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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年03月11日
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カテゴリ:旅日記(九州)
ようやく「柳の御所」へ到着。
現在は「御所神社」となっている。(場所はこちら

門司・柳の御所跡7

時節柄か、盛り上げグッズが・・・
今回の旅で、こーゆー系の初めて見たような気がするぞ。

     御所神社ののぼり

     御所神社ののぼり2

 【柳の御所

  寿永二年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、
  大宰府に落ちていった。しかし、ここでも、豊後の豪族・緒方三郎惟義が
  攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳が浦にたどりついた。
  
  この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、
  しばらくの間、仮の御所があったからである。
  現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと
  伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。
  境内の歌碑は栄華を極めた都の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。】
  (現地解説板より)

はい、明石与次兵衛さんのところで出てきた「大里」がまた登場しました。
「大里(だいり)」はすなわち、「内裏」のことだったんですね~。
大里という地名は、南北朝あたりから使われていたらしい。
正式に表記が変更されたのは、江戸時代に入ってからのことみたいだけど。


解説にある歌碑は、

 都なる九重(ここのえ)の内(おく)恋しくは 柳の御所を立ち寄りてみよ
                             薩摩守 忠度(ただのり)

 君住まはここも雲井の月なるを なほ恋しきは都なりけり
                            大納言 時忠

平忠度さんは、清盛さんの弟。
文武に優れ、歌人としても秀でていた。

都落ちの際には、和歌の師である藤原俊成のところへ行って、
「一首なりと歌集に収めてほしい」と百首あまりの自らの歌を俊成に託している。

忠度といい、前にちょっと書いた経正といい、戦に赴く前の覚悟を決めた身の処し方の話は、
どれも切なく美しい。

経正の場合は、下賜されていた琵琶の名器「青山(せいざん)」を
仁和寺に返上している。
一の谷で経正が討ち死にした後、仁和寺では経正の法要を営み、
これが能「経正」の題材となっている。

忠度の歌は願い通り「千載和歌集」に一首収められたが、
世が世なので俊成は忠度の名を伏せ、「詠み人知らず」とした。
ただ、「新勅撰和歌集」(1235年、藤原定家撰)以降はめでたく
「薩摩守忠度」として掲載されている。

ちなみに、忠度の官名「薩摩守」は、ダジャレで無賃乗車(=ただのり)の意として
使われる場合なんかもあったらしいけど、よい子はそんな言葉使わないでね。 


もう一人の詠み人、平時忠さんは清盛さんの継室・時子(二位の尼)の弟だから、
清盛さんから見て義理の弟。

「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」
(現代語訳で「平家にあらずんば人に非ず」)という有名なセリフを残したのは、
この人。


一口に平氏といっても、実際にはかなりのバリエーションがあるんだけど、
このうち有名なのが桓武天皇の流れをくむ桓武平氏。

平将門を始め、清盛さんや盛国んちなど、一般的に平氏として有名なのは
桓武天皇のひ孫、高望王から平氏を名乗った家系。
大河にも出てくるでしょうけど、家貞・貞能親子や
源氏挙兵後の最初の犠牲者・山木兼隆なんかも皆ここに含まれる。

一方、時忠さんちは桓武天皇の孫、高棟王の時に平姓を賜っており、
同じ平氏といってもかなり公家化した家系であったらしい。
とはいっても、元々はこちらの高棟王流の方が京で文官として活躍しており、
平氏が出た最初の頃は、数ある平氏の中で中心的存在だったという。

この高棟王流の平家は明治維新の時まで存続してたらしいですよ。

ともあれ、平氏が政権を牛耳った治承・寿永の時代には、
まぎれもなく清盛さん周辺が一門の花。

その清盛さんの義弟となり、さらには妹の滋子さんが後白河院に寵愛されたから、
清盛さんと後白河院、ビッグ2の小舅(こじゅうと)になった時忠さんの得意の心中、
推して知るべし。

何だかんだで時忠さんは壇ノ浦の戦いの後も生き延びるんですが、
結構平家にも個性的な人が多くて、人間模様が面白い。
背中に平家の揚羽蝶をあしらった時忠さんの陣羽織は、今も現存してます。



そしてさらに解説板。

 【九月十三夜の歌読の事  
  
  寿永2年(1183)安徳帝を奉じた平家一門は柳が浦に上陸し柳御所を造営した。
  9月13夜の歌宴を此処で催し次の歌を詠んでゐる。

  打ち解けて寝られざりけり楫枕 今宵の月の行方清むまで
                            大臣殿 宗盛
  月を見し去年の今宵の友のみや 都に我を思ひ出づらむ
                            薩摩守 忠度
  恋しとよ去年の今宵の終夜 月みる友の思ひ出られて          
                            修理大夫 経盛 】

 【清経、柳が浦へ入海

  重盛殿三男 左中将清経は柳御所より小舟に乗り沖に出て
  「哀れはかなき世の中よ いつまで有るべき所とて」と静かに念佛して
  海の底に沈んでいった。】

悲しい歌に、哀しい最期・・・
なのに、その歌碑の足元には何故かこんな物がある。

     門司・柳の御所跡6

誰がこんなもんを置いたのか?
とりあえず見なかった事にして、境内へ。

      門司・柳の御所跡3

清盛さんは保元3年(1158)、太宰大弐に就任。
九州管内に所領を獲得して、平氏繁栄の経済的基盤の一つとした。
大宰府の直轄支配下に置かれていた門司関も、平氏の支配下に入った。

さらにこの柳の御所。
ここでの滞在は1週間~1ヶ月程度と推測されているらしいけど、
門司と平家の関わりも結構深いものなんだな~、と
今回の旅で初めて知った。

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最終更新日  2012年12月02日 23時09分48秒
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