子どもの成長可能性
ここ数回、ヘーゲル思想を取り上げました。 人間の体験の中で共通する部分を「取り出し」(抽象し)て、普遍的な人間の本質や条件に迫ろうとするのが哲学です。 このたびはヘーゲルに導かれながら「抽象した」人間の本質(人間の中には「今ある自分ともう一つ自分との葛藤」「自らを価値ある存在として確認しようとする意思」が存在し、それが「成長・発達」の原動力である) について、Kさんの講演の中から具体例をあげてみたいと思います。(一) 子どもは成長、発達する まず子どもの見方です。子どもたちを「成長、発達するもの」という見方で一貫してとらえていこう。子どもたちが成長、発達するということに確信を持たなければ私たちの取り組みは、ひじょうに、虚ろなものになってしまう。・頭髪-茶髪 たとえば頭髪。茶髪、真赤赤になっている。それと発達をどう観るのか? 一見困った状況、放置できない状況ですね。 しかしたとえば、そういう子どもは、引きこもるという子どもと比べてどうなのだろうか? 自分を人と違ったものに見せようというところにエネルギーがある。たとえばそんな議論が出ます。 15歳から18歳までの子どもで、スポーツでも駄目、成績でも駄目といわれる子どもたちが、何もなくて生きていられるはずがない。どこかで他の人よりも俺は出来るというところを見せたいという気がある(何らかの自己表現をしたい)のは当たり前じゃないか。 だとすればそれを頭の髪の毛を変えるということよりも、もっと進んだこと、もっと創造的・文化的なことで代替することが出来るということを教えていけば、エネルギーの向けどころを変えられるはずだ。 そういう話です。・中抜け あるいは、中抜けはどう考えるの。たとえば、 いまある自分よりも良いものになりたいから学校に来る。けれども、勉強がサッパリ分からなくて、つらくて、困るから帰りたいと思う。立派になりたい自分と帰りたいという自分がはげしく心の中で闘争する。 そして負けた時には、たまたま、中抜けをする。少しでも自分が学校に行って立派になりたいという思いがあるから中抜けが起こる。 というふうに考えたら、そこにあるエネルギーを私たちは評価して、そこに働きかけていけばいいじゃないか。こういうふうな議論をいっぱいしたのです。 だから子どもたちは、様々に、疎外されているけれども、心の底には成長したい、より大きな人間になりたい、という発達意欲・意思をもっている。この見方を一貫させよう。これが論議しつつ確認した一番基本的な子どもの見方でした。〔コメント〕 「子どもたちの現状をどのように見ていくのが必要か」という論議の中で、柔軟なとらえ方が出来ているように思います。それが約200年前に行われたヘーゲルの洞察と通じ合うのは興味深いですね。 さらにU高校の場合は、それが個人的な考察ではなく、教職員集団で論議し、合意が成立した点がすごいところです。〔記事をアップして数ヵ月後(11月17日)に文月さんから下記のようなコメントをいただきました。それに対する返答はこちらです。〕 続く ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)(教育問題に関する特集も含めてHP“しょう”のページにまとめています)