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教育実践と「競争」

2009.03.14
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このたびは、授業を中心にすえた「学校づくり」について、『高校生活指導』177号、「授業公開のつくる同僚性」を中心に(そのまま)紹介します。 

 「報告者」の I さんによると(小規模校は存続に向け楽観できない状況にある)中で、ベテランも若手もみんな授業で困っていた。(…)教師同士がつながりあう(つながりあわねばならない)必然性があった(70頁)、ということでした。
 
 この高等学校での授業研究の取り組みは、次のように進みました。 I さん(生徒指導主任)が教務部と連携して「授業改善とともに生徒理解・生徒指導の充実を図る」という内容の「生徒指導計画書」を提案⇒授業研究委員会の立ち上げ⇒授業研究に取り組むための原案作り。

 その過程で佐藤学氏(東京大学)の提唱する「学びの共同体」作りに取り組んでいる中学校や高等学校の公開授業に複数の職員が参加(71頁)⇒「すべての教師が授業を公開し、それをもとに授業検討会をする」ことを提案。(以下がその柱)

1、授業研究のテーマ 「生徒一人ひとりの学びを保障する授業づくり
2、研修の内容
(1)教師が相互に学びあい、専門家として育ちあう関係を築く
(2)すべての教師が年一回以上授業を公開する
(3)公開授業と授業研究会をセットにする。公開授業をビデオ撮影し、それを見ながら(子どもたちの)学びの事実について語り合う
3、その他
(1)ビデオ撮影に関しては、研修のために使用することを事前に生徒たちに伝える。
(2)学びの質について語り合う。生徒の学びの側から教師のほうへ踏み込む。例えば「A君が『わからない』とつぶやいたが、どうしてそれを取り上げなかったか?」「A君への支援はどのようにしたらよかったか?」等
生徒の個人名を出し合う「研究協議」〕 (73頁)

 上記のような方針に基づいて2年間取り組んだわけですが、それによって生まれた「変化」については、複数の学校評議員の言葉が紹介されています。
 「来るたびに生徒の表情態度・校内の雰囲気がよくなっている」。「子どもたちが集中していたのが印象的だった」。「以前の授業はこんなに真剣に考える授業ではなかった。(…)先生方の姿勢が伝わってきた。素晴らしい取り組みなので、ぜひ茨城県全体に広げていってもらいたい。」 (72頁)
 
 以上のように、(小・中と比べて高校では遅れがちだった)授業研究の取り組みを組織的に進めていくことによって、学校に「明らかな変化」が生じてきているのです。
 そしてまた、「 I さん自身が告白おられる変化」が私には印象的でした。

 「最近周りを見る私の目(周りが私を見る目ではない)に変化が現れた。(…)一人ひとりが個性的な独自の表情を持っており、それを愛おしみ大切に思う感情が出てきたのである。(…)かつて、対人恐怖症で人の顔さえまともに見ることのできなかった私が、である。

 この変化はどこからきたのだろうか。思うにそれは、すべての生徒の学びを保障する(…)授業公開と授業検討会を通して同僚から学ぶ中で他者を他者として認め尊重する姿勢と謙虚さが私の中に形づくられてきたからではないだろうか」。

 以上の取り組みの中にも「学びあい刺激しあうことによって形成される同僚性」の好ましい姿が浮かび上がっているように思われます。茨城県といわず、全国でこのような取り組みを広げていきたいものですね。

 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページ​に
(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)


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Last updated  2019.03.30 13:38:23
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2009.03.08
 前回記事の最後に部活動の競争を取り上げながら、ともすれば「負けた自分はダメだ」という意識になりやすい、ということにも触れました。

 それは当然、部活動だけではありません。例えば、学力競争を背景とする「学校のランク」、そして「“ランクが低い”とされる学校へのまなざし」は部活動以上に子どもたちの心に深刻な影響を与えています。
 私は、「学校の力を高める 3」で生徒(S子)の言葉を取り上げました。

 ここで語られているような「学校差別」の現実が子どもたちを深く傷つけていることにまず目を開く必要があると考えます。

 そのような現実から出発して「学校も自分自身も素晴らしい」と実感できるような取り組みを創っていくことが大切でしょう。そして、実際に素晴らしい取り組みを体験できたからこそ、S子は次のような言葉を発することができたのです。(リンクの文章と重複しますが)

 「私にとってU高校とは、心を鍛えてくれた場所だろうか。悲しみの中から人間とは何であるかを教えてくれた場所だろうか。(・・・)友だちの大切さ、努力を惜しまずに前進するすばらしさ。相手を思う優しさ。プラス強さ。人間は1人の力で生きているのではないこと人間は成績などで計りしれないこと
(・・・)
 そう、私にとってU高校とは、人間のすばらしさを教えてくれ、心の翼をくれた場所」。

 さて、U高校では例えば「3000人が地域から集まるスケールの大きな学校祭(他のどんな学校にも負けない学校祭)をつくろう」、という取り組みが生徒会を中心に進められ「成果」を挙げるわけですが、そのような取り組みの背景にはU高校の職員集団の力があります。

 以前、U高校の職場づくりのポイントをKさんに尋ねたところ「あのひといいよね」といった言葉が自然に出てくるようになると職場の力はぐんと伸びていく、ということでした。最近聞いたところによると、そのような言葉が出てくるようになった背景には「ある仕掛け」(「職場学習会」の取り組み)があったのだそうです。

 具体的には「○○先生に学ぶ」というテーマで定期的に組合主催の学習会を(全職員に呼びかけて)実行したのだそうです。そのために、まずKさん自身が同僚の「優れた指導」に目を開き「学習会の問題提起者」を個別に依頼していったということですが、このような取り組みは、様々な意味において職場の雰囲気を前向きにし職員同士が刺激しあう(切磋琢磨する)状況を生み出すことになります。

1、問題提起を依頼された職員は、自らの指導の長所を(評価も受けながら)明確に意識し、それをさらに伸ばしていこうとする。
2、学習会に参加した職員が(日ごろから)同僚の長所に目を開き、それを積極的に取り入れるようになる。(大阪高生研は「パクリあい」を推奨しています)
 
 以上のような変化が生じてくると、さまざまな取り組みについて話し合う「職員会議」もいっそう前向きな雰囲気の中で大切な事柄について討議・決定⇒実行 していくための役割をしっかりと実質的に果たせるようになるわけです。

 Kさんの進めた「職場づくり」は、確かに単純なものですが「数値による競争」を持ち込まなくても「職員同士が前向きに切磋琢磨する状況」を作り出したといえるでしょう。

 私も、「職場学習会」をこれまで繰り返し企画・実行してきましたが、「○○先生に学ぶ」というテーマで「実践」を報告し「分析」する学習ができれば、同僚の長所を学ぶと同時にそれぞれの「実践課題」を意識していくことにつながると考えます。

 ぜひ、まねをしてみたい「職場づくり」、「学校づくり」ですね。
 
(教育問題に関する特集も含めてHP“しょう”のページにまとめています)

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Last updated  2009.03.25 06:28:26
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2009.03.06
教育の実践場面で「子どもたちの競争心」を刺激する場合は少なくないでしょう。それは教科の領域だけでなく「特別活動」の領域でもいえます。

 例えば、正副室長が中心になって6クラス合同のレクリエーションを(第1学年の5月に)実施したことがありますが、ゲームを盛り上げるためクラス対抗にして、上位チームに「景品」を出す企画を一緒に考えました。

 そして又、私が担任していたHRで「水車の回る店づくり」をしたときも、「他のクラスが絶対に取り組まないような企画を考えよう」といった呼びかけをしています。いずれも子どもたちの「競争心」を刺激する方法だと言えるでしょう。

 さて、それでは「競争心」を刺激する場合の留意点は何でしょうか?
 実際の行動や活動に際して「競争に勝つことが目的ではなく大切な指導目標は別にある」ことを指導者が意識すること、子どもたちが行動・活動の「振り返り」をする時に「勝ったかどうかとは別の成果」に目を向けるよう指導することだ、と私は考えています。

〔実践例1〕

1、クラス目標の提案・決定

・「球技大会」に向けて、(担任を交えた「会議」の末)ホームルームの役員が、「何が何でも優勝しよう」という目標をクラスに提案・討議した結果、それを「クラス目標」にすることを決定
 ここでは、「最初から負けることを前提に“目標”を決めるべきでない」、といった意見交換も含めて討議をした。

・「優勝するためには何が一番大切か」について討議する中で、具体的な取り組み(「励ましあう応援をする」、「競技を途中で投げ出さない」など)を、クラスで決定。

2、「球技大会」当日の取り組み

 決定に沿ってクラスの生徒は競技・応援などに全力を尽くすが、残念ながら「優勝すること」はできなかった。

3、取り組みの振り返り(総括)

・クラスで総括会議を行い、クラス決定が達成できたかどうか、一つひとつの点について討議・確認していく。そして、「目標は達成できなかったが、“目標を達成するための取り組み”(応援、競技に全力を尽くす)は全員で実行できた」ことを確認。

・球技大会の前と後を比較して、「クラスが変わったことは何か」意見を出し合う。「チームとして全力を尽くしたり、声をそろえて応援することでクラスメートに対する信頼が高まった等々」を出し合い、それが「大切にすべきクラスの財産であること」を確認

 さて、具体例をひとつ出しましたが、これは「クラスという“ひとつの社会”の中で声を掛け合い協力する力」を育てたり、「原案⇒討議・決定⇒実行⇒総括」という民主主義のスタイルを学ばせる、という“指導目標”を常に意識しながら「手段として競争の刺激を取り入れた」実践だといえるでしょう。

 私の「クラスづくり」の実践も、「他のクラスがしないような企画」を実行していくことを通して“他者に働きかけ、活動をつくり出す力”、“集団を分析し新しい人間関係をつくる力”などを個々人が獲得し、成長していくことを意識したものです。
 
 他方、部活動の競技であれば、HR活動や生徒会行事以上に競争を意識することになります。確かに「勝つために全力をつくして活動する」からこそ多くの貴重な体験ができるわけですが、それが教育である以上、目的は「勝つこと自体」ではなく「子どもたちの成長」でしょう。

 現実の部活動においては、同じ部のある者は全国大会入賞、他の者は都道府県の予選で敗退」、といったことがおこったり、「真剣に誠実に活動を続けたが3年間正選手になれなかった」、という結果も起こりえます。

 そのような現実の中で、ともすれば「負けた自分はダメだ」という意識になりやすいのですが、教育者は常に“指導目標”を意識し「活動を通して獲得している“価値”」に目を向けるような“振り返り”を促していくことが大切だと考えるのです。
 
(教職員同士の「いい意味での相互刺激(切磋琢磨)」を促す職場作りの例は次に回します。)

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Last updated  2019.03.30 13:32:22
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2009.03.03
>競争に弊害はあるとおっしゃいますが、生きる力という大義名分のもと
学力低下が起こっていることも事実です。

 上記も含め、ブログ記事(「競争社会を考える」)に対してPsycheさんからご意見をいただきましたので、応答いたします。

 学力低下の原因は「生きる力」の重視や「ゆとり教育」だという主張は、さなざまな個人だけでなく、一時期はマスコミによる「キャンペーン」になった感がありますが、この「主張」が「事実」であるかどうかは、検証の必要があると思います。

 ポイントを二つに分けて考えましょう。
1、日本の子どもの学力は低下しているのか
2、「生きる力」や「ゆとり教育」は学力低下の原因になった(なる)のか


 まず 1 についてですが、そもそも「事実」として伝えられている「学力低下」そのものが疑わしいということは、ブログ記事「日本の子どもの学力低下は本当か」でも述べました。統計的に有意差のある形で「学力低下傾向」が見られるのは、私の知るかぎり「PISA2006」くらいです。

 しかしながら、たとえばPISA2006に見られる「数学的応用力」、「科学的応用力」の低下が「生きる力」や「ゆとり教育」の結果なのかといえば、そう単純にはいえません。(2について)

 まず、実施された時期が日本では1学期の期末テスト後で、質問調査の努力値(どの程度真剣にテストに取り組んだか)が主要国で最低だったことなど、順位を落とした背景には別の要素もあるようです。
神原敬夫氏の論文より)

 また、例えば理科を学ぶ動機を尋ねた「自分に役立つ」「将来の仕事の可能性を広げてくれる」という項目で日本が参加国中最下位だったことは、「学習意欲」や「得点そのもの」にマイナスの影響を与えていた可能性があります。それに対して、「ゆとり教育」の柱であった「総合的な学習の時間」は、「生活や体験と結びついた学習」をひとつの目標としていたわけで、その導入が「得点低下につながった」と単純に言うことはできないのです。

>他国から謙虚に学ぶ姿勢は同意しますが、やはり教育の中核は優秀な人材です。
>フィンランドの教員は切磋琢磨する優秀な人間こそがなりえるものと思います。
>そもそも日本とはまったく異なります。

 「地方と大都市」では事情が異なるでしょうが、日本においても教員になるためのハードルは低くないでしょう。

 仮にフィンランドの教員の多くが(教職に就く前も就いた後も)「切磋琢磨」しつつ「教育力量」を高めているとします。そのような「優秀な教員」の多い理由が特別な「遺伝的要因」でないとすれば、彼らは「育てられている」のです。そうすると、「育つような環境」をどのように創っていくか、大学も含む学校教育や「教育現場の環境」をどのように整えていくのか、が問題でしょう。

 少なくともフィンランドが行う「教員を育てる環境整備」の方向は、イギリスの「教育改革」(全国統一学力テストの実施と公開が重要な柱)と大きく異なったものであることは確かですね。

>勉強すれば順位があがる(できるようになる)ことから肯定感を得ることもありえます。

 そのような認識は、(私がブログ記事で取り上げるまでもなく)いきわたっていることだと思います。日本の教育現場のほとんどは「競争による刺激」を学習の動機づけのひとつとして用いているでしょう。(「競争による刺激を全く用いないために問題が生じた」といった話は聞いたことがありません)。

 「教育現場で現に用いている競争の刺激」を含めて、それがどのような弊害につながりうるか、また生涯学習もにらみつつ「競争以外の有効な動機づけ」をどう工夫するか、などをしっかり考えていくことは、教育に携わる者にとって非常に大切なことだと考えます。

>ネガティブキャンペーンを行うあなたの姿勢は非常にバランス感覚の欠けたものと思います。

 競争の弊害をしっかり踏まえつつ対応(個人としても社会としても)することが大切だ、という問題意識・執筆姿勢についてはコメント欄も含めて繰り返し述べてきましたが、その強い問題意識そのものが「バランス感覚に欠けている」というのはあまり生産的な批判ではないと思います。

 例えば「競争しても学力行き止まり」で、私は具体的な事実を提示し、それについての考察を行っています。具体的に「事実誤認がある」、とか「その事実を記事のように解釈するのは妥当性に欠ける」、といった批判を論拠やデータをも含めて提示されるのがよい、と考えます。

 また、一般論として自分の主張と異なる事実や主張であれば、むしろしっかりと受け止め検討することが大切でしょう。

 なお、教育現場における「教員同士の切磋琢磨」に関して、私が好ましいと判断した「実践例」がありますので、なるべく近いうちにブログ記事にしたいと考えています。

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Last updated  2019.03.30 13:30:48
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2009.02.26
私のブログ記事「驚きのフィンランド教育 2 -格差をなくせば学力は伸びる-」
に関連してPsycheさんから「競争についてどう考えるのか」という趣旨のご質問がありました。

 例えば次のような質問です。
>つまりしょうさんは、競争(切磋琢磨)を軽視しておらず
また否定的に捉えられている立場ではないと考えてよろしいのでしょうか?
 
 まず、個人的な体験から述べてみたいと思います。
 かつて私は長距離ランナーでした。高校時代から約10年間競技を続け、駅伝などにも出場しました。トップランナーにはなれませんでしたがが、中四国の学生の大会で決勝に残ったり、県大会で入賞した時のうれしさは今でもよく覚えています。

 競技生活は私にとってかけがえのないものでしたが競争(競争心)を抜きにしては、あのような貴重で中身の濃い体験はできなかったと考えます。競争しつつより高い可能性を目指していく、ということは自分自身のエネルギーを引き出すことになったと確信しています。

 また、(教育現場において)組織的に研究授業を行いながら他者の優れた授業に刺激を受けたり民間教育研究団体で素晴らしい実践に刺激を受けながら、同僚や他の優れた実践家と切磋琢磨していくことも大切であると実感しています。
 
 このように、個人の体験を(社会や歴史とのつながりを視野の外において)振り返った時、競争や切磋琢磨が自分の刺激になってきたことは疑いありません。


 しかしながら、この間、現代社会において展開されてきた「市場原理主義を背景とするグローバル競争」について、どのように考えるべきでしょうか。際限のない「市場の競争」を背景に「非正規雇用率の増大」、「働く貧困層(ワーキングプア)の増大」、「セーフティーネットの崩壊」など、多くのひずみを生み出してきたと考えています。

(そして、私がブログ記事で問題にしたイギリスの教育改革 - とりわけサッチャー教育改革 - が、「市場原理主義」(⇒教育の市場化)と「グローバル競争の促進」といった思想を根本に持っていたことを忘れてはならないと思います。)

 『週刊東洋経済』(2008年 1月12日号)が「北欧」の特集をしたのも、際限のない「市場の競争」を一定抑制しつつ「一人ひとりが尊重される社会」を構想・実現していく一つのモデルと考えたからでしょう。

(「競争」を背景に生じるさまざまな「現実」を検証するための大切な軸は「一人ひとりが尊重される方向に向かっているかどうか」であると私は考えています。)

 さて、話が大きくなりましたが、私たちの身近にある競争も上述した「グローバル競争」を背景に「健全な競争からズレてしまっている面」つまり「不安感をあおりつつ追い立てるものになっている面」はないでしょうか。

 「もっと働け、さもなければ切られるぞ」、「もっと勉強しろ、さもなければ(社会からも)落ちこぼれるぞ」・・・。私は「競争しても学力行き止まり」の中で、「イギリス教育改革」を背景に心身に不調をきたした子どもたちの実態を取り上げましたが、ある意味で彼らは「現実の不健全さ」を敏感に受け止める感性を持った個人だといえないでしょうか。

 NHKスペシャル「ワーキングプア」が放映された時、多くの人たちから共感が寄せられましたが、「結局は自己責任で負け犬になったのだ」といった主張もネット上で見られました。おそらく自らを「勝者」と規定しつつ述べられた意見でしょうがその人たちは現代の「競争」を無批判に「身体化」している面はないでしょうか。
 
 「競争に振り回されてはいないか」、「それを目的化してはいないか」、「それぞれの活動(例えば教育実践)の目的を見失いかけてはいないか」、といった問いかけをしつつ自己点検し「競争社会の功罪」を意識することは現代社会においては極めて重要だと考えるものです。

 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページ​に
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