久しぶりに吉野ヶ里遺跡へ(4/8)
非常事態宣言で閑散としていた 正面入り口を入ると駐車場のゲートがあり320円とられた。良い天気というのにほんの数台しか駐車していない。春休みも終わり家族連れも少ないのだろう。 しかし、やはり昨日(4月7日)政府が出した、新型コロナウィルスの感染拡大に関する7都府県を対象とした「緊急事態宣言」の影響も大きいだろう。その対象県の一つはこの吉野ヶ里歴史公園のすぐ東隣の福岡県なのである。「東側ゲート」(立派な正門ができていた、訪ねたのはなんと数十年ぶりだ) スタッフもボランティアガイドも手持ちぶさたのようだ。遺跡が公園として整備され、遺跡地域までの距離が遠くなった。久しぶりのウォーキングだと思って歩くしかない。園内バスもあるが、こんなに入場者が少なくては動いていないだろう。「南内郭入り口」(ここからが遺跡地区で、まず南内郭と呼ばれる区域がある) 田出川をまたぐ橋を渡って遺跡地区に入る。最初に南内郭がある。ここは大人たちが政りごとを行っていた場所といわれ、住居跡、集会所跡、物見櫓跡などが発掘された。現在は当時の光景を再現した建物が復原されている。「大人の家など」(物見櫓から見下ろした南内郭の大人たちの家や集会所、右の奥は主祭殿)「二重の環壕(かんごう)」(この「環濠集落」は魏志倭人伝の記述と一致し、発掘当時から話題になった) 歩道に沿って北内郭に向かう。例年ならそろそろ修学旅行生でにぎわうであろう遺跡内も、不気味に静まり返っている。今年は多くの学校が新型コロナウィルスのため修学旅行を中止または延期するだろう。とにかくコロナウィルスとの戦いに勝たなければ、吉野ケ里歴史公園もこのような閑散とした日々が続くだろう。「政りごとの場所、北内郭」(田植えや収穫の日など重要な事を決めていた場所で主祭殿が威容を誇る) 見学者とガイドの人が写真中央に小さく写っている。それと比べると主祭殿の大きさが分かる。発掘された柱穴の大きさや配列が復元されたものだ。 北内郭を出て北に向かうと北墳丘墓に着く。一段と高くなっていて、歴代の王の墓があった区域だ。14基の甕棺が見つかり、中にはガラス製管玉や有柄把頭飾銅剣が収められているものもあった。弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものだ。「甕棺の墓列」(再現展示、推定で15,000基埋葬されているという、左奥が墳丘墓) 吉野ケ里遺跡が注目されたのは1989年2月23日の報道発表で、その前日の22日が遺跡発見の日とされている。その後の調査で、弥生時代中期を中心とする約700年にわたる古代人の生活の跡ということがわかり、特に二重の環濠に囲まれた集落として有名になった。現在も発掘調査は継続中である。 国の史跡は1847件あるが、なかでも歴史的価値が高くて日本文化の象徴と評価されるものが特別史跡で、これは全国で63件しかない。その中の一つが吉野ケ里遺跡である。また、佐賀県の名護屋城跡も特別史跡に指定されている。「コロナ化禍で入場者減少~佐賀新聞」(修学旅行の中止などで、今年度の入場者数は多くは望めないだろう) 日本城郭協会の選定する日本の名城100選に、吉野ケ里遺跡と名護屋城跡が入っている。城と言えば戦国・江戸時代を想起する人が多いだろうが、吉野ケ里遺跡は弥生時代の城郭都市として100名城の中に入っている。これを知る人は少ないだろう。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村続日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ特別編集) [ 公益財団法人 日本城郭協会 ]楽天で購入