カテゴリ:旅日記(九州)
御所神社を出て次へ。
今度は海の方を目指す。 神社を出るとすぐ、「御所」があった!(笑)。 私、こーゆーお茶目な看板とか大好きなんだよね~。 一人だと、話相手がいない分周囲をじっくり見るから、 一人旅を始めてからは、旅の醍醐味のひとつになりつつある。 さて、国道3号線へ出てしまえばわかりやすいかもしれないけど、 排気ガスの中を歩くのもイヤなので、できる限り住宅地の中を進む。 もうほとんど、彦島は諦めた。 電車で下関へ出て、そこからレンタサイクルの予定だったから、 腰が痛くてもまあこなせるかもしれないけど、あまりはっきりわかってない場所だし、 モチベーションって大事だからね~。 彦島は、平知盛さんが城(根緒城)を築いたという伝承もあるんだけど、 その場所は今もって特定されてない。 清盛塚周辺が有力視されてるらしいけど、何ともね。 根緒城のことがもう少しわかってたら、頑張っちゃったかもしれないけど。 大内氏の企画展で今回の2大萌えスポットは攻略したから、 燃え尽きちゃったのかも(笑)。 (注)↑ダジャレではありません。 歩く道々、なにか面白いものないかな~とキョロキョロ。 途中で見かけたおうちは、またもや結構古いものがいくつかあった。 国道渡って線路を渡って、もうすぐ目的地だ~とハアハアしながら歩いてたら、 こんな建物が見えてきた。 カッコいいけど、これを見に来た訳じゃありませんよ。 この手前の道を右に曲がると、目的地・・・だけど、 曲がるといきなりこんなものがあった。 【江戸期凶作に苦しむ農民を救済のため私財を投じて門司小倉に新田門司六本松 猿喰小倉曽根百拾八町余を開作した郷土の誇りとする功績者である。】 (石碑側面の解説より) はい、ここの細い通りは、江戸時代に「大里宿」があったところなんですね~。 大里宿については後述するとして、今は先へ進みます。 で、着いたのが「西生寺」(場所はこちら)。 【西生寺は康正2年(1456)、等阿弥陀慧門大和尚によって創建された 阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院で、総本山光明寺(京都府長岡京市)の 末寺である。 この地は元々細川小倉藩第2代藩主であった忠利公の浜御殿(お茶屋)があったが、 寛文年間(1670年代頃)に小笠原小倉藩第2代藩主忠雄公の命により 大里宿場町内(現在の大里本町2丁目八坂神社前)にあった当寺をこの地に移転し、 その跡地に本陣がおかれた。 江戸時代、徳川幕府の宗門改めの政策により、当寺は企救郡における判行寺 (踏絵寺)として、毎年3月に踏絵が行われた。又本堂内には信濃国守護職であった 小笠原長時公の弟、小笠原信定公の霊牌が安置されており、小笠原小倉藩歴代藩主は 度々当寺へ参詣された。 その他境内には細川公の浜御殿当時の古井戸や、大里の浜で戦死した毛利家の家臣 福間元明の石碑が残されている。 当寺は慶応2年(1866)の豊長戦争で焼失し、現在の本堂は、明治16年に 再建されたものである。】 (現地解説板より) といった戦国関連のお寺だったので、やって参りました。 そうは言ってもねえ、現地でのキーワードは『浜御殿跡・古井戸・福間碑』 の3つのみで、小笠原長時の弟はすっかり抜け落ちてたんだよねえ(笑)。 ちゃんと把握してたら、本堂の拝観が可能かとか聞いたかもしれないけど。 境内に入ってぐるっと見渡してみたけど、 目立つところに案内板とかはない。 ひとまず右手の墓地に入って福間氏の碑を探すけど、それらしいものは 見当たらない。 境内の左奥は駐車場になってて、その奥は行けそうにない。 困ったな・・・と思って、境内をぐるぐる歩いてみる。 本堂の手前にある灯籠はなんか由緒ありそうだけど、 何にも解説はないし、字は磨耗して読めないし。 墓地入口にあるこれも、綺麗だけど明らかに井戸じゃないし、 石碑にも見えないし。 山門のところにあるこれも、井戸の跡には見えないし(笑)。 あ~困った困った・・・ しかし、ここまで来てひとつも見ないで帰れるか!ってんで、 しつこく境内をウロウロ・・・ 中から誰か見てたら、相当怪しい人に映ったと思う。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年12月02日 23時10分28秒
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