上に立っていた事であり、この文学運動にたずさわった多くの知識階級人達は、周囲にいよいよ心理や性格を紛失してゆく人達を眺めて制作を強いられていながら、これらの技法論の弱点を意識できなかった。又それほどこれらの技法論の目的論的魅惑も強かった。だが、又この技法の貧しさのうちに私小説の伝統は決定的に死んだのである。彼らが実際に征服したのはわが国の所謂私小説であって、彼らの文学とともに這入って来た真の個人主義文学ではない。
私小説は亡びたが、人々は「私」を征服したろうか。私小説は又新しい形で現れて来るだろう。フロオベルの「マダム・ボヴァリイは私だ」という有名な図式が亡びないかぎりは。

・現代の小説の諸問題
一般読者にとっては、純文学と通俗文学の区別は存在しない。彼らはいつも文学を求め、文学を読んでいるにすぎぬ。それを忘れているのは文壇人だけという事なのだ。
純文学の読者が減ってきたのは、純文学が面白くなくなったからだ。簡単明瞭な理由である。一般読者は、純文学を捨てるのにこれ以上の言い訳をする必要はない。だから彼らは、さっさと大衆文学に走った。
元来小説というものは、様々な芸術のうちで最も自由な形式を持っているもので、小説作者は小説の技法に音楽を利用しようが、絵画を利用しようが、何を利用しようが一向構わないというあんばいであるが、作者がどういう方法に頼ろうが、実生活というものの模造品を言葉で作り上げ、読者にあたかもその模造品を生活している様な錯覚を与えなければならぬという小説の原則を、変更する事はできない。この原則は、あまりわかり切っている為に、小説に関する方法論が精妙になればなるほど批評家はこれを振り返ってみなくなるし、作家も制作の方法の万能に苦しみ乍ら、この根本の原則が、現今どんなに小説家の重荷になっているかという事を忘れがちなのである。
小説の面白さは、他人の生活を生きてみたいという、実に通俗な人情に、その源を置いている。小説が発達するにつれて、いろいろ小説の高級な面白がり方も発達するが、どんなに高級な面白がり方も、この低級な面白がり方を消し去ることは出来ないのである。小説は僕等が日常話したり聞いたりする物語と本質的に少しも異なったものではない。噂話に耳を傾けたり、歴史的事実に興味を感じたりする時の、若し「自分があの男なり女なりだったら」と思う僕らの止み難い空想を、小説はただ故意に挑発する為に工夫されたものなのだ。
最近の純文学は、こういう物語というものの根本にある通俗性を、いろいろの事情から急速に失って行った。作者がその心境を享楽する事により、或いはその思想を誇示する事により、或いは心理風景のうちにさまよう事により、読者に高級な鑑賞を強制し、評家に面倒な議論を余儀なくさせ、自ら世間を狭めたのである。人々の間に、小説に物語を求めるという強い欲求が無くならない限り、こういう場合、その欲求を満たす為に大衆文学が、人々の人気を攫って行ったのは当然の事だ。純文学者等は、大衆小説が、人々の低級な趣味に迎合しているという点ばかりを見たがるし、社会批評家は、最近の大衆文学の繁栄を、頽廃した社会人が不健康な感覚上の刺激を求めているというところにばかり帰したがるが、最近の大衆文学と純文学との奇怪な対立は、そういう事ばかりからでは決して説明がつかない。大衆はもっと素直に動いたのだ。純文学に欠けている物語の面白さを、大衆文学に求めたに過ぎぬ。そしてそれは不健康な事でも低級な事でもない。

・文芸批評の行方
作家が批評家より批評的に饒舌であり、又上手に喋った事は当然なのであり、又そこに育て上げられた作家と批評家との暗黙の主従関係は、其後批評が著しく進歩した今日も、なかなか拭い去れず、批評家とは作家に成り損なった人間だという考えは、そういう環境に成熟した作家の心底にこびり付いているのである。のみならず、一般文学志望者の心にも、まるで遺伝的悪疾のように巣食っている。純文学の貧困が云々されている今日でも、小説志望者の数は一向減らない様だが、批評の重要性が益々明らかになっても、批評家の卵は目立って増えたとは思われぬ。ただ文学を目指して優れた文学が作れる様な時代はとっくに過ぎたにも拘らず、小説みたいなものを書く事を練習していれば、やがてそれは本当に小説になる筈だという信念に燃えた文学志望者が減らないという事は悲しむべきである。

・文藝月評IV
近頃インテリゲンチャの能動的精神であるとかリベラリスムの積極的意義であるとかいうことが論じられているが、そういう気持ちを作品に仕上げる事は大変な努力が要るだろう。この努力は今までの作家の実生活上の、或は技法上の努力を超えた文人気質を軽蔑する教養上の、或は思想鍛錬の上の努力を是非必要とするものだ。その点でこういうテエマを扱って当世向きの観を与えないようなものを書くに足りる十分な用意を持った新作家はまだ一人もいないと僕は思っている。どうも大変な事らしいが、人智の進歩で致し方ない。だからわが国でも優秀な新作家の認められる年齢は、外国のようにだんだんこれから遅くなるだろう。小説の勉強から作家修行をはじめるような文学志望者は、もうこれから駄目になるだろう。理屈というものの蟲の好かぬ作家等は亡びて行くだろう。

・アンドレ・ジイドの人及び作品
彼に言わせると、自然主義小説というものは、お話主義(エピソディスム)の小説であり、昔から真の偉大なる作家は、人生をエピソディスムのうちに押し込めやしなかったし、又人生は自然主義小説家の亜流が信じている様に、客観的描写によってその真相が語られるような貧弱なものでは本来ないのだ。一体自然主義小説家等は、人生の断片という言葉を好んで口にしているが、彼らはただ人生を時間というものの方向に切っているに過ぎない。何故に縦横十文字に人生を切って見せてはいけないか。ただ人生の諸事実を次々に起こって来る順序通りに冷静に描いても人生の真相は現れて来ない。第一人生に対する作家の態度というものはどうするのか。小説の裏面に隠れて安心していいものか。作家の創造的思索が作品の前面に横溢するのが何故に恐ろしいか。
彼は人生を描くのに自然主義小説家等が使用した一面的な客観的な描法を捨て、人生をあらゆる角度から、あらゆる異なった人間がそれぞれ独特の見方で眺めているというところに真のリアリズムの狙いどころがあると考え、人生を単に描写するというより、これを立体的に構成しようとした。こういう方法によれば、最も真に近い人生の図を完成することが出来るとともに、自分の持っている小説家らしからぬ様々の要素、モラリストとか批評家とか心理家とかいう諸傾向もこの方法によって綜合的に実現できるだろうと考えたのである。これが彼の有名な純粋小説という思想の根本的な考えなのである。

●感想

1930年代の古い文章なので旧字旧かなで読みにくいし、当時の背景がよくわからないうえに話があちこちに飛んで論点が整理されていない部分もあるし、私は昭和初期の小説をほとんど読んでないので月評でどんな小説に何を言いたいのかよくわからない。当時は現代のように作品と作者を切り離して批評できないようで、小林秀雄は楽屋話はいらないと言うくせに、自分の批評では林房雄の「青年」を読んで作品にはちょろっと触れた程度で林君と会ったときにどうのこうのという知人としての楽屋話をしていて態度が一貫していないし、純粋小説や本格小説がどうのこうのとカテゴリ化ありきで婉曲に小説を見ているようで作品自体の批評は十分にできていないようである。それでも私小説と文学的リアリティに関する意見は面白かったので、私小説を卒論の研究対象にしている文学部の学生は読んでも損はないと思う。
「批評について」で「この世を如実に描き、この世を知りつくした人にもなお魅力を感じさせるわざを、文学上のリアリズムと言う。これが小説の達する最後の詩だ。」と言うのも私は同意で、シュールリアリズムにしろマジックリアリズムにしろリアリズムをベースにして世界の文学が発展している。宮本百合子が1947年の「作家の経験」で「芸術の根帶はリアリズムである。どんな幻想的創作さえも、それが幻想としてありうるためには幻想のリアリティーを欠くことは不可欠である。人間というものが本格的にリアリストであり、芸術の根帶がリアリズムであるからには、作家として現実を真にその活き動く関係のままに把握しうる眼としての世界観、史的唯物論に立つ現実のみかたと、そこからのリアリズムを求めるのである。」と言っていて、そのころはまだ作家がリアリズムの重要性を理解していたようだけれど、その後のポストモダニズムの影響のせいなのか今の純文学には物語にも描写方法にもリアリティがなくなっていて「他人の生活を生きてみたいという、実に通俗な人情」さえ満たさなくなってつまらなくなっている。もはや庶民は物語を求めて文学を読むことすらやめて、YouTubeで他人の恋愛だの育児だの食事だのペットだのの物語になっていない私生活の断片を覗き見て他人の人生を体験した気分になって、芸術作品を鑑賞したときの唯一無二の感動の体験がなくても、等身大の他人に共感するだけで満足して投げ銭さえしている。今の時代に純文学が売れるためには生涯かけても消費しきれないほど氾濫している無料コンテンツや著作権が切れた古典よりも価値がある何かをプロの芸術家として提供しないといけないけれど、金を払ってでも読みたくなるほどの価値を出せていない。小林秀雄風に言うなら「純文学の読者が減ってきたのは、純文学が面白くなくなったからだ。簡単明瞭な理由である。一般読者は、純文学を捨てるのにこれ以上の言い訳をする必要はない。だから彼らは、さっさとSNSに走った。」ということになる。
私小説作家が己れをしゃぶりつくして書くことがなくなるのもその通りで、ヘミングウェイくらい世界中を旅行して波乱万丈な人生を送れば書くことはなくならないだろうけれど日本で貧乏で地味な生活をしている作家のネタなんて採掘量が限られている小さい鉱脈のようなもので生涯の食い扶持として固執するものではないのに、当時は私小説以外を書けない不器用な私小説作家だらけだったようで、そのうえ技法も貧しくて、私小説は滅ぶべくして滅んだ。読者にしてみればフィクションだと理解したうえで小説を読んでいるのだから実際に起きた出来事かどうかは面白さと関係なくて、事実であることよりも言葉をリアルに感じられることのほうが文学では価値がある。もし純文学がこの文学的リアリティを追求しなくなったときは純文学と通俗小説という区分がなくなって散文の芸術としての純文学は消滅して、詩だけが言語芸術として残ると思う。
「故郷を失った文学」では谷崎潤一郎が「自分を読者の側に置いてみて、古典より他に読むに堪えるものがないということは、何かしら現代の文学に欠陥があるように思えてならない。なぜなら青年期から老年期に至るまで、ときどき燈下に繙いては慰安を求め、一生の伴侶として飽きないような書物こそ、真の文学といえるからである」という指摘は図星でろくに反論できなかったのか、小林秀雄は労働者や農民がファンになるような大衆小説批判へ論点をずらして純文学を擁護している。「現代ものによらず髷物によって大人の世界と交渉しているというそういう事実が外国にあるとは私には考えられない、我が国に特殊な事情だという他はないであろう。映画を見ればもっとはっきりする。傑作は依然として舊劇の側にある。いい俳優もいい監督も。文学に比べれば映画ははるかに直接な芸術だ、一般ファンが現代ものの傑作を一番望んでいることは論をまたない」というのはこの評論が書かれた1932年には正しいのかもしれないけれど、通時的な普遍性がある意見ではない。11-15世紀の中世ヨーロッパではトルバドールやトルヴェールといった吟遊詩人が歌うアーサー王伝説や十字軍遠征などの騎士の武勲詩が人気になったし、1880年の小説『ベン・ハー』がアメリカで200万部売れる人気になって1907年と1925年と1959年に映画化されて大ヒットしたし、1960年代には西部劇が外国で人気になって『荒野の用心棒』みたいな正義のガンマンが悪党を成敗するマカロニウエスタンが大量に作られているので、時代劇を好むのは「我が国に特殊な事情」というわけでもなくて、流行のタイミングに違いがあるにせよどの国でも大衆はそういうものを好むものである。現代でも『鬼滅の刃』やマーベルのスーパーヒーローが超能力で戦うアクション映画が人気で、一般ファンが現代ものの傑作を一番望んでいるわけでもないと言えるし、剣→銃→超能力に武器の形を変えてチャンバラの人気は長続きしていると言えるだろう。
巻末の中村光夫の解説によると、昭和12年の日中戦争前の小林秀雄は「文壇をはなれて、精神の健康を回復する」と言って日本の近代小説に関心を持たなくなって古典に傾倒したようで、結局は谷崎の意見が正しかった。古いか新しいか、時代劇か現代劇か、純文学か大衆小説かという二項対立の問題ではなく、真善美を真摯に追求して人間や社会を向上させる要素を含んでいないものはなんであれ大人が真面目に読むに堪えない。古典は作者が生涯をかけて真善美を模索して数十年から数百年の時間の経過による淘汰を経てなお読む価値があるものとして読み継がれて残ってきたものなので、大人が読んで考察したり研究したりするのに堪えるものになっていて、それゆえに古典を読むことが教養になる。
「もうこれ以上何を奪われる心配があろう」と小林秀雄は暢気に言うけれど、現代のフィクションはもはや現実世界を舞台にしていなくて、現代人は故郷や西洋や東洋だけでなく現実や人間や社会を観察する眼さえ奪われてしまった。現代人がフィクションで頻繁に目にするのはデフォルメされたアニメキャラや超人や妖怪や怪獣や宇宙人やロボットだのといった非人間的な存在だらけで、子供の頃から漫画やアニメを見て育った大人が歴史的連続性から切り離された架空の世界の箱庭の人形遊びを楽しんで現実逃避していて、大衆が幼稚化して社会問題を自分の関心事として考える事さえなくなって投票にもいかなくなった。現代の異世界転生無双小説や学園ハーレムラノベや金儲けのために作者の肩書で話題作りして大衆に媚びる芥川ショーとかは昭和初期の文学よりいっそうくだらないので、大人が読むに堪えるものがない、古典より他に読むに堪えるものがないと言わざるを得ない。
しかし古典だけあればよいというものでもない。クンデラが『小説の技法』で既に語られたことを語りなおしても価値がないというようなことを言っていたけれど、小林秀雄の「通俗現代小説を世間の成人たちが読むとは私には考えられない。もうわかり切った事が故意に面白そうに書いてあって、それ以上発見が語られていないものを成人たちが読むはずがないからだ」も似たような指摘である。大人にとってはすでにわかりきった事でも、学校を卒業して世に出たばかりの青年にとっては何もかもが初めての事なのでありきたりな事を書いた小説でも初めての読書体験として面白く感じるし、青年向けの作品はいつの時代でも一定の需要がある。純文学は青年の作家志望者向けのニッチなビジネスなのだから大人が読まなくても別にいいのだと開き直ればよいし、たとえ教養のない大衆がファンにならなくても純文学こそが現実を見る眼を持つ創作者の最後の砦なのだと胸を張ればよい。明治時代の青年に大人気だった樗牛は現代では古典扱いされずにほとんど読まれていないけれど、それでも当時の青年には樗牛が必要だった。これは令和の青年が村上春樹の小説を読まなくなっても平成時代の青年には春樹が必要だったようなものである。青年読者の恋愛や人間関係や将来の悩みの機微をとらえるには読者と同年代か少し年上くらいの作家でないとだめで、源氏物語とかの古典では時代背景や価値観が違いすぎて未熟な青年が生き方を求めて傾倒するようなバイブルにはならない。
現代の純文学は古典すら読まず文学的教養がない人が作家になって昭和の文士たちの議論が反映されないまま劣化したようで、まだ語られていない人間の実存を発見しようとせず、すでに誰かに語られた内容をリアリティを感じられない奇抜な文体で語りなおすことでオリヂナルな新しい文学を気取って文壇ウケを狙う人が少なからずいて、文学を見る目がない選考委員がそういう小説を文学的だと評価して賞をあげることで変な文体の小説のほうがいいのだと勘違いして文学の害毒に侵されて現実を見て小説を書かずに小説を見て拙い小説を書く作家志望者を増やす悪循環になっている。角田光代が文学界新人賞の選考委員を辞めるときに普通の小説を書けと作家志望者に忠告を言っていたのはその通りなのだけれど、そもそも変な小説をもてはやしてきた文壇や編集者に問題があって、角田光代がいち選考委員として意見を言ったところで芸術の本流をそれて蛇行して迷走している純文学を本流に引き戻すのは大変で、灌漑工事みたいな大事業をやらないといけない。昔は社会の変化と芸術の変化が連動していて新しい〇〇主義が出てくるたびに文学の流れも変わったのだけれど、今は大きな物語がなくなって美術も音楽もやりつくして行き詰っていて外部から文学を変える力がないし、内部も停滞していて文学が自発的に変わる力もない。今は政治経済界の新自由主義グローバリズムや、リベラルによるLGBTQや移民の推進や、それに反発する保守思想や、人種や宗教の対立が世界の関心事になっているけれど、純文学はその流れにも乗れていなくて「社会性を明瞭な文学的リアリティに改変する事」をせずに、作家の周辺で起きた些細な出来事を描いて私小説作家と同様にネタ切れして技法も貧しくて結局は恋愛小説や青春小説だののありふれた大衆小説を書くようになる。純文学でデビューした作家が生活の為に大衆小説を書くのは別にいいけれど、純文学と称して大衆小説のように既に語られた事の繰り返しをやるのはだめで、気鋭の文士を気取るためにそんな手の込んだ欺瞞をやらずに素直に大衆小説作家としてありふれた売れ筋の大衆小説を書けばいいぢやないか。純文学という形式で思想や物語を表現したい芸術家を増やさず、芥川賞作家という肩書を見せびらかしたい売文屋をいくら増やしたところで純文学はつまらなくなる一方である。

★★★☆☆

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最終更新日  2024.02.25 01:42:01
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