地域都市計画の思想と政治的ベクトル
本日の曲The Rolling Stones - Undercover of the Night 最近必要があって訪れた或る法律家の事務所にミック・ジャガーの肖像写真がありましたローリング・ストーンズは、私も昔から大好きでありまして、来日コンサートには欠かさず行っているほか、はるか大昔の大学のころは、大阪にあります、ライブハウスでローリングストーンズのコピーバンドをよく聴きに行ったものでありますThe rolling stones - Get off of My cloud The Rolling Stones - Get Off of My Cloud (1967)Rolling Stones - The Last Time (1965)the rolling stones 19th nervous breakdown さて本題日本中いたるところで、くたびれて活力のなくなった灰色のシャッター商店街を見る機会があります。巨大モールの出現、若年人口そのものが劇的に減少しつつある、とか複合的要因はいろいろあるのですが、都市計画理念や建築思想の発想の貧困、地方政治の弱体ということにも大きな原因が存在するようにおもわれます。様々な観光資源、温泉やら、新幹線の駅やら極めて立地条件に恵まれているのにそれを生かしていくべき民意が、「啓蒙の必要なくらい」貧困である傍観者として始終し、難儀をも厭わない自発的主体的な権利者意識がたりない、明確な着地点としての戦略目標、斬新な発想と、これを現実化すべき政治的ベクトル=実務としての政治的組織力がたりない。また、あきらかなる迷妄や不条理・不合理等を断固として粉砕・阻止すべき良識もない。例えば、美しい景観の一部としてある、透明度の高い河川の真中に、自然生態系と美的な調和をぶち壊しにする怪物めいた鉄塔及び巨大な橋が起立しており、その建設理由たるや観光客が見にくることを当て込みわざわざ2億円もつぎ込んで建てた・・・・みたいな・・・・このような事例は、日本全国、いたるところで散見され、その結果として強力な電磁石のように人を魅きつけてやまない魅力的地域が形成されないか失敗している。もちろん経済的な価値基準がすべてではありませんが、商品価値の高い、魅力的な地域が資本の蓄積とも正比例しつつねずみ算式に人や物を引き寄せるのでありまして、このことは、巡り巡ってインフラの整備とも深く関わってくる。逆の事例をかんがえてみればわかります。地方に魅力がなくなり、益々、若い人達が、定着しない、物が売れない、お金が無くなる優秀な人材が集まらない、一時的に集まっても定着しない生活に必要なインフラが整わない、地方に魅力がなくなり、益々、若い人達が、定着しない、物が売れない、お金が無くなる優秀な人材が集まらないこの悪循環なのであります。魅力的な都市や地方とは、一体何なのか。私の見るところ日本の建築家や都市計画家は、幾度もチャンスがありながら、魅力的な都市の建設や地方の再建に再三再四失敗している。彼らが無能であったというよりも、その背後にあって、造形の一大原理となっていた近代建築理念を思想として批判的に分析する必要ということに思い当たるのですが、展開すると膨大になりますのでまたの機会に改めます。都市や地方の建設に「計画性」が必要なことは、言うまでもありませんがそのバランスが崩れると意図したこととは、逆の結果になりやすい。「計画」はあくまでも、上部権力から下々への「形」「美学」「型」のおしつけ、多様性を排除した無味乾燥な官僚的統制がもたらすところの規格化や平準化の強制、であってはならないし、自然生態系との調和や環境の地域特性や特有の歴史性を無視したものであってもなりません。では健全な地方都市とは、どんなイメージとなるのでしょうか。まず、インフラの整備は、必須でありましょう。一つの事例として医療を取り上げてみましょう。病院がないとか、あっても医師の技術的レベルや設備の質が劣悪というのでは、お話にならない。しかし、これは供給する側の問題のみならず、風習としての暗愚な地域的「擬似」封建制度及び「惰性としての」不条理性に安住し「安直な子供だましや、老人だまし」=心理的安心感のみをありがたがる傾向、そういった心性に迎合する医者がそうでない、日夜、技術の向上に熱心な医者たちより評価される傾向を是正し(そのためには、正しい啓蒙が必要であります)真に手間暇のかかった高水準な医療技術と練磨された医者の技量に真価と価値をみとめ、これを正当に評価する気風というものが要請されてくる。この場合もサービスの受け手は、傍観者であってはならず、かといってモンスターペインシヤントであってもならず、一人一人の市民が、権利ばかり主張して義務を守らないとか「ケチつけや批判ばかりで建設的な代案がない」といったことではダメでして公共サービスの受け手として、明確な自立的意識、社会的自覚を持ち「全体の足を引っ張る」のではないところの常識ある対応が必要とされてくるのであります。受け手の側から気ずいたことは何か、改善点や見習うべき理想に関する情報収集と実現可能な提案、過去の経験則の共有と、なるべく正確で公平な「自分で見て、体験して、自らの頭で考えた情報」の伝達、(発信された情報がきちんと大きな誤差や誤解なく着地しているかどうかの確認もいるのは当然。)手足を動かす具体的な協力活動もときには必要となってくる。刻一刻過ぎ去り行く現在は、同時に生成途上の歴史なのでもありまして、後世への教訓として公平かつ客観的視点からなる、そして万人において参照可能な「記録」を残すことも極めて重要であります。たまたま、医療の問題に少し触れてみましたが、教育、福祉を始め、また機会を改めて書きますが、同じことが言えるのだと思います。地方における都市の形成にあたり、「美学」つまりデザイン上の問題は、非常に重要でありまして、森の中に点在する美しい北欧建築風の店舗群、おしゃれな喫茶店やレストラン、珍しい輸入雑貨を集めた装飾用品店といったコンセプトで統一すべき場面に、パチンコ店や、くたびれたラーメン屋、薄汚れた布団や下着がだらしなく干してあるボロアパートが隣接してあったりしたら当然、興醒めでありましょう。上流志向の「ざあます」的階級的偏見と共にパチンコ店やボロアパートがダメだと言っているのでは断じてない。自然生態系との調和も含め地域の特性や土地柄にぴったり合致したセンスのいいデザイン都市計画というものが存在している筈だと。従来の造形作家たち、建築家や都市計画家に関して、その作品や背後にある思想に関し、私個人はかなり不信感をもっているのですが、地域ごとの特殊性に配慮した例外的作家がいたならば、ーー必ずしも職能的プロである必要はないーーそのコンセプトを基準としつつ地域住民との密接な対話と交流、説得的な啓蒙をも交えつつ、「美的な」計画性にて統一され、洗練された都市形成こそがめざされねばなりません。最近の読書都市論と関連して東郷和彦著「戦後日本が失ったものー風景・人間・国家」を拝読。建築家や都市計画家でなく、元外交官の書いた都市論・風景論であります。(氏は、北方領土問題の専門家として知られ、最近ではスカイパーフェクトの「ニュースの深層」やNHKの特集で興味深い発言をされていた)それだけに余計な既成概念に浸食されていない素朴実感論的な斬新さがある。ラフカデオ・ハーンやアレックス・カーの風景論と比較したくなる内容。後者に関しては、事実、思想的な影響関係があるみたいです。東郷先生は、私のイメージだと、良心的な保守派という感じで国際基準で通用する数少ない論客でありましょう。朝鮮問題や、従軍慰安婦の問題など、右派のなかでもあの有名な佐藤優さんと並び開明的思想の持ち主と言える。ほかに建築や都市論で私が評価する論客としましては長谷川堯氏や、布野修司氏、古くは今和次郎、西山卯三などであります。ここ一年半ばかりマルクスの資本論を再読し続けていたのですが基礎的な、精読の必要を感じ、浜林正夫氏、山内清氏の著書、ローゼンベルグの「資本論注解」、不破哲三氏の資本論講義録などを併読。私の政治的な立脚地点は、やや右寄りの保守でありまして、ジョルジョ・ソレル、ムッソリーニや、高畠素之、北一輝、大川周明や葦津珍彦、橘孝三郎らが社会主義文献に精通していたのと同様に私自身もーー彼らみたいに政治思想を生活の糧とするのではないにせよーーマルクスを筆頭にした社会主義文献への興味と愛国主義の共存に矛盾は感じない。マルクスは、学者になりたいため、とか、階級離脱やお金のために「資本論」を書いたのではなく、世の中を変えるために多大な時間と労力を費やしてこの本を完成させた。今では通用しなくなった概念、矛盾や、混乱などもあるにせよ、工場や労働日など労働現場そのものへの分析・世界変革のための経済哲学といった視線の角度は資本主義社会のもたらす不条理・搾取、非搾取関係がなくならない限り不滅でありましょう。再度、誤解のないように書いておきますと、私はマルクス主義者ではありません。マルクスと同様にフーリエやオウエン、プルードンも評価するし、流れはやや違うにせよ、ヘンリー・フォード著作集の愛読者であり、労働現場のみならず資本主義生産方式それ自体にも興味がある・・・また、あの重厚緻密な高田保馬のマルクス批判に一理あることも認める。近代経済学の流れで私が評価するのは、マーシャル、日本では福田徳三といった人たちであります。いずれ詳しく展開します。そもそも私の職業の現場自体がマルクスの思想的な射程の限界を物語る・・・・霊能者として霊視によって見える独自なことがあるので唯物論は間違っているとか、そんな通俗的でアホな事柄を言いたいのではなく、ーーー言ったからといって別になんてことはないのですがーーきちんとした宗教思想家たちは、ブーバーにしろベルジャーエフ、シモーヌ・ヴェイユにしろ(佐藤優さんは合格だが、中沢新一をこの隊列に加えるのはどうか・・・・)マルクスを含めた社会主義思想を良く読み込んでいた。上部構造・下部構造における、下部構造の充足つまり経済的富の配分が、社会の総体に十分行き渡り、食うのに困らなくなったとしても現に私の所に相談に来る大勢の人達のように富にめぐまれたエリートたちと言えども不倫だの、いじめだの、職場での派閥争いだの家庭内別居だの人間性本来のもつ複雑で果てしない悩み事は決してなくならない。全く逆に貧しいプロレタリアだが家族みんなが、ほのぼのとして暖かく、会話も触れ合いもあって精神的には、豊かだという人達もいる。日共にも新左翼セクトや諸々の党派にも属していない異端的な単独者だからこそ先入観に毒されない独自の読み方ができるのではないかと考える次第であります。