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ヘーゲル思想と教育

2008.02.28
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ここ数回、ヘーゲル思想を取り上げました。
 人間の体験の中で共通する部分を「取り出し」(抽象し)て、普遍的な人間の本質や条件に迫ろうとするのが哲学です。

 このたびはヘーゲルに導かれながら「抽象した」人間の本質(人間の中には「今ある自分ともう一つ自分との葛藤」「自らを価値ある存在として確認しようとする意思」が存在し、それが「成長・発達」の原動力である) について、Kさんの講演の中から具体例をあげてみたいと思います。

(一) 子どもは成長、発達する 

 まず子どもの見方です。子どもたちを「成長、発達するもの」という見方で一貫してとらえていこう。子どもたちが成長、発達するということに確信を持たなければ私たちの取り組みは、ひじょうに、虚ろなものになってしまう。

・頭髪-茶髪

 たとえば頭髪。茶髪、真赤赤になっている。それと発達をどう観るのか? 一見困った状況、放置できない状況ですね。

 しかしたとえば、そういう子どもは、引きこもるという子どもと比べてどうなのだろうか? 自分を人と違ったものに見せようというところにエネルギーがある。たとえばそんな議論が出ます。

 15歳から18歳までの子どもで、スポーツでも駄目、成績でも駄目といわれる子どもたちが、何もなくて生きていられるはずがない。どこかで他の人よりも俺は出来るというところを見せたいという気がある(何らかの自己表現をしたい)のは当たり前じゃないか。

 だとすればそれを頭の髪の毛を変えるということよりも、もっと進んだこと、もっと創造的・文化的なことで代替することが出来るということを教えていけば、エネルギーの向けどころを変えられるはずだ。 そういう話です。

・中抜け

 あるいは、中抜けはどう考えるの。たとえば、 いまある自分よりも良いものになりたいから学校に来る。けれども、勉強がサッパリ分からなくて、つらくて、困るから帰りたいと思う。立派になりたい自分と帰りたいという自分がはげしく心の中で闘争する。

 そして負けた時には、たまたま、中抜けをする。少しでも自分が学校に行って立派になりたいという思いがあるから中抜けが起こる。

 というふうに考えたら、そこにあるエネルギーを私たちは評価して、そこに働きかけていけばいいじゃないか。こういうふうな議論をいっぱいしたのです。

 だから子どもたちは、様々に、疎外されているけれども、心の底には成長したい、より大きな人間になりたい、という発達意欲・意思をもっている。この見方を一貫させよう。これが論議しつつ確認した一番基本的な子どもの見方でした。

〔コメント〕

 「子どもたちの現状をどのように見ていくのが必要か」という論議の中で、柔軟なとらえ方が出来ているように思いますそれが約200年前に行われたヘーゲルの洞察と通じ合うのは興味深いですね。
 さらにU高校の場合は、それが個人的な考察ではなく、教職員集団で論議し、合意が成立した点がすごいところです。

〔記事をアップして数ヵ月後(11月17日)に文月さんから下記のようなコメントをいただきました。それに対する返答はこちらです。〕
                 続く
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Last updated  2019.03.23 20:05:13
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2008.02.26
昨日、『精神現象学』末尾で描かれている「行動する精神(個の精神)」と「評価する精神(共同体精神)」の対立と和解について要約しました。

 しかし、「自分自身の中にある矛盾や他者との対立が成長(発展)につながらず、堂々巡りの悪循環を生み出す」という現実についてどのように考えるべきなのでしょうか。

 20世紀の思想家JPサルトルはヘーゲル思想を高く評価しつつも、「人間関係」の問題については一種の「楽観主義」があるとしています。そして、サルトルは初期の哲学書『存在と無』の中で「相克(あらそい)」こそが人間関係の実相である、というのです。

 サルトルは、「“私”の魅力や卓越性を“主体である他者”に認めさせようとする態度」(愛、言語による誘惑、虚栄など)と「“私”を自由に評価・意味づける“主体としての他者”を否定しようとする態度」(無関心、憎しみ、暴力など)を例示します。 

 彼は、人間関係の様相を具体的に描きつつその本質に迫ろうとしていますが、その考察は極めてリアルで私たち自身の経験とも重なり合う部分が多々あるのです。

 教育現場において 「生徒が荒れたり自己を閉ざして指導が成り立たない状況」を体験した教職員も、「堂々巡りの相克(あらそい)」としか言いようのない体験 をしているでしょう。(逆に、尾崎豊の「卒業」の内容から、生徒たちの体験や心情もうかがえます)

 ヘーゲリアンであった故 鞠川了諦氏は1984年の高生研大会基調で「指導困難な状況」の背景にある子どもたちの「もがき」について指摘しています。

 「重要なことは、この〈ゆがみ〉が、生徒たちの主体(個)における、成長しようとするちからとこれをおしひしぐちからとの相克の所産にほかならないということである。その意味でこの〈ゆがみ〉はむしろ〈もがき〉Struggleであり、固定的な静態と見るべきではなく、生きた動態としてとらえるべきだろう。」

 「すぐれた実践(指導)は、かならずそのよるべき仮説を持っているが、それは子どもの存在把握における成長可能性の確信である。」

(子ども・人間の中に「いま現れている否定的な自分」とは異なる「成長したいというもう一つの自分」が存在し、もがき葛藤しているという見方はまさしくヘーゲル的です。)

 さて、「堂々巡りの相克」を乗り越えていく道としてヘーゲルが示唆していることは何か。昨日はポイントの“2”として、自分の中に「相手と相互承認しあう関係」を求める意思(共同性への意思)があることに気づくこと、を挙げました。

 それに加えて、 人間には「現在あらわれている否定的な自分」を越えて「成長しようとする意思」が存在すると“確信する”こと、成長可能性と同時に小さな一歩を“承認”していくこと、が大切ではないでしょうか。

 確かに、生徒の中にも同僚の中にも自分自身の中にも「否定的な面」は数多く存在します。(特に大人の場合、必ずしも健全でない「プライド」が強固に形成されていることもあり、それが成長の妨げとなっています。)

 この「否定的な面」に向き合わざるを得ない場合は多々ありますが、人間の中に「相手と相互承認しあう関係を求める意思」「成長しようとする意思」が存在することを信じるところから“実践”を出発させることが大切なのではないでしょうか。

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Last updated  2019.03.23 20:06:11
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2008.02.25
「自分自身の中にある矛盾や他者との対立が成長(発展)につながらず、堂々巡りの悪循環を生み出すこと」は往々にしてありますが、そこから抜け出す道についてヘーゲルはどのように考えたのでしょうか。

 『精神現象学』の末尾でヘーゲルは「行動する精神(個の精神)」と「評価する精神(共同体精神)」の対立と和解の「ドラマ」を描き出します。

 「行動する精神」というのは「ただしく行動すること」を目指します。それは、そのつど具体的状況の中で「これをなすべきだ」と決断し行動できるのは「この私自身」だということを自覚している個人なのです。ただ、一つ間違えば独善や偽善に陥りかねない危うさを持っています。

 他方、「評価する精神」というのは「行動する精神(個の精神)」に対していわば共同体の立場からその問題点を突いていくような精神です。しかし、自らは行動もせずに評価していることや、その評価に絶対的な根拠がないことを自覚していません。

 この二つの精神は激しく対立しながら最終的には「相互に相手を承認する」ことになります。そこに至る過程でヘーゲルが描いていくのは、「相手の中にある問題点を自分の中にも見出す」という契機です。 

 行動する精神(個の精神)は最初「評価する精神(共同体精神)」の自分への「判断」(行動する精神の決断は勝手なものであり偽善である)に対して反発します。

 しかし最終的に、行動する精神(個の精神)は「評価する精神の判断が(時には偽善もともなう)一つの判断でしかない」ことを認めると同時に、自分が行動に際して下した決断についても、絶対的根拠のない「自らが選んだ一つの判断」(独善や偽善とも無縁ではない)であることを認めるのです。

 こうして「行動する精神」は「評価する精神」に対して「自分も相手と同類である」ことを告白し、互いに承認しあう関係になることを期待します。

 この告白に対して「評価する精神」は最初「行動する精神」と同類であることを認めようとしないのですが、最終的には相手の中にある要素を自らの中にも見出して「相互に承認しあう」ことを選ぶのです。

 このような「自由の相互承認」の段階をヘーゲルは「絶対精神」というのですが、これはいかにして成立したのでしょうか。

 ポイントは二つあるように思われます。1、独善や弱さや矛盾は自分に対峙する相手の中にあるだけでなく自らの中にもあることに気づくこと、 2、自分の中に「相手と相互承認しあう関係」を求める意思(共同性への意思)があることに気づくこと、です。

 確かに、深い部分で人間というのは、「他者と承認しあいたい」という願いを持っているように思います。 その願いを自ら感じ意識しながら、相手の中にあるのと同様の問題点を自覚し乗り越える方向へ一歩踏み出すとき「相互承認」や「相互の成長」が実現していくのではないでしょうか。

 職場の同僚との関係にせよ、子どもたちとの関係にせよ、様々なトラブルを「相互の成長」や「相互承認」の機会にしていこうという意思、これこそが「教育」を成り立たせ「自他の成長」を促していく大切なポイントであるように考えます。

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Last updated  2019.03.23 19:30:31
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2008.02.24
「弁証法の永遠のふるさと」(竹内芳郎)であるといわれたり「意識の成長物語」(西研)であるといわれるヘーゲルの『精神現象学』について、昨日私は次のように述べました。

 「(ここで述べられていることは) 意識はものごとを認識したり、他者と争ったり相互に承認したり、といった様々な経験をつみ、それを反省すること(振り返ること)をくりかえし行いながら視野を広げ、成長していくということです。(・・・)」

 さて、弁証法というのはダイナミックな「運動・発展(成長)の理論」だといわれます。(弁証法の説明に良く使われる定式〔正→反→合〕は、むしろこのダイナミックな面を背景に押しやってしまうところがありますので、ここでは使いません。)

 この弁証法において強調しなければならないのは精神の「分裂や対立が運動・発展(成長)の原動力である」(弁証法とは「分裂や対立を原動力とする運動・発展・成長の理論である」)という点です。

 例えばU高校のS子の場合ですが、 彼女の意識体験は、1、「U高校の生徒であることをどうしても肯定できない自分(体験)」と2、「現実にU高校の中で“仲間”を再発見し、価値ある活動に取り組んだ自分(体験)」とに“分裂”しています。

 このS子はKさんから 「自分の高校生活はいったい何だったのか」という強烈な“問いかけ”を受けることによって自らの体験を反省し(振り返り)「過去の劣等意識を乗り越え、誇りの持てる価値ある体験をした自分」を意識化していくことになります。

 反省(振りかえり)のきっかけとなったのは「U高校を最終学歴から消したい」というS子とKさんと対立(Kさんが行った「対決」)でした。この点で「対立(対決)」がS子の成長にとって重要な役割を果たしているといえます。

 さて、それぞれが自分自身の人生(体験)を振り返ったとき、 「情けないと思う自分」と「こうありたいと思う自分」との葛藤を体験したり、「他者と激しく口論したような体験」が自己成長にとって大切な意義を持っている場合は数多くあるでしょう。

 このような意味において、意識(精神)の運動・発展(成長)は「因果律」のモデルでは説明できず、意識の弁証法として理解するべきだ、とヘーゲルは主張するのです。

 しかしながら、自分自身の中にある矛盾や他者との対立が成長(発展)につながらず、堂々巡りの悪循環を生み出すことは往々にしてあります。それを、どのように考えるべきなのでしょう。そこから抜け出す道についてヘーゲルはどのように考えたのでしょうか。

 このテーマは、「自己実現」においても「教育」においても重要なテーマであると思われます。

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Last updated  2019.03.23 19:51:57
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2008.02.23
ヘーゲル思想と教育 1

 ひとことで言って「教育とは子どもたちの成長を促していく営み」いえるでしょう。
 ただ、そもそも人間の行動(行動傾向)や成長についてどのように理解するのがいいのでしょうか。

 理解するときの枠組みとして例えば「刺激→反応」といったモデルを含む「原因→結果」のつながり(「因果律」)として理解しようという考え方があります。 (古典的な心理学においてこの図式はよく用いられました。)

 それに対して ヘーゲルは人間の意識(精神)の活動に注目して「弁証法」という「運動・発展(成長)の理論」を提唱したのです。言い換えれば、人間の意識(精神)の活動を「原因→結果」のつながりよりもはるかにダイナミックなものとして理論化したのです。

 ヘーゲルの主著『精神現象学』は副題が「意識経験の学」となっていることからもわかるように、人間の意識がさまざまな経験を積み上げ大きく成長していく様子を描いています。

 この書は「弁証法の永遠のふるさと」(竹内芳郎)であるといわれたり「意識の成長物語」(西研)であるといわれたりするわけですが、それは何を意味するのでしょうか。

 簡単に言えば、意識はものごとを認識したり、他者と争ったり相互に承認したり、といった様々な経験をつみ、それを反省すること(振り返ること)をくりかえし行いながら視野を広げ、成長していくということです。

 例えば、U高校の実践でくりかえし紹介したS子は「挫折感を持ってU高校に通学し、はじめはクラスメートと交わろうともしなかった」のですが、「赤点学級」や「U高祭」の取り組みを通して様々な交わりを体験し、仲間を「再発見」していきます。

 そして「U高校を最終学歴から消したい」という発言に対してKさんから「そのような考えを乗り越えていくためにこそ色々な取り組みをしてきたのではなかったのか、自分の高校生活は何だったのか」という強烈な“問いかけ”を受けることで、あらためて自分自身の体験を振り返り、U高校が自分にとって持つ意味を「意識化」し「言葉」にしていったのです。

(このような自己意識の活動の根底には「自分自身を自立した存在として受け入れ承認したい、他者からも承認されたい」という願いが存在することをヘーゲルは洞察しています。)

 さて、このような体験の積み上げによって人間は「自己を社会的な存在として自覚することになる」とヘーゲルは言います。
 
 彼によれば「人間は育っていくに従って、(・・・)自分自身の何であるか、自己と社会の関係の何であるかをいっそう深く知っていくようになる。 子どものころは誰でも自己中心的な世界像を持っているが、大人になるに従って、大なり小なり自分の存在が社会によって支えられていくことに気づく。そして、そういう認識が適切にたどられれば、誰しも自己を社会的な存在として自覚(・・・)するにいたるだろう 。」
                        (竹田青嗣『現代思想の冒険』)

 「そういう認識が適切にたどられる」ように促していくことが、教育の大切な課題のひとつだといえるのではないでしょうか。

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