乃木希典閣下の遺徳に学ぶ
本日の曲 キャンディーズ あなたに夢中我々の青春時代には、キラキラ輝く魅力的なアイドルがたくさんいました。キャンディーズは、まだ有名じゃなかったころ、早朝の番組の短い時間帯に出現、非常に印象的だったのを覚えています。アイドルをとりまく「親衛隊文化」の空気こそが我々の世代の特徴とも言えます。さて本日のテーマ。或る日、或るとき、友人F氏と酒の席で白熱の議論となりました。F氏とは長い付き合いで、平穏無事な意見交換のみならず、価値観の微妙な対立・衝突を含むところの政治的な議論をたまにやります。よくあることなのですが今回の議題は、重要な論点を含むと思われますので、少し説明を加えておきます。戦争で死んで行った兵士たちの死は犬死だった、無駄死だったそれを認めることこそが重要だというのがF氏の意見。戦争で死んで行った兵士たちの死は犬死・無駄死だったのではない、歴史的事実への考察・反省点を含みつつも彼らの霊魂は実在している、歴史の継承性の中で彼らは生きており、霊的な価値、建設的な価値と影響を現代に対してもたらしている、その「死」と「精神」さらに言えば「神話」と「物語」は民族の遺産として子孫に語り継がれるべき永遠の生命を獲得しており不滅である、というのが私の意見。二百三高地での戦いであれ、戦艦大和の壮絶な最後であれ、カミカゼ特攻隊であれ、戦略的戦術的観点から見た場合、合理的観点から見た場合の不条理性というのは明らかでありましょう。名著「失敗の研究」で解明された論点を踏まえた作戦計画というものが、将来の戦術において反省的に生かされるべきことは当然かと思います。その点私は無意味な精神主義や玉砕至上主義論者ではありません。(実は乃木希典閣下も実際は精神主義や玉砕主義の権化ではなく司馬僚太郎氏の「坂の上の雲」や「殉教」に描き出された無能な軍人としての乃木像は、文学的粉飾としてはおもしろくても史実としては大幅に間違っており、乃木希典をゲリラ戦の先駆として高く評価したレーニンや「旅順攻防戦の真実ーー乃木司令部は無能ではなかったーー」を書いた別宮暖朗氏のごとく詳細な史実に深く立脚した見解を私は支持します。これはまた別稿にていずれ詳しく書きます)しかし、そのことと、戦争で死んだ兵士たちの霊魂の不滅性ということとは、別次元の話であります。目に見えない世界が実在しない、霊魂が存在しない、ということであれば、現世における物質的な栄達、物欲の充足こそが至上の価値となり、「死」ではなく現世の「人生」のみが問題となる。「勝利」という結果が出せなかった戦争による兵士たちの死が無駄死だったという合理的な結論がそこから導き出されるのは或る意味、必然の帰結かも知れません。しかし、目に見えない世界が実在する、霊魂も実在する、ということであれば、靖国神社は國のために死んでいった英霊たち、神々を祭る宗教施設であり、そこにあるのは宗教的空間なのであって、偉大な霊格、無形の教典、儀式と信者、至高の神聖性・神話と諸々の聖者にまつわる伝説がそこに潜んでいる。明治天皇のみならず東郷平八郎閣下も乃木希典閣下も神社に祭られし「神」にほかならない。そして霊界は人々の脳髄中にしか存在しない架空の蜃気楼なのではなく、現実世界と密接不可分の関係を有し絶えず現世に影響を与え続けている。「神話」は過去の遺物なのではなく、現実に人々を教導・感化しリアルタイムで現実を動かし、人を変え、世界を変える神聖性としての霊的ヴェクトルなのであります。F氏がそこまで理解した上で、その総体に軍国主義復活だの、右傾化だか何だか危険思想の兆候を読み取り、すべてを解った上で全否定するということであれば、F氏の立脚地点はもはや「右翼」ではなく「市民派左翼」の平和主義イデオロギーだということになる。しかし、その場合でも、たとえば漫画家の水木しげる氏が、戦場の悲惨を表現したごとき反戦の角度から、英霊たちは、戦後の平和に貢献するため自分たちの死の意味を決して無駄にしないでくれ、と悲惨な戦場における死の意義を黄泉の国から訴えかけているという意味でやはり彼らの死は犬死でも無駄死でもなかった筈であります。私とは価値観が違いますが、以前にも書きましたようにダグラス・ラミスさんのようなイデオロギーに対し私はーー賛同しないけれどもーー一定の敬意は表しております。世界観や価値観の根本的相違は、噛み合わない不毛な論争や殲滅戦によって解決すべきではなく、お互いがお互いに理想とすべき理想社会の実現とその人々を吸引する魅力的社会関係の構築如何によって競い合うべきであります。乃木希典大将の人格、教え、生活、生涯、三島由紀夫の割腹自殺、神風特攻隊や戦艦大和の最後が、日本人の心に何を訴えかけているのか、とりわけ若い世代の絶大な関心を集め続けているのはなぜなのか、今だからこそ深く考えてみる必要があるのです。(この稿続く)