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1

民主的な力

2011.08.22
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カテゴリ:民主的な力

 現在の日本の政治が「とても信頼できる」ものだ、子どもたちが民主主義を学んでいく上でお手本になる素晴らしいものだ、と考えている人は少数でもでもいるでしょうか。

 全然だめだ、という声は山のように聞こえてきます。しかし、どうすればその現状を打開していけるのか。私は、「優れた指導者が登場すれば・・・」という発想そのものを変えていく必要があると考え、6月12日に開かれた「自然エネルギーに関わる総理・有識者オープン懇談会」に注目してきました。 

  まさに、この会を主催した内閣府参与の田坂氏はインタビュー記事(月刊誌『Voice』)の中で、日本の(政治の)あり方の根本的な変革を展望していたことを述べています。

 注目すべき発言の後半部分を以下に転載しておきますね。

 内閣府参与 田坂氏のプロイールはこちら

 ――近くでご覧になって、率直に菅総理は、指導者としてどうなのでしょうか。

 田坂 もとより、理想的な指導者像と比較すれば、誰といえども、不十分な点はあります。しかし、内閣官房参与という立場は、現在の内閣を統轄する総理を補佐するのが役割。その総理の強みを生かし、弱い所を補うべく努めなければならないと思っています。

 そして、その職務を通じて、複雑な政治の状況のなかでも、現実を1ミリでも良き方向に変えていけるかが問われているのでしょう。そして、私自身は、もっとも重要な仕事は、国民の声や思いを官邸に届けることと考えています

 ただ、あえて申しあげるならば、菅総理は、総理になる前から、誰よりも「官僚主導の打破」と「政治主導の実現」を訴えてきた。その総理が、政府のあり方を思うように変革できているかといえば、けっしてそうではない。官僚組織は、組織としての「慣性力」がきわめて強い。

 官僚の一人ひとりと話をすると、誰もが優秀で、職務に対して忠実であり、使命感もある。そして、善意もあり、人間的にも好感のもてる人が多い。ところが、それが官僚組織という「システム」になると、硬直的で、非効率的で、国民にとっては、「温かみのない組織」になってしまう。

 なぜか、一人ひとりの願いや思いを超えて、悪い方向に向かってしまう。現在の政治や行政の姿をみていると、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」という言葉の怖さを、つくづく実感します。

 ジョージ・オーウェルも、未来社会においてわれわれが戦うべき相手は「システム」だというメッセージを残していますが、このシステムを変えていく戦いは、じつは、政権交代を実現し、政党が代わっただけで簡単に進むものではないのですね。いわんや、「総理さえ代えれば何かが変わる」というほど簡単な話ではない

 では、このシステムを変えるために、何を変えるべきか。

 私は、まず変えるべきは、われわれ国民一人ひとりの意識だと思うのですね。そのためには、長く続いた劇場型政治や観客型民主主義を克服しなければならない「誰か面白い変革ドラマをみせてくれるリーダーはいないかと考え、人気のある政治家がいると、期待し、投票し、リーダーにする。しかし、まもなく、そのリーダーに飽き、幻滅し、また、次のリーダーを探す」。そうしたヒーロー願望と幻滅が繰り返されるだけですその原因は、われわれのなかに巣食っている「自分以外の誰かがこの国を変えてくれる」という依存の病であり、この病をこそ克服しなければならないのですね

 そして、この病を克服したとき切り拓かれるのが、一人ひとりの国民が社会の変革に参加する「参加型民主主義」の時代なのだと思います。そして、じつは、いま、この新たな時代を切り拓く好機が到来しています。なぜなら、今回の大震災後、多くの日本人が「被災地のため、この国の復興のため、いま自分に何ができるのか」を真摯に考えているからです。

 こんな時代は、かつてなかった。いまこそ、こうした国民のエネルギーを、素晴らしい国づくりへと向けていくことができるならば、政治が変わると思うのです。

 そして、この参加型民主主義を実現していくために、自然エネルギーというのは、格好のテーマなのです。なぜなら、原発をつくるかつくらないかは、いくら国民が議論しても最後は国と電力会社に任せるだけの話になってしまうしかし、自然エネルギーは、議論ののち、国民が自らの手で取り組むことができる。その気になれば、すぐに太陽光パネルを導入することもできるし、節電に取り組むこともできる。

 まさにそれは「参加型エネルギー」であり、われわれ一人ひとりが日々の生活を通じて新しい社会づくりに参加できるのです。その意味でも、今後、自然エネルギーは力強く推進していくべきでしょう。これは観客型民主主義から脱却するための、一つの有力な方法だと思うのです。

◇ネット直接民主主義で政府のあり方を変える◇

 ――それが6月12日に、Webの動画中継を通じて全国に発信した「自然エネルギーに関する『総理・有識者オープン懇談会』」にも通じる思いでもあるわけですね。

 田坂 そうです。五人の有識者と総理の懇談会をネット中継し、延べ15万人を超える方々が視聴し、ツイッターなどで15,000件を超えるコメントや質問が寄せられました。私自身、内閣官房参与として取り組みたかったのが、この「開かれた官邸」のスタイルでした。つまり国民と政府中枢を直接結ぶ、双方向性のある開かれた場づくりでした。

 その場で、有識者を交えて賛成派も反対派も意見のやりとりをする。そうしたなかで、国民的な議論が巻き起こり、国民の行動が生まれ、政治への参加意識が自然に育っていくこうした場がなければ、国民はどこまでも「お上と下々」という古い感覚に縛られたままになってしまう。インターネット革命が1995年に始まり、もう16年たっている。私はもともとインターネットの論者ですから、こうした日が来るのを待っていたのです。

 ――ネットを活用した直接民主主義の動きは興味深いものですが、反面、菅総理が総理であるからこそ、それがある種の市民運動的なイメージでみえてしまっているところがないですか? たとえば6月15日の「再生エネルギー促進法成立! 緊急集会」では、「オープン懇談会」にも参加した孫正義氏や小林武史氏が顔を揃え、そこで菅総理が得意のアジテーション演説を行なったので、とても、昔ながらの市民集会と二重写しになってしまいます。

 田坂 「オープン懇談会」と「緊急集会」は、たまたま出席者が重なっていますが、それぞれまったく別の主催者であり、私自身、緊急集会の企画には関わっていません。

 「オープン懇談会」はインターネット革命の時代の新しい民主主義のあり方、参加型民主主義をめざすものであり、かつての市民運動とはまったく違うものです。それは、むしろ、政府と国民の新たな対話のスタイルといってもよい。したがって、この新たな方式は、総理が代わっても、政権が代わっても、続けていっていただきたいですね

 おそらく、こうした参加型民主主義の新たなスタイルが広がっていくことによって、市民運動のスタイルも進化していくのでしょう。そして、政府のリーダーのスタイルも変わり、政府のあり方も変わっていく。

 3月11日は、すべての国民にとって忘れがたい痛苦な経験でした。しかし、だからこそ、われわれは、この時代を、何としても、日本新生の転機にしていかなければならない。そして、そのためにも、いま、政府自身が、大きく変わっていかなければならないのですね。

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Last updated  2019.03.30 13:38:53
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2011.03.03
カテゴリ:民主的な力
「100ページの1文」の記事「民主主義」絶対主義の失敗 でブログ主のkurazohさんは次のように述べていらっしゃいます。

>部活動の組織は,封建主義的な要素をしっかりと受け継いでいる数少ないものです。
>ここに,民主主義の原理を導入すると,おかしなことになっていくことに,指導経験がある教師なら思い至るはずでしょう。

 この主張の根拠は「経験」と「実態」ですね。それを根拠に言えることはせいぜい「部活動に民主的な原理を入れようとしてもうまくいかないことが多い」ということであり、仮に数少ないとしても「民主主義的な実践」を参考にしたり工夫する必要などない、ということにはならないはずです。

 kurazohさんは次のように言われました。
>生活指導の一般的指導方法を部活動に適用させようとする提言と解釈してよいのだと思いますが、私としては賛成しかねます。 部活動で活動の「ルール」を個別に検討していくことが可能な範囲は、そもそも限られています。(・・・・・・)
>限界が見えすぎているため、「もっと他でやってくれ」といいたいですね。

 それでは、学校教育のどの場面で行うのでしょうか?

>しょうさんはどんな部活動を高校でもっているのでしたっけ?
(……)
>>ルールの本質や、それが話し合いによって変更しうるものだ」ということを教えたいと考えた場合、「集合時間が早すぎる」という声が子どもたちから出た時、それを「単なるわがまま」として退けるのではなく、「ルールや約束について考えていくチャンスにしていく」という発想は大切だ この部分は私の主張〕

法教育の教科書まるうつしの提案ですね。

>しょうさんの「建設的な提言」というのは、言葉を変えて言えば、「自分がその価値を重視する教育のおしつけ」にすぎません。

 おやおや、単なる理屈ではなく「ルール(集団の約束事)の本質」を理解し、「それをよりよいものに変えていくような力」とは、単なる私の好みというよりも教育基本法に定める「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」だと言えませんか? 「実態が実態だからそれを実現するための工夫は不要だ」と言うことになるのでしょうか?

 さて、逆の主張になりますが、私は「民主的な活動」を部活動に取り入れることはある意味で容易だと考えるのです。なぜなら「民主的な話し合い」というのはメンバーの「共通利益」に沿って行うことが必要なのですが、部活動の場合「いい練習をして力を伸ばしていくことが皆にとっての利益である」ということを納得して共有しやすいからです

 私個人の部活動体験(高校時代、陸上部長距離)についていいますと、非常に自主的・民主的な雰囲気で活動させていただきました。練習メニューはキャプテンが作り、陸上部の「黒板」に書き込んでおく。それに対し、時には「別の練習の方が効果的ではないか」と部員が意見することもありました。

 このようなやりかたですが、高校生なりに力を伸ばす練習を考え、私が最後に参加した県大会の5千mレースではチームから5名が決勝に残りました。(県全体で15名が決勝に残る大会)。自主的な活動というのは、言い換えれば自分たち自身で効果的な練習を考え・実践するような活動ですから、試合結果だけでなく「総合的な力」を身につける機会になったと考えています。

 さて、高校時代ではなく私が新採用になって「陸上部の顧問」になった時ですが、3年生は新参の私の言うことなどあまり聞こうとしない雰囲気だったり、新入生にも難しい部員がいたりしてなかなか大変でした。そのような私が、さまざまな試行錯誤を経て2年半後に実践したのは、「ミーティングにおける話し合い」を中心に活動を作っていく方法でした。

 大まかには次のようなやり方です。
1、それぞれが最後のシーズンに向けて、目標を設定し全員の前で宣言する。
(この宣言は、達成を目指す記録・結果も含めて一人ひとりが紙に書き、部室に貼り付けました)
2、目標を達成するために大切なことは何か、パート(短距離、跳躍、投てき、長距離など)ごとに3つ以上考え、それを出し合う。

〔出てきた意見:当面、計画的に集中してウェイトトレーニングなど筋力・基礎体力づくりを行う、パートリーダーが練習の節目にしっかり声をかける、その指示にはすばやく従う、力をつけるための練習メニューを自分たちで考える、(結局、長距離はパートリーダーがメニューを作り、短距離は顧問が作ったメニューを生徒自身が検討しなおすことになりました)、練習の一本一本を大切にする、等々〕

3、その中でも確実に約束して実行すべきことを、部員自身で確認する

 シーズン前の2月ごろには、練習の合間の休憩をとっていても、次の行動のためにキャプテンやパートリーダーが立ち上がれば(声をかけなくても)全員立ち上がる、というルールが出来、(2年前からすれば)驚くべき雰囲気の中で、力を伸ばす大変いい練習をすることが出来ました。

 県の高校総体の結果は、男女ともリレーが上位入賞したのをはじめ、15名が県大会入賞・中国総体出場を果たし、2名は全国総体に出場しました。私が、長距離出身で細かい技術指導が出来なかったことを思えば、結果につながるような「いい練習」が選手を中心によくできたものだ、と思います。

 そして、総体後の総括の会議では、県予選を突破できなかった選手も含めて「部活動・競技生活を通して得られたもの」をそれぞれの言葉でしっかり確認することが出来ました。

 以上はミーティングにおける話し合い選手自身が作った「練習における約束」なしには決して成り立たなかった活動です。(「力をつけるために」ということで練習時刻を状況に応じた話し合いによって変更したことも、何回かあります。)

 確かに冒頭の記事の中でkurazohさんの主張されたいことはわかります。賛同する教職員も少なくないでしょう。
 しかし、困難に見えるとしても、「顧問の強力な指導力に依拠しない自主的・民主的な部活動」を子どもたち自身がつくっていくこは可能です。「ルールの大切さや本質、それが変更可能であることを学ばせたい」、そして「部活動を通して○○を身につけさせたい」という意思が明確であればできないことではないでしょう。

  指示待ち人間をなくしたい、「ルールは変えられることを教えたい」というdolceさんの意図や実践を頭から否定するのではなく、「具体的に工夫しながらより豊かな実践にしていける可能性」を模索してみることには大きな意味があるのではないでしょうか?

 なお、部活動も含めた「教育実践と競争」に関する私見は、こちらですので、よろしければご一読ください。

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Last updated  2019.03.30 18:34:47
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カテゴリ:民主的な力

 日本ブログ村に登録していらっしゃるdolceさんとkurazohさんの一連のやりとり(とりわけ2011年2月中旬~3月)をご存知の方は少なくないと思いますが、「もっと建設的なやり取りを」とkurazohさんに要望しましたところ、「あなたが実行してください」とのことでした。そこで、氏のブログ記事「低い方へ,全体・進め! ~生活指導のセンス4 時間~」コメント(3~5)を入れたところ、

 あらたなブログ記事「典型的な迷惑教員・行政の介入の仕方」をアップされました。私としては色々問題を感じるところもありましたので、少し丁寧に引用しながら思うところを述べてみたいと思います。

>>例えば部活動であれば顧問の判断で『子どもたちを信じて自ら決定できる権限を(部分的にせよ)与える』ことが大切だ、」というのが、dolceさんの述べようとされたことでしょう。

>>私は、上記の意図については「まっとうなもの」として支持します。そして、部活動や生徒会活動などにおいて「決められているから守る」というだけでなく、「生徒を信じて決めさせる部分を作る」という発想は大切だと考えるのです。(以上、私のコメント)

>しょうさんはちょっと好意的にとらえすぎですね。
>理由は、自分が主張したいことをこの場に「あてはめたい」からです。
>その前の話などはお読みになっていましたか? 
 
 確かに、冷静に考えて「あてはめたい」という気持ちが全くなかったとは言い切れません。しかしながら、dolceさんが実践しようとされていることが、私自身の主張や実践と通じ合うものがあると感じたことも事実です

 たとえば、2011年02月24日 形式主義とご都合主義
 http://edlwiss.seesaa.net/article/187507228.html

>>私は「教師を信じていないんだ」と考えました。だから、ここはさらに強力な指導が必要だと考えました。そして、次のように言いました。
>>「いや、君たちが、これなら絶対無理がない、守れるという時間なら、先生は反対しないよ。約束する」
>>そうしたら、先生は本気なのか?と思い始めたようで、意見が出始めました。
 
 この場面は部活動の開始時刻をめぐるdolceさんと生徒のやりとりですが、これを私のように顧問の判断で『子どもたちを信じて自ら決定できる権限を(部分的にせよ)与えた』場面と見ることは、不当ではないと思います。

 また、指示待ち人間をなくしたい~その2

 http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200903060000/
 においても
>>指示待ち人間をなくすということは、自発性を喚起するということでもある。
>>その場面は、部活動において工夫できる場面が多いと思う。
>>部活動での特徴は、クラスが同年のメンバーであるのに対し、部活動では上級生、下級生という関係があることだ。
>>これを生かす場面を考えてみた。(……)
>>私は部活動の際は、終了時間ギリギリまで練習をするのではなく、話し合いの時間が持てるように余裕を持って終わった。

 dolceさんの主張の柱であった「指示待ち人間をなくしたい」の延長上に、「(顧問の権限で)主体的に決めさせる部分をつくる」という意図・実践を読み取ることは「好意的すぎて不当だ」とは言えないのではないでしょうか。部活動において「いい練習をしていっしょに力をつけていくために約束を考えるんだ」という点をしっかり共有するように求めていけば、貴重な話し合いの機会に出来ると考えるのです。


>自分が主張したいことをこの場に「あてはめたい」
>自分の発言に都合のよいように解釈する

 発信者の意図・文脈を十分読み取ることなく「主張すること」はkurazohさんにはないのですか? 鏡はご自身に対しても向いているのでは? 以前toshiさんのブログに書き込まれたコメントも含め、自己検証もしていかれれば、というのが私の率直な思いです。

>まず、部活動単位で、休日の活動の開始時刻等が生徒の提案でいくらでもいじれるような学校は、そうはないですよ。先生も、人によってかもしれませんが、そんなに暇じゃありません。
(……)
>部活動の指導のあり方は、中学校と高校、運動部と文化部、顧問との関係など、それぞれ違いがあると思いますが、「生徒が話し合いで決める自由な時間(それもときによって変更可能)に始められて終わることができる」というのは、ちょっと特異なことではないですかね。

 実態としてdolceさんのような実践はあまり行われていないのでしょうが、「休日の開始時刻の決定を顧問の判断で生徒の話し合いにゆだねることが不可能だ」ということではないですよね。
 ただ、このような「お話のやりとり」ばかりでは仕方がないので具体例を次の記事としてアップしたいと思います。

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Last updated  2019.03.30 18:35:34
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2010.11.14
カテゴリ:民主的な力

 日本の現実の中で「討議民主主義」を確立していく展望はいかにして開かれるのか。

 そのヒントになる実践として、この間私は、1、スウェーデンで実践されている「討議民主主義」2、『どんとこい貧困!』で湯浅誠が提示している視点と実践、について述べてきました。そして最後に、3、「討議を取り入れた授業実践」に関連する事柄を述べたいと思います。 

 さて、「討議を取り入れた授業実践」と聞けば、佐藤学氏らの提唱する「学びの共同体」を連想する方もいらっしゃるでしょう。

 確かに「学びの共同体」の理論や実践から得られる示唆は大きなものがあると思われます。しかしながら、私自身の関心はあくまでも「“討議民主主義”の力をつける実践や教育はいかにして可能か」という点であり、その意味では以下の「実践的な認識」 (竹内常一)がぴったりときます。

 「実践的認識は出来合いの認識の伝達によって生まれるのではなく当事者が他者(教師や学習者)とともに、世界に批判的に関与・参加していくことのなかでつくりだされる。(・・・)この中で問題にされているものは『客観的認識』ではなく、どう生きるか、どうたたかうかを他者とともに学びあうことである」(高生研東海ブロックゼミ竹内常一講演レジュメより)。

 このような「実践的認識」はさまざまな方法で創造していくことが必要ですが、戦後まもなく実践された「生活綴り方」から多くの示唆を得られるのではないか、と考えるのです。

 以前、フィンランドという鏡に映る日本の教育 でも述べた内容(関連する部分)を抜粋しておきます。

  戦後新教育の実践でユニークなものは、1950年前後に山形県の山村で実践された『山びこ学校』である。
 教師となった無着成恭は、戦後新しく始まった「社会科」教育を、生活綴り方という教育方法を使って学ばせていった

 生活を綴ることで、生徒たちに自分の生活をありのままに見つめさせ、そこから問題を考える教育方法であるが、さらにその問題をクラス皆の問題として受け止め、その綴り方をもとにクラスで集団討議や集団学習で問題を深めるというものであった
(・・・)

 また、個人の生き方を集団の生き方と重ねることによって、より社会的に有意義で価値のある生き方を追求することも、実感を持って学ばれたこうして経験主義と集団主義が結合した一つのユニークな教育スタイルができあがった
 日本の生活綴り方は、今日流に言えば 「共同の知」を作り出す高度な教育活動であったとも見なせる

(以上 『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』亜紀書房 212頁~213頁)

 自らの生活を文章化し討議することで、社会(世界)のありようと問題が見えてくる。そして、生活の中から出てくる問題を素材にしたHRの活動や、地域の問題を素材にした演劇の作成・上演といった実践は、「(同年齢集団も含む)社会や地域」と関わる集団的行動であると同時に、社会(世界)に関与しつつ社会をとらえなおす「学び」につながるものでしょう。

 そのような実践の中で生まれた川合末男の作文「父は何を心配して死んでいったか」を引用・紹介しておきます。      〔『高校生活指導』186号 10頁からの孫引きですが(・・)〕


 「私たちは、職業を選ぶ権利があると教えられた。ところが、そんな権利は今の世の中ではなんの役にも立たないのだ。若しも社会科の本が正しくて、実際に、安心して職業を選び、職業に就くことができる世の中であれば文句はないのだ。(・・・)職業に就くことができない人が一人もいないような世の中、そんな世の中にすることだと考えてきた」

 そして、死んだ父を一番安心させるためには、そういう世の中を一日も早くつくることではないかと川合末男は結んでいます。

 この川合末男の作文はまさに竹内常一のいう「どう生きるか、どうたたかうかを他者とともに学びあって生まれた“実践的認識”」の一例であると同時に「さらに世界を開いていく学び」の出発点になると考えるのです。                                                          続く


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Last updated  2019.03.30 18:39:39
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2010.10.27
カテゴリ:民主的な力

 『どんとこい、貧困!』の最終ページは谷川俊太郎からの質問に湯浅誠が答える形になっていますが、「何がいちばんいやですか?」という質問に対して、湯浅は「他人を批判していい気になっている人。他の連中はバカで、自分は頭がいいと勘違いしている人」と答えています。(294頁)

 一人ひとりが人生を背負っていて、それぞれかけがえのないものであるにもかかわらず、「他人の人生をなめた言動」に憤りを感じているわけです。『どんとこい、貧困!』の前半部分で「自己責任論」に対して徹底的に応答し批判している背景には、「貧困に陥るようなやつらはしょせん…」と「上から目線でバカにする」言動に対する湯浅の怒りがあります

 しかしながら、「自己責任論」をとことん批判しながらも、次のように言っている湯浅の言葉から得られる示唆は大きいと考えるのです。  
 
 「『どんなに忙しくて、切迫していても背中のあたりがゆったりしているのがいい』といわれて、深く納得したことがあった。」(264頁)
 「活動しているとひどい事例にたくさん出会う。ひどいと感じて、役所や社会に対して怒りがわいてくることがある。その怒りにまかせて、活動し、発言すると、どうしても言動に人格がどーんと乗っかってしまう。」

 「でも、同じ状況下でも、どこかでそれが自分の全部じゃないという留保がかかっている人がいる。『私もいいかげんですけどね。へへ』っていうところが残ってる。それを比喩でいうと『背中のあたりがゆったりしている』ということになるんだろうと思う。」

 「それは真剣じゃない、ということとは違う。真剣だし、大まじめだ。でも『こうだろう』と意見を言いながら、でもどこかで『そうじゃない意見もあるでしょうね』ともう一歩引いた視点をもっている。我を忘れてはいない。反対意見を受け入れる余地(溜め)がある。」

 このような余地(溜め)こそが、討論民主主義を成り立たせる上で極めて重要であると湯浅は考えて、次のように述べます。  

 「その“溜め”が『あなたはそう言うけれど、こういう面もあるんじゃないですか』という別の意見を引き出していく。議論が成り立つ。黙らせない。そして、その人の別の意見を引き出すことが説得のチャンス、問題を共有できるチャンスとなる。」(265頁)
(・・・)

 「自分の方が詳しいテーマで、人を黙らせることはある意味簡単だ。(・・・)黙らせること。それが自己責任論の目的だった。私たちの目的は逆だ。しゃべってもらうこと。ものを言える社会にしていくこと。

 本当の活動家と言うのは、だから、我を忘れてその目的を見失わない人のことを言うんだろうと思う。そして、そういう人たちがたくさんいれば、関心が広がる。(・・・)『関心は尊重につながる』。」(266~267頁)

 そして、湯浅は市民社会のルールについて次のようにまとめ、問題提起をします。

1、自分の意見に自分の人格を埋没させない。真剣に意見を主張しながら、でもどこかで「反論をどうぞ」という余地(“溜め”)を残しておく。

2、意見を交わす相手の“溜め”を増やす。一方的に説き伏せても、相手の“溜め”は増えない。“溜め”が増えれば関心が広がる。それが、自分が大切にしているテーマに対する討論につながる。

 そのルールを守るのが「市民」で、活動家やプチ活動家たちは、市民の中の市民だ。そうして初めて試合が成立する。そのフィールドが「市民社会」―― 私は、そんな世の中を夢想する。それはきっと、いまよりずっと生きやすく暮らしやすい社会なんじゃないか、と。(・・・)

 以上、湯浅が述べたことは、「活動家」としてさまざまなことを経験しつつ、民主的な仕方で社会をよりよくしていく上で「大切だ」と考えた要点なのでしょうが、私たちはそこから多くを学べるではないかと考えるのです。

 以下は、『どんとこい、貧困!』の結論です。

 "頑張り地獄"から"ずるさ狩り"へ。そんな生きづらく暮らしにくいルールは、もう変えちゃった方がいい、と私は思うんだけど、あなたはどう思うだろうか? そして、あなたのまわりにいる家族や友人は、どう思っているだろうか? まずは話してみて、そして相手の意見も聞いてみないか? (・・・) 反論してもらって、考えを深めてみないか? 

 私たちの社会は、そこからはじめて立ちあがる。

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Last updated  2019.03.30 18:40:30
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2010.10.19
カテゴリ:民主的な力

 本ブログ記事も日本的精神風土(問題と展望)の続きです
 

 「閉鎖的な共同体」ではなく「対等平等な市民的共同体」を打ち立てるためにも「討論文化(討論民主主義)を確立していく」という竹内芳郎の問題提起を受けて、この間、スウェーデンで実践されている「討議民主主義」について述べてきましたが、それに続いて『どんとこい貧困!』における湯浅誠の問題提起を紹介します。


 社会の大きな問題となっている<貧困>。メディアで再三取り上げられていても、なかなかつかみきれない実像、なぜ? どうししたらいい? 未来は? について真摯にわかりやすく、丁寧に語りかけます。(・・・中略・・・)
 「がんばり地獄」や「ずるさ狩り」「貧困スパイラル」からみんなでぬけだそう! と私たちに勇気と希望あたえてくれます。
 だれもが暮らしやすく、幸せに生きられる社会を作る力も権利も私たちみんなのなかにある。そんな当たり前のこともあらためて心に響き、実感できます。(・・・後略・・・)

                                           理論者のHPより

 まず、この本の前半は貧困をめぐる「自己責任」論をどう考えるか、というテーマに費やされます。疑問の声は実に詳細であり(例えば「努力しないのが悪いんじゃない?」「甘やかすのは本人のためにはならないんじゃないの?」「死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?」「自分だけラクしてずるいんじゃないの?」等々)

 それに対する湯浅誠の回答は徹底的で、この本全体は「自己責任」論についてとことんつきつめていくことによって「社会的連帯」について考えていくものになっています

 さて、冒頭のテーマ(「対等平等な市民的共同体」を打ち立てるためにも「討論文化(討論民主主義)を確立していく」)に直接関連するのは「第2章 僕らの社会をあきらめない」ですが、そこで湯浅は次のように呼びかけます。

 黙るのも黙らせるのも、もうやめにしようじゃないか。君の溜めが増えるように、みんなの溜めを増やすために。 (“溜め”についてはリンク先を参照)

 変わるべきは僕らの社会だ、と君が思うならば・・・ どこまでが許せて、どこからが許せないのか。それを決めるのはどっかの誰かじゃない。私たちだ。はじかれ、排除されていく人間をつくり出していく社会こそが、もっとも貧しい。

 それでは、湯浅誠氏の目指す社会とはどんな社会でしょうか。(過去記事を抜粋して確認すると・・・)
 それは「活動家と市民が世の中にいっぱいいる社会」であり、それぞれが生きていく中で感じる「違和感をつないで、目に見えるようにしていける社会」です。

 ここでいう「活動家」とは(・・・)「市民的責任」を果たしていく「市民の中の市民」だとのこと。
 それでは、市民的責任とはなんでしょうか。それは、「ものをいう責任」「違和感を言葉にする責任」です。社会が自分も含めた個人にとって大きな不都合を放置していた場合「このようなことは困る」という責任、会社がめちゃくちゃやっていたら「おかしい」という責任です。
(・・・)
 ここで湯浅氏は次のように述べます。
 「活動家」のマイナスイメージ(独善的でマッチョ、他人はバカだと思っているといったイメージ)を変えていくことが大切。活動家とは言い換えれば「場を作る人、つながりあうための空間をつくる人」であり、存在すること自体が自然なことなのだ


 「社会を変えていくために一歩踏み出せるんだ」という学び・体験をよりたくさんの人が得ることによって(自死ではなく)活動家にもユニオンにもアクセス可能になっていく。そうすれば、(・・・) 「〈すべり台社会〉とは別の〈活力ある社会〉」がしだいに実現していく、と考えるわけです。

                                                  2009年度 高生研全国大会における講演より

 ここには竹内芳郎の言う「市民的共同体」に対応するような社会のイメージが、湯浅誠流に描かれていますね。このような社会のイメージと「討論民主主義」とは切り離せないものでしょう。それは、いかにして具体化・実現していくのでしょうか。

  『どんとこい、貧困』で言えば「第2章 僕らの社会をあきらめない」冒頭の呼びかけ「黙るのも黙らせるのも、もうやめにしようじゃないか」が大きな意味を持ってくるのですが、これについては次回記事で補足していきたいと思います。 


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2010.10.09
カテゴリ:民主的な力

 支持獲得-政策による競合
   オルタ「北欧神話?」  「社会」のための政治-討議民主主義の実践-より(続き)

 スウェーデンでは(・・・)社会保険の一つとして「育児休暇保険制度」が早い時期から導入されてきた。74年からは世界で初めて、父親でも育児休暇を取得できるようになった。育児休暇は現在では480日(16ケ月)に延長され、そのうち2ケ月分は父親でなければ活用できない。その結果、近年では育児休暇を取る父親の割合が次第に上昇してはいるものの、取得日数で見ると父親の割合はまだ20パーセントに過ぎない(05年)。

 この間題は、中央統計局や各種行政機関、労働組合などが報告書の中で指摘し、03年ごろから大きな政治問題となっていた。そして、この問題をメディアに突きつけられた各政党は競うように独自の提案をしたのである

〔内容のまとめ:引用者〕
・左翼党・・・育児休暇を父親と母親で完全に二分割し、夫婦間で融通できないようにすべきだと提案
・環境党・・・二分割では現行制度からの変化が急激過ぎるとして三分割案を提案した。(16ケ月の三分の一ずつは母親と父親のそれぞれに固定し、残る三分の一の配分は夫婦が自分たちで決められるようにする)。
 
※経済的な側面の指摘・・・育児休暇中は給料の80パーセントが国から支給されるが、月額約33万円までという上限つき⇒平均的には男性の所得が高いため、夫婦間で合理的な計算をすれば、低所得の母親が育児休暇を取る方が損失が少ない。夫婦間の偏りはこれが原因だ。

・社会民主党・・・父親が育児休暇を取っても給料の80パーセントに相当する給付がなるべく受けられるよう、給付額の上限引上げを提案。
・自由党と中央党・・・夫婦のうち給料が高い方(多くの場合、男性)が育児休暇を取得した場合、所得税の課税に際してもう一方の親の所得から約4万円を控除することで、父親が育児休暇を取得するデメリットを軽減すると提案。

・穏健党・・・国が個人の生活に政策介入するという考えに否定的。当初は育児休暇保険の給付期間を短縮し、給付額も減額することを主張していたが、メディアや国会を舞台に激しい討論が展開されていくなかで世論の支持獲得が難しいと判断し、撤回。

〔本文 続き〕
 このように問題を解決するための多彩なアイデアが国民の前に提示され、それがディベートを通じて切磋琢磨されるなかで、一部のアイデアは淘汰されていく一方、「実験的」な政策提案でも具体化して実際に実行される可能性が生まれてくるのである

 スウェーデンの政策論争や選挙戦は具体性があるため、見ていて非常に面白い。各党が選挙前に発表するマニフェストには、医療、高齢者福祉、育児、学校教育、治安、雇用、税制、移民・社会統合、環境といった細かい分野で、それぞれどんな政策を掲げているかが、詳細に書かれている。そのため、有権者は自分がどんな政策に票を投じているかが明確に分かる。(・・・)

 過去10年間を振り返った調査によると、政権党の公約の7割から8割が実行されてきたという。
 日本でもマニフェスト選挙という要素が若干は入ってきたとはいえ、抽象的な公約しか掲げられないことが多く、また候補者個人の人柄ばかりに焦点が集まりがちである。現在の政治報道を見ていても、政治とは人間同士の権力争いなのだという印象がもっぱら伝わってくる。

 他方で、後期高齢者医療保険制度や裁判員制度、労働法制の規制緩和といった物議を醸す政策がいつの間にか導入されることが決まり、その途端に国民は目覚めたかのように政府批判を行うことがよくある。スウェーデンであれば、まず選挙の争点となったり、他にどのような政策的選択肢があるかがメディアを舞台に十分に議論された上で導入されていたことだろう

 最後になるが、スウェーデンの選挙制度が中選挙区の比例代表制度であることを挙げておかなければならない。有権者は政党に投票し、各政党には得票率に応じて議席が配分され、比例代表名簿の上から順に当選者が決まっていくという制度である。(・・・)

 政治とは有権者との緊張関係の下で、社会を望ましい方向へ導いていくことであるはずだ日本では「政治主導」という言葉が今日盛んに聞かれるが政治がリーダーシップを発揮するためには、政治家が明確なビジョンを持つよう私たち有権者が要求しなければならないだろう。ここで紹介したスウェーデンの事例がそのためのヒントになればと思う。

〔コメント〕
 「各種行政機関、労働組合などによる指摘」を出発点に各政党が競うように提案をまとめ、公の論議が行われるというのが非常に興味深いところです。

 「政治がリーダーシップを発揮するためには、政治家が明確なビジョンを持つよう私たち有権者が要求しなければならない」という佐藤氏の主張はまことにもっともだと思われます。そのような「民主的な力」を有権者が獲得していくために行われている教育や実践については、Mr. Hot Cakeさんがいいサイト〔『スウェーデンの政治 ~デモクラシーの実験室~』(岡沢・奥島編、早稲田大学出版部)の要約〕を紹介してくださいましたので、ぜひご一読ください。
 

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2010.10.02
カテゴリ:民主的な力

 スウェーデンの「民主主義」から学べることは何か。どうまとめたものか迷いましたが、ここでは雑誌オルタの「北欧神話?」に掲載された佐藤氏の一文:「社会」のための政治-討議民主主義の実践-を、下手な要約・解説を加えずに抜粋・紹介することにします。 〔以下は前半( )内は引用者〕

 福祉国家、環境政策、高齢者福祉、年金改革、経済政策……。スウェーデンは小国にもかかわらず、様々な分野で世界的な注目を浴びてきた。他の国が取り入れていない政策を率先して実行しているという意味で、日本では「実験国家」という言葉が使われたり、多くの視察団が個別分野の調査のためにスウェーデンを訪れている。(・・・)


 (しかし大切なのは)枝葉末節における各制度の詳細を追うだけではなく、スウェーデンが多くの政策分野において「実験国家」であり得るのはなぜかという根本的な問題に目を向けるということである。

 私が思うにその答えの一つは、各政党の「マニフェスト」を叩き台にした具体な政策論議と「政治主導」による政策の実行である。政治家と有権者とメディアの間の緊張関係のなかで、各政党が具体的な政策提案を示した上で議論を行い、最終的に説得力のある提案が選ばれ実行されている。そのことを描くためのつの例として、2006年秋の総選挙一年後に控えた05年頃の議論を紹介したい。

2006年度の選挙戦
 ITバブルの崩壊に伴う一時的な停滞の後、スウェーデン経済は04年から05年にかけて大きく回復した。しかし、雇用はほとんど上昇せず、雇用なき成長の現象が顕著になっていた
 (・・・)テレビのあるニュース番組には、与党・社会民主党の担当大臣が招かれ、ジャーナリストがその責任を厳しく追及していた。大臣は「失業者の職業能力が不足しているからだ。いま必要なのは、企業が求めている有能な人材を育てるための教育だ」と述べ、大学教育や職業訓練の充実を約束した。

 これに対して、保守を掲げる野党・穏健党の党首は、(・・・)「一番の原因は、所得税が高いためせっかく働いても稼ぎの多くが税金として持っていかれるうえ、失業手当が手厚すぎて求職意欲が阻害されていることだ」と述べ、勤労所得にかかる所得税の引き下げと、失業手当の給付水準の切り下げを主張した。「アメとムチ」の政策で人々の求職意欲を高め、失業率を引き下げようというのだ

 穏健党は06年の選挙戦をこの路線で戦おうと、既に04年から具体的な準備を始めていたが、一方で大きな問題も抱えていた。実はその四年前の総選挙では一兆円規模の大掛かりな減税を公約に掲げたのだがテレビの討論番組で「その分の歳出をどこで減らすつもりなのか?」 とジャーナリストや他の党に問わ、明確に説明することができなかったのである。次第に穏健党は「信憑性のない公約を掲ぜ、高所得者ばかりを優遇する党」という印象を強めていき、大敗してしまった

 今回、穏健党は慎重な政策提案づくりを心掛け、減税をする場合も社会保障システムを危うくするような大規模な減税は行わないことにした。また、高所得者ではなく低・中所得者層の所得税を主に減税するなど、事業者や高所得者を主な支持基盤としてきた党としては大々的な路線転換を行い、念願の政権交代を実現したのである。

 スウェーデンでは数字を交えた具体的な議論が重視される。前述のように減税を主張したければ、その穴埋めをどうするか、そして、どの歳出項目をどれだけ減らすのかを明確に示さなければ、他の党やジャーナリストに鋭く突っ込まれることになる。

社会的論議と説明責任
 (・・・)報道機関は日々の事件や話題だけでなく、社会に潜む問題を深く掘り下げ伝えている。テレビやラジオは、ある政治的・社会的な問題が話題になると、夜九時のニュース番組や翌目の七時から九時ごろの早朝番組に、関係省庁の大臣や長官を呼ぶ。そこで彼らの責任を追及しては見解を求めたり、どんな対策を講じる用意があるのか厳しく問い詰めるのである。

 これは、行政の責任者の立場からすれば、常に説明責任を求められているということになる。そしてメディアでの発言が言質となり、その道りに実行されたかどうか後に問われていく。一方、野党にとっては、有権者に対案を示す絶好のチャンスであり、番組では野党の政治家や学術系の専門家が招かれ、激しいディベートが始まる。また、ジャーナリストは大学でハイレベルな養成課程を履修した人が多く相手が野党か与党かに関わらず、主張のあらを見つけては鋭い批判を加える。

 メディアを通して「公共」の名に耐え得る場が形成され、多様な論議が形成される。討論において批判に耐えられなかった政策主張は、一般に信憑性に欠けるものと映り、再検討を余儀なくされる。そして、こうしたやり取りのなかから、次の総選挙に向けた政策マニフェストが次第に形作られていく選挙戦では各党のマニフェストに記載される「政策パッケージ」を叩き台にしながら、有権者をいかに納得させられるかが勝負となる

〔コメント〕
 上記の「報告と考察」によれば報道機関の力が大きな意味を持っていることになりますが、当然その背景にはマスメディアに対してそのような役割を要求していく国民の民主的な力があるのでしょう。
〔ここでは、「活発な討論⇒斬新な制度改革の実現」という実績の積み上げと、国民の民主的な公論形成の力がいい意味で循環しているように思われます。〕

 なお、このたびたまたま参院選の最中に日本に帰国していた佐藤氏が、日本の選挙報道に対して抱いた印象はこちらです。日本ではなぜ「根本的な制度改革」にも関わるような討論(⇒公論形成)ができないのか、原因の一つがわかりますよ。              続く

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2010.09.25
カテゴリ:民主的な力

  今年、勤務校のALT(米国出身)に「日本の学校祭についてどう思うか」とたずねると、「高校生が工夫して一緒に祭りを創っていくというのは大変素晴らしい取り組みだ」と評価してくれました。

 9月11日の拙ブログ記事:日本的精神風土(問題と展望)の結論部分で、私は「日本の集団同調的精神風土に抗して討論文化(討論民主主義)を確立していく」ためにもスウェーデンで実践されている「討議民主主義」がヒントになると述べました。

 しかし、実を言うと、日本の教育には本来「討議民主主義」の力をつけていく実践の積み上げがあり、その価値に目を向けていくことがいまこそ大切である、という点をまず強調したいと思います。

 それは、「フィンランドに負けない日本の教育」でも述べた「特別活動を中心に展開されてきた生活指導実践(“生徒指導”とは異なる「生活・活動の体験そのものが子どもたちに“力”をつけていく」という視点を大切にする実践)です。

 1950年代の文部省で論議され、設置された「特別教育活動」(例えば学校行事、生徒会活動、ホームルーム活動など)は仲間とともに活動し、※「原案づくり⇒討議⇒決定⇒実行⇒総括」といった一連の手続きを体験することによって、「民主的な力」を培っていくという大きな教育効果をもたらしうるのです。

 例えば、私の実践「水車の回る店づくり」も上記の過程とそれを通して身につけることができる「民主的な力」を意識したものです。

 子どもたちはそのような体験を通して「民主主義」を学び、集団の中で他者に配慮しつつ要求を組織・実現していく力をつけることもできるでしょう。「特別活動」が常にそのような成果を挙げられるとは限りませんが、「成果を挙げるための実践と方法」は民間教育研究団体である「全生研」や「高生研」が長年にわたって培ってきました

 ところが近年、そのような特別活動の意義が共有されないまま形骸化していったり学校祭などの生徒会行事が大幅に削減される状況が生まれています。はっきり言えば「入試や点数アップに役立たないから削減」といった極めて短絡的な対応が横行しているのです。

 そもそも教育の目的は何なのか?(「平和的な国家および社会の形成者」を育てていくことであったはず)その原点に立ち返っていく必要があるのではないでしょうか。実際、市民一人ひとりが「民主的な力」(「公の問題について討論していく力」)を身につけていくことは「よりよい社会」を築いていくための絶対条件でしょう。

 ただ、現在、そのような「民主的な力を高めていく実践」が消滅しつつあるわけでは決してありません。(高生研に関して言えば、いま全国的にもっとも活発にサークル活動と実践を意欲的に展開しているのは大阪高生研です。)

 ところが、そのような地道な実践が継続しているにもかかわらず、私たち日本人の「民主的な力」が充分蓄えられている、とは到底言えない状況です。それに反して、 「教科学習以外の特別活動(学校における体験を通して民主主義を身に着けていく分野)」が存在しないスウェーデンやフィンランドにおいて、日本よりもはるかに民主主義が発達しているかに見えるのはなぜでしょうか。

 それらの国においては、教科の学習においても柔軟な「総合読解力」を育てる教育がおこなわれており、それが実りあるコミュニケーション能力にもつながっているようです。そして、さらに大きいのは「大人の世界が(子どもの学ぶべき)民主主義の手本になっている」という点でしょう。最後の点について、次回(こそ)はスウェーデンを例に述べてみたいと思います。

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