戦争中の暮らし~archives series 39(1/19)
家の人に戦争中や戦後の話を訊こう(その4) 1980年度の冬休みの社会科の宿題「家の人に戦争中や戦後の話を訊こう」から作成した教材の、11ページから14ページまでの5人分を紹介します。 上の文は女子です。平和な現代の日本では考えられないことだが、学校の行き帰りに飛行機が来たこと、その他に防空壕の話や家の白壁を黒壁に変えたことなどを、父母から聞き取っています。他の生徒の文にも出てきましたが、この校区にある小さな岬の付近に魚雷の基地があったという話をこの生徒も書き残しています。 下の男子の文は、満州から帰還した祖父の顔がはれていたことから、戦争や兵隊生活の厳しさを想像しています。 上は前頁の男子の文の続きで、2機の敵機が重油船を大破させたことを木の上から目撃した父の話はとても印象に残ったことでしょう。祖父の出征の時の見送りの様子や、兵の遺体や、兵隊が上官から暴力を受けていたことを見た母の話も貴重です。最後に祖父の召集令状に触れていますが、いい書き終わりになっています。 下の女子の文には、「なみ」という木の皮がパラシュートの原料になっていたことや、松やにを飛行機の燃料にしていたことなど、リアルな戦時中の話が書かれています。この校区の北端は玄界灘に面していたので、敵機が海上をゆく船を狙って来襲したようで、高射砲が設置してあったことなども聞き取っています。 上の文は前頁の続きですが、おじさんの目撃談として、船が銃撃を受けて炎上したという話は、とても怖い気持ちで聞いたことでしょう。下に自筆で書いている感想の中でも、戦争の被害を知って、(平和な時代の)自分はぜいたくを言わず何に対してもがんばれると自分に言い聞かせています。 下の文を書いているのも女子ですが、父が12歳のころ、学校では行進や竹やり訓練などの軍事教練が多かったことを聞いています。食糧不足は戦後も続き、米を食べるようになったのは昭和34,5年ごろだったということです。 ページの上は、前頁の続きです。藻島というところで空襲があり2,3人の人が亡くなった、1人はかかとがえぐられていたことを、父の目撃談として聞いています。母はまだ小さかっけども、空襲警報の記憶は忘れられなかったようです。 下の文は男子ですが、この生徒も祖父に召集令状が来て近くの港から船で戦場にとられたと書いています。残されたばあちゃんとひいばあちゃんで、イモ・小豆・大豆・麦・米などをつくっていたが、他の村から(都市部から)隠れて買い出しに来る人がいたことなどを聞き取っています。 もっと多くの生徒が提出したのですが、その中から21人分をガリ版に書き起こして、全員に配布して教材として使いました。戦争は身近な家族にとっても怖くて悲惨なものであったことを感じてほしかったのです。教科書に書いてあることを説明するだけなら、遠いところで起こった他人事で終わりがちです。 しかし、文集をつくってから40年近くが経ちました。戦争体験者も多くが亡くなって、戦争の記憶はだんだん風化しています。 戦争をどう教えるか、特に戦後75年にもなろうとする日本にとって大きな問題です。先日天皇も「平成が平和な時代であったことを云々」という話をされました。しかし、実は現代にもれっきとした良い教材があります。 内乱や他国の干渉戦争で多くの負傷者や死者が出ているし、難民や移民問題など、武力行使に伴う様々な問題は現代社会の病巣です。これらを教材化すれば、戦争の非人間性や、戦争は人権侵犯の最たるものであることを伝えられます。 教師は「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」姿勢が大切です。いや、もっと言えば自分で見つけた教材を加味し、「教える」のではなく「考えさせる」学習が求められているのです。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村