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カテゴリ: 欝とともに生きる
先日ある認知症のwebで、70歳の知識量は20歳に勝るという記事を読んだ。
若い時から、中年や老年になったらどんな境地になるものか想像を超えていた。記憶量が勝ることや知識量だけで言えば10代後半から20代前半がピークと何となく思っていた。 実際自分が50代後半になっても、当たり前だけれども喜怒哀楽の感情もあり、好奇心もあり、知識欲もある。何かを学ぼうと意識することができれば一回聞いただけでも記憶に残る。 記憶力で優れてきたと思うのは、会話のそれだ。自分がどんなことを話し、それについて相手がどんなふうに応えたか。患者さんとの対話の一部始終と言っても良いほど、記憶に残るようになったのはここ数年のこと。若い時は、何となく概略の記憶はあるのだけれど、その時の相手の表情や自分の感情、言葉の一部始終について思いだせなかった。良く先輩が患者とのやりとりを生き生きと再現するのを聴いていてすごいと思ったものだが、この年になってそういう記憶力が自分にもついてきたことを知った。 経験を積むことによって、少しずつ自分が何が分からないかが鮮明になってくる。分からないことが明瞭になると何を補強すればよいか明確になる。中年を過ぎての記憶力はこういった自分に対する理解度や問題意識にも左右されるものと思う。 心情的に一番楽になれたのは、自己理解が一定安定してきたことによるものとおもうが、他者の評価や期待に対して自由になれたこと。自分の価値観が安定してきて、自己を認め他者を認められることで、自分は自分と思えること。 たった一人しかいない自分と、そして一人ひとりが価値ある存在としてこの世界に共存していること。そんな人間が気球誕生以来無数の人々がそれぞれの人生を全うして存在し続けてきたこと。 10代や20代のころは街を歩いていても、その瞬間瞬間を味わうより、他者の目が気になって気になって仕方なかったものだが、最近は全く他人の目を意識することなく、空や街を味わえるようになった。 こんなに楽なことは無い。 自分固有の関心や感覚で日々を味わえる。 自分を認め、他者を認められることがこんなにも楽であるとは。 しつけに厳しい両親のもとで育ち、両親の価値観と期待に沿えるように頑張ってきたものにとって、経験を重ねることがフィルターになって自分というものがはっきりしてくると、無限の価値観に縛られずに済むようになり、なんとも自由な心境なのである。 還暦までもう2週間ばかりとなったが、自分がこれから目指すものが明確になりバラバラだった価値観が統一されて古臭い言葉になったがやっと私にも自我の確立といった青年期の課題を乗り越えた感じがするのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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