★クリスマスプレゼント外伝★
『次男の猫』 江州・掲陽鎮の大地主、穆太公には二人の息子がいる。 その次男は、少し足りないらしい──と、陰で囁かれていた。なにしろ、長男の方は十三の歳には立派に小作人たちを監督し、また車馬を差配して商売に出ることもこなしていたのに、次男は同じ歳で掛け取りの一件にも間に合わない。喧嘩をすれば負けてくるし、商売に出せば損をする。当然、小作人たちにも抑えがきかない。 ところが当の本人は、陰口も、父親の心配などどこふく風に、日がな一日、愛猫の蚤をとっている。 この猫を、玉環という。ある雨の日、船着場の藪のなかで、破れ蓑にくるまってみゃあみゃあと啼いていたのを拾ってきたのだ。 このやせ猫を、次男はどうしたことか溺愛した。やせっぽちの汚い雌猫に楊貴妃の名をつけるとは、とんだ酔狂だとみなが笑った。「ぬかせ、これは猫の姫君ぢゃ」 次男はそんなことを言って、子猫を懐に入れて育てた。手塩にかけたかいあって、やがて黒々とした見事な毛並みの美猫になった。 ところが、この猫がとんでもない贅沢者で、釣ったばかりの新鮮な魚しか口にしない。それもうまいところを何口か喰うと、次をねだってにゃあと泣く。次男がまたそれを叱るどころか、欲しがれば自分の膳からでも分けてやる。「我が家は、次男とこの猫に喰い潰されてしまうだろう」 穆太公は人に会えば、そう言って嘆いた。もっとも、長男のほうは腕っぷしも強く、また負けん気で、そのへんの荒くれ男を数十人たばにしてもかなわないような男だったから、それは杞憂と思われた。 そんなある日、“こと”が起こった。 *** その日、次男は玉環のために新鮮な魚を求めようと、潯陽江のほとりに出掛けた。そこで次男は一匹の猫を見た。潯陽江の大網元、文太公の飼い猫だ。 文太公は丸々と肥えたいけすかない爺だが、その飼い猫はそれに輪をかけたような化け猫だった。毛並みは灰色に白黒が混じったまだら、腹は地面までたれさがり、耳は片方くいちぎられて、目つきときたら人食い虎だ。その薄汚いぶち猫が、漁師たちから“猫王様”などと呼ばれて、ちやほやと持て囃されていたのである。 たとえ魚を盗んでも、漁師どもは愛想笑いをうかべ、「さすが、“猫王様”。すばらしい食欲でございますな」 などと褒めそやす。 ところが、次男の猫がちょっと雑魚の匂いをかぐと、漁師たちはすかさずざるを投げつけた。怒った次男は漁師に殴りかかったが、反対に殴り飛ばされて、魚も買えず、ほうほうのていで家路についた。 そこで次男は考えた。 喧嘩をした漁師どもは、あとで兄貴に殴ってもらおう。しかし、可哀相なのは玉環だ。あんな不細工なでぶ猫に遅れをとって、ざるを投げつけられるとは。 次男は一念発起した。(あの性悪猫が大事にされるのは、飼い主の威勢がいいからぢゃ) さっそく兄に会いに行くと、長男は大人たちにまじって博打をしていた。次男は兄の袖をひっぱった。「兄ちゃん、わしは何かでかい仕事をしたいのぢゃが」「でかいこと」「何がよかろう」「“老鼡幇”の長髯幇主でもやっちゃれ」 長男が言うと、次男はぽんと手を打った。「いい案ぢゃ」“老鼡幇の長髯幇主”には、近隣のみなが迷惑していた。 いつからこの辺りに住み着いたのか、おびただしい手下を連れて、好き放題に暴れまわる。米や魚肉、蔵の荷を盗みとるのはもちろん、家畜や衣服、家具も被害にあっている。揺りかごから赤子をさらわれた者もいた。 その行動は神出鬼没。頭がよく、巧みに人の裏をかく。犬などは恐れないし、毒もきかない。「しかし、奴はそうとう手ごわいぢゃろう。兄貴、わしに勝てるかのう」 珍しく真剣な次男の声に、長男はようやく骰から目をあげた。「本気か」「おう」 ならば、と、長男は立ち上がり、二つ三つ必殺の技を伝授した。「あとは気合ぢゃ。相手を睨み、全力でぶつかるんぢゃ」 次男は神妙な顔で頷くと、棒きれを握りしめ、街はずれにある廃墟に向かった。破産した富豪の米倉跡だ。“老鼡幇”の悪党どもは、この古蔵を根城にしていると目されていた。 次男はごくりと唾を飲み込むと、覚悟をきめ、朽ちかけた扉に手をかけた。 *** 蔵の中は真っ暗だった。 崩れた壁の隙間から、細い光がいく筋か漏れているだけだ。次男は油断なく辺りに気をくばりつつ、ずっと一歩ふみこんだ。やがて目が慣れ、蔵の中が見えてきた。壊れた農具や傾いた棚が、雑然とちらばっている。“老鼡幇”の気配はない。「で、でてこんかい!」 次男がそう怒鳴ったとたん、奥の闇がざわめいた。暗い蔵のあちこちから、絹を切り裂くような音、悲鳴と怒号、板に刀を叩きつけるような音が雷鳴のごとくに轟いた。さらに無数のぎらぎらと光る目が八方から睨み付けている。次男はきゃっと悲鳴をあげた。さっと生臭い風が吹き、大勢の気配が突進してくる。次男は夢中で棍棒を振り上げた。(玉環よ、待っとれ!!) 次男は思い切り棒を振り下ろした。そのまま勢い余ってつんのめり、倒れた地面で顔をしたたかに打ちすえた。 手応えはあった……ような気がした。 *** おそろしい物音に、長男は米倉の扉をあけた。 扉から差し込む光の中に、次男が目をむいて引っくり返っていた。地面で打った前歯がかけて、顔じゅうが血まみれだった。 昏倒した次男まわりには、おびただしい鼠の死骸が転がっていた。どれも一撃で腹を切り裂かれている。その中に、一匹だけイタチほどもある大鼠がいた。一尺もある銀色のひげをたくわえていた。「おお、やったか」 頭を砕かれ死んでいたのは、間違いなくこの蔵の主“長髯幇主”だ。長男と彼が引き連れて来た小作人たちは、みな次男の手柄に声をあげた。 と、その足元を、どこから現れたのか次男の猫がきどった足取りですりぬけた。ふさふさとした尻尾をぴんとたて、しゃなりしゃなりと外へ出ていく。 すれ違う時、“姫君”は金色の目で長男の顔をちらりと見上げた。そして、真っ赤に染まった牙を剥いて──にっと笑った。 ***「それは、ものすごい奴じゃったぞ」 前歯の欠けた顔で、次男は会う人ごとに自分の武勇伝を語って聞かせた。 近在の誰もが迷惑していた“長髯幇主”が退治され、誰もが次男に礼を言った。もう“足りない”などと笑うものはいなかった。 次男は、おおいに満足した。 思惑どおり、飼い主の株が上がったために、人々の玉環を見る目もがらりと変わった。みなが恩人に対するように慇懃になり、毛艶をほめ、牙や爪をほめ、わざわざ獲れたての魚などを運んでくる者もいた。「やってみるものぢゃのう」 胸を張る次男の傍らでは、次男の猫がそしらぬ顔で黒い前肢を嘗めていた。