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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年09月04日
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カテゴリ:旅日記(中国)
三原の名物は、タコ。

けど、入ったお店にはタコメニューがなかったので、
海鮮ちらしで腹ごしらえ。

先に食べ終わったお客さんが、お持ち帰りを頼もうとしたら、

「温かいシャリを握ってるのでねえ~、
今はお持ち帰りはやってないんですよ~。
保健所からの指導でねえ~」


と断られてた。

その指導ってのが、例えば気温が何度以上になったらダメとかなのか、
そこまではわからなかったけど、ナマモノを扱うお店も大変だな~と思った。

だって、ホントに今日暑いし。
旅が近くなってきた頃から、三原の天気は毎日チェックしてたけど、
だいたい柏より1~2℃高い印象だったもんな。

なので、暑いのは覚悟してたけど、マジ暑い炎

今日は最初のスポットでどの位かかるのか読めないから、
漠然とした予定しか立ててないけど、あんまり無理しないでおこう・・・


涼しい店内でぐだぐだしていたかったけど、
ここまで来てそれはイカンよな、と自分を奮い立たせて店を出る。



最初に向かったのは、米山寺(べいさんじ。場所はこちら)。

お寺の斜め向かいに墓所があるので、どっちに先に行こうか迷ったけど、
何はともあれまずはご挨拶音符


        三原・米山寺


        三原・米山寺11



 【国重要文化財 米山寺宝篋印塔

  米山寺は、嘉禎元年(1235)、小早川茂平によって境内に不断念仏堂が建立され、
  小早川氏の菩提寺となった。小早川氏歴代の墓など(石造宝篋印塔20基)が2列に
  整然と並んでいる。

  このうち、後列、むかって一番左の大型の塔が米山寺宝篋印塔で、高さ223.4
  センチメートルで、この塔は、元応元年(1319)に供養塔として造られたもので、
  形態は温雅の感があり美しく、鎌倉時代末期宝篋印塔の秀作である。

  塔身に「大工念心 元応元年己未十一月 日、一結衆敬白」の刻銘がある。】
  (現地解説板より。漢数字は一部戦国ジジイが変換)


え~っと、まず、念心さんの宝篋印塔はこれです。


        三原・米山寺・念心の宝篋印塔


古い割には、綺麗に形が残ってる。
解説板では日付の部分が空白になってるんだけど、
摩耗してるのかな。
誰のための供養塔だったんでしょう・・・

でこの塔、かなりデカイのを想像してたんだけど、
思ってたほどではなかった・・・

とゆーか、この大きいのがさほど目立たなくなるくらい、
真ん中の写真のように立派な宝篋印塔がずらりと並んでる。

まあ、色んな人のサイトでこの宝篋印塔群の写真は見てたけど、
確かになかなか迫力があるわね。


彦根藩井伊家の歴代藩主の墓なんかもなかなか圧巻だったけど、
あの時は井伊家の墓参りが目的じゃなかったから、
写真も撮らずに真ん前を素通りしてったし(笑)、
細かいことはもう覚えてないな~。


さて、ひとまず解説に沿って話を進めましょうか。
まずは、小早川家のごく簡単な紹介から。


   小早川家系図3
        

前回のやっさ祭で触れたように、小早川氏は土肥實平を祖とする家系。
實平は相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町・真鶴町あたり)を本拠として
土肥氏を称する。

小早川氏の名前の由来で現在有力とされているのが、
實平の子・遠平が有した相模国早河庄を流れる早川の名を取ったというもの。

平氏でありながら頼朝についた實平は、追捕史としても活躍をしたので、
平家没官領(もっかんりょう。平家滅亡後に朝廷に没収された平氏の所領)であった
安芸国沼田(ぬた)庄を与えられた。

もともと沼田庄は、京の蓮華王院(いわゆる三十三間堂)の領地であり、
平家の家人・沼田氏が管理・・・というか実質的に所有していた土地だったが、
沼田氏が平家一門に従ったため、没官領となったそうな。


とは言っても、實平・遠平の時代には本拠を沼田に移した訳ではなかった。
本格的に沼田に移ってきたのは遠平の養子・景平、またはその子の茂平の代。

遠平には実子もあったが、清和源氏の家系で頼朝の信任の厚かった
平賀義信の子・景平をもらい受けて、これに沼田庄を譲った。

そして実子の維平には本拠の土肥郷を相続させる・・・が、
維平はその後の和田義盛の乱に加勢して、維平および維平の長男・次男は
討死、あるいは刑死してしまった。

一族の滅亡こそ免れたものの、これにより小早川氏の関東での
かつての勢力は失われてしまう。
しかし、沼田庄は景平に相続させていた事が幸いして、
この所領は残された。

こうした経緯を経て、土肥郷を本拠とし維平を嫡流としてきた土肥・小早川氏は
沼田庄を本拠とする景平の系統を惣領とする時代に入っていく。

平家だけど、実際は源氏の血をひく者が家系を存続させるってね、
ちょっとややこしいけどね(笑)。



他家と同様に、小早川氏でもそれぞれの代で庶子に分家を立てさせ、
勢力を固めていった。
茂平の代では、茂平の三男が惣領家を相続する。

後鳥羽院が鎌倉幕府に対して挙兵した承久の変では、茂平は幕府方につき、
その功を賞されて新たに沼田庄の南の地、都宇・竹原両庄(現在の竹原市あたり)の
地頭職をゲットした。

この地は京の下賀茂神社の所領だったが、源平の戦いおよび承久の変で
いずれも幕府に反抗しているなどの理由でこれまた没官領となった所だった。

この新たな領地に茂平は四男を封じ、竹原小早川家を新設した。

小早川一族って、実際は沢山の家系があるんだけど、
一般的に有名なのは、沼田本家とこの竹原家だよね。

ちなみに、沼田本家の通し字は「平」、竹原家は「景」です。
一部例外もあるけど、大概の人はこれで見分けがつきます。

隆景ちゃんの場合は、先に竹原家を継いでいるので、
大内義隆の「隆」とあわせて隆景。

もし最初から沼田本家を継いでたら、「小早川隆平」だったカモ・・・
なんてくだらない想像をしてみる泣き笑い

時々誤解してる人がいるけど、隆景の元服時期は天文16年~17年頃なので、
竹原家に入った後で幼名の徳寿丸から隆景へとバージョンアップしている。
なので、「毛利隆景」を名乗ったことはありません。



さて、小早川氏の経歴についてはひとまずここまでにして、
次は米山寺との関わりについて。

 
 【東廬山米山寺は寺伝によると、平安時代の仁平3年(1153)に誓願禅師によって
  天台宗寺院として建立され、巨真山寺と称したが、のちに巨真山をコマヤマと読み、
  これがなまってコメヤマとなり、さらに米山の字をあて、室町時代には、ベイサンジと
  呼ぶようになった。また巨真寺とも称した。

  天台12世覚仙の時、建保の初土肥実平法を受け、没するにおよび此処に葬ったという。
  嘉禎元年(1235)に小早川氏4代の茂平が境内に不断念佛堂を建立し、また
  伽藍を整備して歴代の牌子を安置し、小早川総領家の菩提寺とした。

  嘉禎4年一条入道太政大臣(藤原公経)の御教書によって、塩入荒野を開き
  (沼田千町田)、佛餉灯油修理料田とした。延文年中小早川宣平の七男応庵和尚の時
  臨済宗に改宗し、以後歴代住持は小早川総領家出身者が多く、中でも臨済3世
  琴江令薫は8代春平の2男で、後に京都大本山東福寺管長をつとめた。

  関ヶ原戦後の慶長5年(1600)毛利氏に従って防長に移封せられ、臨済最後の
  住持正厳令周は、此処を去って周防に新巨真寺、長門に隆景寺を創めた。

  無住になった慶長8年(1608)回録にあい、ことごとく建物は焼失した。
  元禄の初隆景100年忌を迎えるにあたって、三原宗光寺慈雲和尚によって
  堂宇が再建され、同寺の末寺として再興され曹洞宗に改宗し今日に至っている。

  現本堂は、昭和50年、庫院は昭和54年、鐘楼門は平成13年それぞれ再建された。
  往時境内には、日光坊など12坊があったが、江戸時代には日光坊(現日光寺)
  だけになり今日に至っている。】
  (米山寺のしおりより)

茂平がお堂を建立したのは、鎌倉3代将軍・実朝の菩提を弔うためとも
いわれているらしい。
  

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最終更新日  2013年04月29日 22時30分53秒
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