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1

競争しても学力行き止まり

2008.12.14
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さて、『競争しても学力行き止まり』の紹介もかなりの回数を重ねましたが、そもそもの意図は次の点でした。 全国統一学力テストの実施も含めて「日本の教育改革」が「イギリス」をひとつのモデルとしつつ進められている現状を踏まえ、 「イギリス教育改革」を検証することによってその陥穽を明らかにすること。イギリスで起こったような問題を回避していく展望を見出していくことです。

 それではまず、イギリスで制定された1988年教育法の特徴・問題点を簡単に確認しておきましょう。
 第一部のうち第1章は、「国家カリキュラム」と「全国学力テスト」の実施が規定されている。(60頁)

 第2章は(・・・)親や生徒を教育の「消費者」と定義して、「学校選択の自由」を保障するとした。また、学校は権利の保障主体ではなく、競争主体として再編成され、「学校の企業化」が促進される。(61頁)

 1988年教育法のもう一つの重点は、学校選択制度である。市場原理に当てはめれば、教育は商品、親子は消費者、学校は店舗、教師は売り子となる。(62頁)

 学力テストで低得点の学校が責め立てられ、「50万人の生徒が管理職のいない学校で学ばされている」という実態や、 「(特別な配慮を要する子どもたちもともに学ぶ)統合教育」が後退している現実と、上記の法改正が「関連している可能性はきわめて高い」、と言えるでしょう。

 「教育は商品、親子は消費者」という風潮を広げてしまったことが、イギリスの「法改正」と「教育改革」がもたらした最大の問題点ではないか、 と私は考えます。このような問題点を回避する大きなポイントは、「教育は一緒に創っていくもの」という観点で「学校内外の連携」を実践していくことではないでしょうか。

 例えば、学力テストの結果が2年連続1位となった秋田の教育について、読売新聞(2008年8月30日)は次のように報道しています。

 秋田の学力がなぜ高いのか。秋田県教委は要因として、井川小のような「地域、家庭、学校との連携」と「少人数指導」をあげている。(・・・)

 また、学力向上だけでなく「全人格的な教育」においても学校内外の連携を進める積極的な実践は様々な地域で展開されています。
 私が居住する県内でも、「地域の中学校が荒れて学校の教育力が現実に追いつかない」といった事態を受けて、 「教職員、保護者、地域の代表」が繰り返し協議をおこない、その地区全体を「グリーンゾーン」として「地域ぐるみで子どもたちへの声かけ」を実践しつつ困難を乗り越えていった事例もあります。

 私の居住地区でも「地域で一緒に子どもたちを育てていこう」という人々の意識を背景に、地域の行事への子どもたちの参加率はきわめて高く、「“自己肯定感”の高い子ども」、「社会のために役立つ人間になりたい、という意識を持った子ども」が多い、というアンケート結果の報告を受けたこともあります。

 あるいは「インターネットを中心とするメディアへの接し方」に関して「地域ぐるみ、学校ぐるみで『人間フィルタリング』の力を高めること」が大切だといわれていますが、PTAを中心に『地域の教育力回復』に成功している例は石川県野々市町をはじめ、全国各地で増えつつあります。

 また、全国に「教育NPO」は数多くありますが、例えば「塀で囲まれた学校から地域全体を学校へ」をスローガンに学校とも連携しながら様々な体験学習を組織している団体もあります。
 
 「沖縄タイムス」の「教育特集」でも紹介された シンポジウム「教育向上地域ぐるみ 子の成長可能性広げ(2008年10月21日)」
などにおいても、「教育をともに創造する」という視点は明確であり、 「沖縄タイムス」自体がそのような広い視野の下に特集をしていることが良く伝わってきます。

 「凶悪犯罪が増えた」と言われつつも 「日本の犯罪発生率が世界全体で見ても低い(⇒本ブログの関連記事) 」背景に存在する「学校内外の連携」、「地域の力」は大きいでしょう
 「地域の教育力の低下」が指摘される今こそ、「学校外の人間は教育の消費者」という風潮を拡大するのではなく、「ともに創っていく教育」を各地の事例に学びつつ展開していくことが大切なのではないでしょうか。

 そのような実践・連携を進めていくことが、「イギリスで陥った問題」を回避していくもっとも有効な道ではないかと考えるのです。

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Last updated  2019.03.30 09:44:19
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2008.12.06
特に子どもたちの「学力低下」が問題になっている「総合読解力」を中心に『競争しても学力行き止まり』の内容紹介を続けます。

 ベネッセは、学力課題のうちPISA型読解力にとりわけ注目している。PISA調査を見ると(日本の子どもたちは・・・) 「自分の意見を持ち、それを論理立てて説得力ある形で述べることが苦手である」(・・・)と分析する。 211頁

 この分析に対して、福田誠治氏は“重要な側面”が抜け落ちているのではないか、という観点から次のように述べます。

 (この側面とは)主体そのものが、学習し、自分の考えを変える側面である。(それは・・・) 「論理」を追う中で自分の「(主張)内容」を作り替えるプロセスを必ず確保することにほかならない。 213頁
 ところが、ベネッセは、その脈絡を読み取らなかった。あくまでも、自己主張が論理的に展開されるかどうかの側面にのみ着目したのである。(・・・)

 ベネッセの姿勢は、自分の意見が通るように論理性を持つということであった。(・・・)意見対立の中で、 自分の意見を修正するとか、それぞれの意見を互いに修正し合うというような過程には関心が向けられていない。だから、ここで注目されている「論理性」とは自分の意見を押し切るための論理性ということにもなり、もうそれは「内容」も「表現」も一方的になってしまうかもしれないという危険性をはらむ。 214頁

 そして、福田氏はPISAの結果から「以下のような事実」を読み取るのです。

 日本の子どもたちの苦手なのは、ベネッセの分析でいう「考えて書く力」、いわゆる「表現」ではなく、意外にもその前段階であった。 215頁

 PISAは、読解力を「情報取出」「解釈」「省察」の三段階で評価しようとした。ここでいう、「情報取出」とは、取捨選択しながら必要な情報を収集してくることである。「解釈」とは読み取りと理解で、自分と意見の異なるものもその対象になる。「省察」とは知識が整理され、評価され、結論が下される段階である。
image002.jpg
(『競争しても学力行き止まり』216頁)

 さて、PISAの成績(表5-3)では、(・・・) フィンランドは、「省察」よりも「情報取出」と「解釈」の得点が極めて高いことがわかる。 (・・・)フィンランドの子どもたちは、必要な情報を探してきたり、他人の意見、おそらく自分と異なる意見を解釈するのが上手なのだ。この点が日本では誤解されている。 

 逆に、日本の子どもたちは、 「情報取出」や「解釈」がそれほど上手ではないのに、自分の意見を述べる「省察」の点数が高いということになる。そうなると、日本の子どもたちは、フィンランドと比較すれば、相手かまわず、相手の意見に関係なく自分の意見を言っているのではないかと推測するほかにないだろう。 (・・・) 216頁

 ではどうすればよいか。(・・・)コミュニケーションをしている間にも、相手から指摘を受け、あるいは自分から気がついて、自分の考えを修正することがあるだろう。(・・・)それが普通のことであり、自分の意見を(複数の見解の中で)対象化・相対化し、自分の意見「内容」の長所・短所を理解したうえで、(問題を残しつつも)現状ではこの方法が最もよいというように、総合的かつ論理的に表現できる力を育成することが教育課題だといい直せるだろう。 218頁

 以上のように、「日本の子どもの教育課題」を確認したうえで福田氏はネット上の「発信」に関わる「大人の課題」にも言及します。
 すなわち、 「インターネットにはんらんする独りよがりの『書評』やら『感想』は、きわめて一方的・攻撃的なものも多い」ことや、「相手との双方向的なコミュニケーションをきちんと成立させられないままに行われる『一方的な意見表明』」の問題点などを指摘しているのです。

 「科学的リテラシー」だけでなく、「情報取出」や「解釈」を中心とする「総合読解力」においても日本の成人の能力は相当低いのではないか、と考えるべきなのかもしれません。
 「成人の一人として」それを高めていくためには「自分の主張を『論理的』に展開すること」よりも「相手の主張を正確にかつ柔軟に読み取ること」に意識を集中させていくことが大切なのではないでしょうか。

(8に続く)

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2008.11.28
「知は開かれた(オープンな)もの」という発想が、EUやOECDの「学力観」「能力観」の根底にあります。

 「知識とは、他の商品とは異なって決まった中身を詰められるものではない。それは、使用されるものであって、作成済みのものではない。その使用が、さらなる価値を生み出すのである。(・・・)ひとたび固定されると、知識は価値を失うのである。」

 「知識とは、たくわえではない。・・・多くの場合『学習』は、現在考えていることを越えて進むために、すでに知っていることをいかに使うか、その方法を見つけ出すことである。」179頁

 「伝達のための教育は、教師中心から学習者中心の教育方法へと転換される」、教師は「記憶するための知識を提供する者ではなく、生徒がコンピテンシー(広義の能力)を構築するプロセスを支援する者に変わる」のだ(・・・)。181頁

 「熟達した受験生や高得点者、あるいは従順な従業員をつくり出す」ためではなく、 「若者が自分自身や仲間が民主主義社会の一員となれるように、知的に、感受性豊かに、勇気を持って考え、行動することを援助するためにカリキュラムは存在するのだ」182頁

 「知識の獲得」のみでなく、「知識の構造を整理し、分析し、さらに批判する」ことを生徒に奨励し、「その知識の使い方」が強調されている。そのような国の代表例が、フィンランドであるとOECDは紹介する。182頁

 PISAは、子どもたちを「人生への学習者」と定義する。子どもたちは学習の主体者であり、学習は受身ではなく「積極的な過程」となり、「自己調整的」学習である。それを、個人の能力で表せば「自律的に行動する能力」というキー・コンピテンシーに一致する。185頁
 
 以上のように、EUやOECDは「学習」と「能力(学力)」を定義し、「テストを変えれば教育も変わる」という戦略のもと、PISAという新しいタイプの「国際的な学力テスト」を開発するわけですが、現在のイギリスはこのPISAにおいて面白い結果を出しています。イギリス政府が重視するTIMSS(『国際数学・理科教育動向調査』)よりも国際比較で高い得点を挙げているのです。
image002.jpg

〔『競争しても学力行き止まり』206頁〕
 応用力や思考力、表現力を重視するPISAのテストには(・・・)イギリスは上位グループとみなせる高得点を挙げている。 205頁

 特に総合読解力は日本を上回っています。この結果をどのように見るべきなのでしょうか。「全国統一テスト」など競争を取り入れた「教育改革」の成果なのか、それとも伝統的な「進歩主義的教育」の成果なのか。
 
 私は、1996年現在の「成人の科学的リテラシー」の調査においてイギリスが日本の成人よりもはるかに高得点を挙げていたことを考え合わせると、伝統的な「進歩主義的教育」の成果と見るほうが妥当であると考えます。
イギリス成人

 例えば、佐貫浩氏は『イギリスの教育改革と日本』(高文研)においてイギリス教育の歴史と現状に関する包括的な考察を行っていますが、1999年から1年間滞在した自らの体験を次のように語っています。
 「イギリスでの短い体験のなかでも、日本の教室との違いを感じることができた。討論が多用され、自分で調べること、自分の意見を述べること、が強く求められた。

 佐貫氏は、現在におけるイギリス教育を一定評価しているのですが、「イギリスの教育における競争には、(日本の場合と違って)いわば歯止めがある」こと(206頁)を強調します。

 「日本の場合、(・・・)結局知識の習得に最大の力点が置かれる。(・・・学習を対象や現象への分析と自己判断力の獲得として、あるいは学習を自らの表現と参加の文脈の中で進める習慣が本当に弱い。(・・・)そのような非主体的な学習を、日本の場合、競争の緊張、あるいは率直にいって競争の脅迫によって、子どもたちに強制してきたのである。」
 
 11.12の記事でも述べましたが、日本における“競争”によって得られた“高学力”が本当に人生を豊かにする学力となってきたのか、EUやOECDが提示する「能力」「学力」の本質も検討しつつ、改めて問う事が大切なのではないでしょうか。

 「成人の科学的リテラシー」(上の表)を見る限り「競争しても学力行き止まり」という評価はむしろ日本に対して妥当するようにも考えられるのです。

(7に続く)

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2008.11.15
「サッチャー教育改革」が定着する以前のイギリスの教育について『競争しても学力行き止まり』での記述の紹介を続けます。

 1987~89年に(・・・)子どもを地元のミルバトン小学校に通わせた家田愛子は、当時のイギリスの小学校を次のように描いている。

 「日本の学校のようにクラスでまとまって全員がいっせいに同じことを勉強することが授業の基本ではない。(・・・)子どもは一人ひとり自分の能力に合わせて勉強する
「黒板が使われる頻度は、日本と比べると非常に少ない。算数も、英語同様、一人ひとりの子どもの進行状況が異なるから、クラス全員に同じことを説明することは少ない」

 また、学校長は「非常に研究熱心」で、それは、「すべての子どもにとって学校が『学ぶ場所』であり、生きいきと学校生活が送れるようにというこまごまとした配慮を私は直接膚で感じることが多かった。それは、『決定』が一番身近なところでされているからだろう」(・・・)(13頁、14頁)

 家田は、イギリスの自由な教育の背景まで分析しているが、権限関係をめぐるこの描写もまた、今日のフィンランドにそっくりである。

 この自由なイギリスの学校教育は、教育関係者の努力によって、急速に普及したと見られている。 その転換点が、1967年の『ブラウデン報告』からだといわれている 『ブラウデン報告』は、当時のイギリス労働党の進める福祉国家づくりの社会的風潮の中、知識の詰め込みとしての教育を否定して、子どもたちがさまざまな経験を通して学ぶという活動主義的教育法を推進し、一人ひとりの状況に応じて実質的に平等な教育を実現しようとしており、統合教育やいわゆる「落ちこぼし」「落ちこぼれ」をなくする「アファ-マティブアクション(弱者積極的優遇策)」の立場に立っていた。

 この報告の影響で、自由な教育がイギリス全土に行き渡ったようである。
 1991年から2年間、(・・・)子どもの学校教育を体験した社会教育学者の志水宏吉は、当時の授業を「驚愕」だと描写している。
「十人十色どころではない、二十五人二十五色とでも言うべき授業が展開されていたのである。(・・・)個人個人の生徒の能力と進度に合わせて教師が作業課題を割り当て、子どもたちは個別にそれにあたる。先生の役割は、教えると言うより、場をまとめるオーガナイザーのそれだ」
 このような生徒個別に対応する授業は、筆者がルポルタージュした今日のフィンランドの、とりわけ小学校で普通に見られる授業と同じである。 (15頁)

 さて、前回私はサッチャー政権から始まる教育改革について、「『低学力批判』を展開しつつ強引に『改革』を進めることによって、イギリスは『それ以前の素晴らしい教育』を大きく後退させて行ったのではないのか?」と述べました。

 確かに、「極端に単純な図式化」には多くの要素を捨象してしまう危険性があります。仮に「サッチャー政権以前のイギリスの教育が理想的で素晴らしい面だけ」だったならば、そもそも“強引な教育改革”そのものが成立しなかったでしょう。改革の背景には、学校教育に何らかの不充分さや、それに対する保護者の不満があったと考えた方が自然なのかもしれません。

 しかしながら、実際にイギリスの学校に子どもを通わせた家田愛子などの「証言」を見る限り、「全面否定」されるべきものでは決してありません。そしてまた、 上記に紹介されたような授業の「成果」が前回のデータ(イギリスにおける成人の科学的リテラシーの高さ 1996年調査)にも現れている、とは言えないでしょうか。

 そして何よりも1967年の『ブラウデン報告』が「当時のイギリス労働党の進める福祉国家づくりの社会的風潮の中、知識の詰め込みとしての教育を否定して、子どもたちがさまざまな経験を通して学ぶという活動主義的教育法を推進し」、「統合教育やいわゆる『アファ-マティブアクション(弱者積極的優遇策)』の立場」を打ち出すなど、「あるべき社会」の構想と「教育のあるべき姿」を結びつけてまとめられたことが、注目できると思います。

 「糸賀一雄の思想と実践」(カテゴリー 特別支援教育)の中でも繰り返し紹介しましたが、私は「“障害”のあるなしに関わらずともに生きられるような社会が豊かな社会だ」と考えます。そして、個人にとって必要なのは 「それぞれの具体的経験や人生の中で活かされる知」を獲得できる学びであり、かつ「上記のような社会を創造していく力」、「現実を批判的に読み解き関わっていく力」につながる学びであると考えるものです。
 
 1990年代、EUやOECDは「知のヨーロッパ」に向けた「積極的市民性」の育成で合意し「知識の習得よりも社会に出て使える力」を重視するような「新しいテストが開発されて新しい質の教育が評価されれば、学校が本来行うべき教育活動に陽の光が当たり、理想的な教育に弾みがつくだろうと思案した」(164頁)のです。

 いわゆるPISAはこのようにして生まれるわけですが、私たちは「テスト結果」や「数値」以上に、そのよって立つ「哲学」や「教育理念」に学ぶ必要があるのではないでしょうか。

(6に続く)

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2008.11.12
確かに、(イギリスの)教職員は「成果」をあげるために必死になっている。しかし、色々な工夫をしながら「楽しく充実した授業を構想し、組み立てていく」という実践は「追いまくられる状況」の中で後退しているように見える。

 私が前回記事で書いた最後のコメントですが、実際、『競争しても学力行き止まり』の中には次のような記述があります。

 「時間、時間、時間、これが私の主要な問題なのだ。些末なことや書類作りが子どもたちと過ごす時間も、子どもたちのために準備する時間もなくしている」とトニー・ブレアの選挙演説をもじってある教師が述べる(・・・)。

 中学・高校教師を対象にしたケンブリッジ大学の調査(2004年調査)によると、教師が日々の授業をじっくり反省する時間はなく、子どもたちの様子を専門的な知見から観察したり分析したりする時間もなく、同僚たちと話し合ったり教育方法を同僚から学ぶ時間もない。(29頁)

 それでは、生徒はどうなのでしょうか。教師や親への調査結果も掲載されています。

 7歳の「全国学力テスト」で、子どもたちにストレスが一般化していることは疑いないと60%の教師が答えている。また、20%の教師は、ストレスの程度は「きわめて高い」と信じている。(47頁)

 世論調査「ユーゴフ(YouGov)」は、2003年時点で200人の親を対象に調査した。
まず、「全国学力テスト」を受ける前になると、11歳児の70%がストレスの兆候を示したという。11歳児の25%は自信をなくし、20%は復習で忙しく友達と遊ぶ時間がないのだという。調査によると7歳児の10%は「全国学力テスト」のことで悩み、涙もろく不眠症になっている。また、11歳児の12%は、登校せず受験しなかった。(48頁)

 学校間競争を背景に「教職員も必死になっている状況」はあるのですが、子どもたちのために“授業をじっくり反省する時間”も“子どもたちの様子を観察する時間”も”教育方法を同僚から学ぶ時間”もないという状況の中で、子どもたちの「学力」が中学2年段階で頭打ちになってしまうだけでなく、少なくない子どもたちに大きなストレスを与えているようです。

 確かに、このような子どもたちのストレスは(イギリスだけでなく)日本でも見られます。多かれ少なかれ「学力競争」や「受験競争」に必然のものなのかもしれません。しかし、イギリスにおいて「教育改革」の前と後とで大きく状況が変化したことだけは疑いありません。大切なのは、この「教育改革」の結果から何を学ぶかということでしょう。

 さて、「教育改革」の時代にはイギリスにおいても「低学力批判」がなされました。この点も日本と状況がよく似ています。確かに以前のイギリスにおいてTIMSS(『国際数学・理科教育動向調査』)の結果は(中学校2年段階では現在も)国際的に高いものではありませんでした。

 日本の中学生570~580点に対してイギリスは490点台です。ところが、成人の「科学的リテラシー(実践的応用力)」の国際比較を見ると驚くべき結果が出ているのです。
イギリス成人
  『競争しても学力行き止まり』(196頁)
 〔OECD加盟国14カ国に対して実施した、科学技術の理解度に関する調査結果〕

 まず目につくのは、日本の「成人の科学的リテラシー」の驚くほどの低さです。小中学生の「学力」が国際的に高いにもかかわらず、何という結果でしょう。日本における“競争”によって得られた“高学力”が本当に人生を豊かにする学力となってきたのか、その時のテストや受験に対応するだけの“身にならない力”だったのではないか、私たちは深刻に問う必要があるのではないでしょうか。

〔ちなみに、池上彰氏は日本における「子どもの学力低下」批判について「統計データをまともに読み取れなかった大人の学力低下のほうがよほど心配である」と述べていますが、皮肉ではすまない惨憺たる実態が調査結果にも現れているのです。〕

 ここで著者は言及していませんが、私はイギリスの「成人の高学力」に注目せずにいられませんでした。「成人」を対象とする1996年の調査ですから、この数値はイギリスで「教育改革」が行われる以前の「学校教育の成果」が現れている、と見るべきでしょう。その意味では、サッチャー政権を中心とする「低学力批判」は的外れだった と言わなければなりません。

 そして、「1988年改革」が行われる以前のイギリスの教育を検討してみると「学力世界一」のフィンランドの教育内容に極めて近いものだったのです。(「成人」に関しては全く妥当でない)「低学力批判」を展開しつつ強引に「改革」を進めることによって、イギリスは「それ以前の素晴らしい教育」を大きく後退させて行ったのではないのか?
 私たちは、この点についても事実を検証しつつ学ぶ必要があると思われます。

(5に続く)

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2008.11.08
『競争しても学力行き止まり』の著者福田誠治氏はかなりの期間フィンランドの教育を研究してきた人物で、サブタイトル「イギリス教育の失敗とフィンランドの成功」からも福田氏の立場はうかがえます。

 「最初は、イギリスの教育を分析することに主眼をおいて書き始めた。だが、日本の教育のいく末が見えてくるのが最大の目的という助言を受け止め、表現方法に悩みながらやっとの思いで書き上げた」(228頁)と福田氏は述べています。

 当面、前半の「イギリス教育の分析」に関する記述の紹介を続けます。

 1988年教育法は、教育の原理(哲学)から教育制度、授業方法にいたるまで、イギリスの教育を根本から変えてしまった。 第一部のうち第1章は、「国家カリキュラム」と「全国学力テスト」の実施が規定されている。

 イギリスの教育はこれまでは分権的であり、教科書検定はなく、また国家には統一的な教育到達度を示す学習指導要領もなかった。しかし、この法律によって、外部から教育目的が設定され、学校の作業内容が規定され、外部機関によって作業の成果が測定され、評価される仕組みが整った。(60頁)

 第2章は(・・・)親や生徒を教育の「消費者」と定義して、「学校選択の自由」を保障するとした。また、学校は権利の保障主体ではなく、競争主体として再編成され、「学校の企業化」が促進される。(61頁)

 1988年教育法のもう一つの重点は、学校選択制度である。市場原理に当てはめれば、教育は商品、親子は消費者、学校は店舗、教師は売り子となる。(62頁)

 上記のように「学校の企業化(教育の市場化)」、「学校選択制度」がイギリス教育改革の大きな特徴であると言えます。そして、「全国学力テスト」の実施と「結果公表」も採り入れながら「改革」を推進することによって一定の「成果」?を挙げていることも確かです。

 イギリスが特に重視しているTIMSS(『国際数学・理科教育動向調査』)では表2-5で見る限り 小学校4年生の「学力」(国際比較)は大きく伸びています。
イギリス1
(『競争しても学力行き止まり』97頁)
 しかしながら、表2-6や表5-2をみると8年生(中学校2年)になれば伸びは止まってしまうのです。

表2-6 TIMSSにみる数学の成績(中学2年生)
最近3回の調査に連続して参加した18カ国の比較
イギリス2
(『競争しても学力行き止まり』97頁)

 「国を挙げて必死になってテスト勉強したわりには、効果はほとんどなかったのだ。」 (98頁)

 「『公共政策研究所』報告書は、(・・・)政府機関の『普通教育会議(GTC)』によって認定されたものである。(・・・)この報告書は、現行のテスト体制が、狭い学習、薄っぺらな学習、テスト問題の『山かけ』、社会的な責任と自己の学習を結びつけられないという『困難回避型教育』をもたらし、教育に否定的な結果を引き起こしていると批判した。

 つまり、今のイギリス教育はテストの点にならないようなことは教えない、子どもたちは難しいことを考え抜いて学ぶというようなことをしなくなった、と報告書が指摘しているわけだ。(103頁)

〔コメントの補足〕


 小学校でかなり「成果」をあげているかにみえる「イギリスの教育」が、中学校2年生段階で頭打ちになってしまうのはなぜでしょうか。私が思うところは次の点です。

1、国を挙げてのテスト体制と「公開」による学校への圧力は、子どもたちに「テスト向けの訓練」を繰り返しさせていくような方向へと進ませることになった。

2、このような「訓練」は、小学校段階における「学力」(例えば計算力等)を高めるには一定の効果をもたらした。

3、しかし、中学校段階で頭打ちになってしまうのは、 「訓練」の繰り返しだけでは、子どもたちの「(幅広い意味での)学習意欲」を持続的に高めていくことにつながらなかったためではないか。

4、「公開」によって学校間競争が促進されていく様子は、同書を読めばよくわかる。確かに、教職員は「成果」をあげるために必死になっている。しかし、色々な工夫をしながら「楽しく充実した授業を構想し、組み立てていく」という実践は「追いまくられる状況」の中で後退しているように見える。

 このように見ていくと、中学校2年段階で生徒の学力と学習意欲が伸びていかないのは、必然の結果のように思われます。

(4に続く)

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Last updated  2019.03.30 09:39:22
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2008.11.03
このたびの「連載」は主に『競争しても学力行き止まり』(朝日新聞社)の紹介と、それを通して「日本の教育改革」について考えていくことを目的としたものですが、本文に先立って、まず、日本におけるこの間の「教育改革」に対する私自身の立場を明記しておきます。

 「全国学力テストの実施と結果公表」の問題、「学校選択制検討」の問題、「学校評価や人事考課」の問題等、いずれについても競争をあおるだけでは(競争をあおることを主眼におけば)大きな問題を生み出すだろう、という考えは以前から持っていました。

 その考えは、自分自身の体験や実践・これまでの読書体験などによって形成されたものですが、このたび『競争しても学力行き止まり』-イギリス教育の失敗とフィンランドの成功-(朝日新聞社)を読んで、自分自身の危惧は「20年間のイギリスの教育改革」によって「現実」のものとなっている、ということを強く感じたのです。

 従って、上記著書の内容紹介は同時に「自説を論拠とともに提示する」という性格を持っているということをあらかじめ明らかにしておきます。
 確かに、複数の文献・意見(例えば『イギリスの教育改革と日本』高文研 など)を参照することで事実をていねいに検証したり、自説を一部修正することも大切なことでしょう。

 しかし、日本における「教育改革」の今後を考える場合、「イギリス教育改革」のもたらした負の側面を検証することは不可欠であり、とりわけ「改革」に賛同する人は『競争しても学力行き止まり』で示されているような幾多の事実を踏まえ、今後の構想を示していく必要があると考えています。私自身も1、「改革を見直していくか」2、「現在の流れで(当面)進みつつ、イギリスでおこったような問題点を回避していく道をきちんと見出していくか」という二つの道のいずれかを選ばざるを得ない、と考えます。

 さて、イギリスでは「全国統一学力テスト」の実施・公開とそれを背景にした学校間競争、地域間競争によって、どのような問題点が生み出されていったのでしょうか。
 上記著書の引用をはじめます。 

「イギリス社会は、現代でもなお階級制度を色濃く残している。」

「(学校選択性や学力競争の推進は)ある意味では労働者階級にも学力競争のチャンスを与えようとしたことになる。ところが、実際に、学校選択を積極的に利用し、競争社会で実をあげられたのは、子どもに充分な教育を用意できる余裕のある中産階級であって、労働者階級あるいは下層階級は取り残され、ますます格差は広がりつつある。」〔21頁( )内は引用者〕

 イギリスにおいても「教育改革」の目的は国家を挙げて教育に力を入れ、子どもたち(生徒)全体の学力を伸ばしていくことでした。しかし、この政策が現実にますます格差を拡大していると著者は言います。それはなぜなのでしょうか。引用を続けます。

 学校選択制度は可能性を低める〔48頁〕
 イギリスのある新聞の相談欄には、こんなやり取りが掲載された。
質問「私の地域の学校は悪いランクです。いい地域に家を買ったほうがいいでしょうか。それとも、そのお金を家庭教師に使ったほうがいいでしょうか」
答え「引っ越したほうがいいでしょう」

 こうして人口移動が起きる。
 人気校周辺の不動産価格は3割も高騰し、人気校には裕福な家庭の子どもしか通えなくなった。バラ色の学校選択も、自由を行使できるのは一部の人に限られるのが実態である。〔49頁〕

 つまり、全国統一学力テストの結果公表と学校選択制の導入は、おそらく国民の中に「教育はサービスとして消費するもの」という意識を高めていったと考えられますが、「よい教育」を受けられる「消費者」はごく一部の裕福な国民に限られていった、というわけです。

 そして、学力テストの平均点が低く「よい教育を提供できていない」学校が攻撃された結果、次のような「統合教育の後退」が起こりました。

 1997年3月、10万人の生徒が「破壊的である」ので特別学校に移して授業すべきだという声明を、当時イギリスの第二の規模の教師組合(・・・)が発表した。特別措置の必要な生徒の教育を普通学級で行うといういわゆる統合教育は、30年近くイギリスで追求されてきた。(・・・)ところが、サッチャー教育改革以降、事情が違ってきた。学校は競争させられるのである。そのためには普通学級に在留して手を焼かせる「問題児」が邪魔になってきたのだ。〔24頁〕

 普通学級は、いわゆる主流学級と表現される。そこから特別なニーズのある子どもたちははじき出され、「特別学校」といういわゆる養護学校に入れられる。さらに両者から放校処分を受け、籍を抜かれた者は、「児童生徒受け入れ施設」に入れられることになる。(この施設に通う生徒数 2000年で9,700人、2003年で12,005人)〔25頁〕
 
 さらに、学力テストで高い得点をあげられない学校が周囲から責められ続け「過剰説明責任で校長は疲れている」〔37頁〕という状況が生まれています。

 イギリスでは、教師だけでなく校長も学校ごとに募集され学校ごとに採用される。ところが、困難が予想される学校には教師のなり手がない。 なんと2006年現在で、学校長の採用ができないため、50万人以上の生徒が管理職のいない学校で教わっているという。

 全英校長組合(NAHT)の調査によると、1200以上の公立学校が専任校長なしで運営されており、学校の「過剰勤務という文化」がこのまま続くなら、4分の1の校長は辞職したいと言っているという。〔44頁〕

 校長になるような教職員の多くが「職業意識の低い不適格教員」であるはずはないと思われますが、上に示された状況はまさに「異常事態」ではないでしょうか。もし仮に、「地域の学校の『低学力』を克服していくために、学校内外で一緒に協力していこう」という機運が高まっていけば、このような事態は起こらなかったでしょう。

 しかしながら、「学校選択制」の導入によって、「教育サービスの提供を受ける消費者」という意識が強化され、「地域の教育をともに創造していく主体」であるという意識が後退した結果、「『学力テストで高い得点をあげられない学校や校長』が一方的に攻撃を受ける」といった状況が生まれたのでしょう。

 以上、「イギリス教育改革の生み出した問題点」をいくつかあげましたが、私たちはそれをしっかり踏まえつつこれからの教育を構想していく必要があるのではないでしょうか。

 次回は、生徒の学力が実際にどうなったのか、というデータも含めて紹介したいと思います。

(3に続く)

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2008.10.13
『競争しても学力行き止まり』(朝日新聞社)
イギリス教育の失敗とフィンランドの成功


前書き(はじめに)より

 子どもも親も教師も、今の日本では競争させられる方向にある。低学力→学力向上→テスト競争という、妙な論理に巻き込まれてしまったのだ。これは、かつて「知育偏重」「受験学力」「偏差値教育」などといって、日本社会が批判してきたことではなかったか。(6頁)
 
 「教育現場への競争原理導入」(・・・)安部前首相は、そのような競争システムのモデルをイギリスに求めていた。彼は2006年の7月に、次のように述べている。
「全国的な学力調査を実施、その結果を公表するようにすべきではないか」
「ぜひ実施したいと思っているのは、サッチャー改革が行ったような学校評価制度の導入である」

 このような競争的学校再編は、どのような結果を生み出すであろうか。(5頁)

 責任を持って「望ましい教育」の方向を定めていくためにも、私たちは日本の「教育改革」がそのモデルとしていたイギリス「教育改革」の結果を事実に即して検証していく必要があるのではないでしょうか。

 結論的に言えば、 イギリスの「教育改革」は「学力向上」という一点をとっても行き詰まり失敗してしまうわけですが、そこにはとどまらない様々な問題を生み出してしまいました。

 福田誠治氏は、この著書(目次:「1、授業も学校も変わってしまった イギリスの現在 」「2、なぜイギリスはこうなったか」「3、アングロサクソンモデルかフィンランドモデルか」「4、みんなが勝者だ “全国学力テスト”離脱へ」「5、日本の行き着く先はどこか」)の中でイギリス「教育改革」の生み出した現実について事実に即した検証をていねいに行っています。

 「全国学力テストを背景とする教育荒廃」、「教育目的がゆがむ」、「数値目標の行き詰まり」等々、明らかにされているのはまさに「人ごとではない実態」です。
 その具体的な詳細については次回から紹介したいと思いますが大人たちの狼狽ぶりをよそに国際化の時代には、子ども自身が、教育やテストの本質を冷静に見ている例もあるということで転載された新聞投書(神戸の中学生14歳)もありました。

 「僕は(・・・)約4年間カナダに住んでいました。そこの中学校では日本のように中間、期末といったテストはありません。その代わり各教科で単元ごとに小テストがありました。毎日の授業を理解していたらテストはほぼ完全にわかったし、終わってからも覚えていました。(・・・)最近、新聞でフィンランド教育のことを読みました。僕は点数を争うテストのないこの国の教育法に賛成です。(・・・)日本もテストの方法を考えてみたらいいと思います。」

 少し落ち着いた気持ちになる「投書」でしたね。
 
 イギリスの場合、「障がい児」とともに学ぶ統合教育が後退したり、イスラム教徒の子どもが私立に入る可能性を閉ざされたり、学力テストや「教育改革」にともなって生じた混乱など右往左往振りが浮き彫りになっていましたが、日本も大いに心配な状況です。福田氏の著書をじっくり読んで、「モデル」の失敗から充分に学んでいく必要があるのではないでしょうか。

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