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カテゴリ:政治・社会・文化・歴史
少し前に、郷里へ帰りました。
さて、新神戸駅から700系に乗りました。 カッコいいですね(*^^)v あんな高速鉄道は日本しかできないでしょう。 新幹線ができる少し前に生まれた私にとっては、 感慨深い乗り物です。 東京から郷里までよく乗りました。 当時は指定席など乗ったことなくて、混んでいると よく自由席で立ったまま東京ー名古屋間を 移動しましたね。(*^_^*) 東京ー大阪間は当初は3時間10分だったのが 今は2時間25分(@_@;) 窓が小さくて、車両の継ぎ目がカバーで覆われているのも 当然かもしれません。 さて、名古屋からは特急です。 相変わらずディーゼル車ですが、 これもずいぶん速くなりました。 さて、私の実家は某観光地にあります。 以前は駅の改札が入口と出口に分かれていましたが 今はみどりの窓口がある入口に統一されました。 その理由は、推測ですが私の子供のころは 駅から出る出口には旅館の看板を持った人があふれていました。 当然予約がある人はもちろん、予約が無い人も自分の旅館へ 案内しようと客引きの争いになっていました。 ちょうど有名人にレポーターが群がるように、出口を出る人に 客引きが自分の旅館の名前を連呼しながら声を掛けています。 地元の私たちは、客引きの誘いを断りながら、 人ごみの中を通って帰り道につくのでした。 いつしかそんなことは無くなりました。 バスや自家用車が増え、列車で旅行する人が減ったからでしょうか? さて、駅前は以前より心なしかひろくなったような感じ、 でも駅前は少し寂しくなった様な気がします。 駅の北側の地下道を通ります。 実は南側にも地下道があるのですが、これは南側に地下道が できる前の古い道。 地元の人しか知らないでしょう。 地下道を抜けて正面に見える大きな橋を渡ります。 下を流れているのは益田川(飛騨川)です。 下流で木曽川に合流して太平洋にそそぎます。 橋を渡ったところに飛騨川に流れ込む谷があります。 阿多野谷と言いますが、その谷を境に右側が森地区。 左側が湯之島地区。この湯之島が、 「諸州多有温泉、其最著者、 摂津之有馬、下野之草津、飛騨之湯島是三処也」 と言われた天下の三名泉。 谷には上流へ向けて四本の橋がかかっていますが 二番目の橋には、何故か上の文章を書いた 江戸時代の儒学者、林羅山像があります。 何故か、林羅山が猿とたわむれている? 儒学者の林羅山が猿と遊んでどうする???(*^_^*) もともと、こんな像は無かった。 この谷は、以前は自然があふれていました。 三番目の橋の下では夏にはホタルが飛び交っていました。 三番目の橋から上流を見ると、谷を挟んで左側の道は途中まで、 右側はほとんど地道が伸びていただけです。 左側にはポツポツ民家がありましたが、右側には見渡す限り 棚田が広がっており、民家はほとんどありません。 空き地にはアケビが自生していました。 それが今はどうだろう。 谷の両側には車道がついて、谷側に歩道が張り出している。 車道と歩道の境には柳が植えられている。 ところどころ、谷へ下りる階段があります。 下ったところにあるのは、自然あふれる谷ではなく 人工的な水路の脇に遊歩道がついています。 上流は公園として整備されているようですが、 昔の面影はありません。 温泉街へ入ります。 心なしか寂れているように思いますね。 量感と土産物屋の間に、飲み屋・食べ物屋・喫茶店などが並び その間に日用品を扱う店が並んでいたのが、かつての湯之島の 街並みでした。 昼間はもちろん、夜になっても不夜城のごとく、旅館の浴衣を着て 下駄をつっかけた泊り客が歩き回っている。 夜遅くまで、酔っ払いの騒ぎ声が聞こえたのも昔の話。 ところどころ、櫛の歯が抜けるように、空き地ができていますが、 あいにくとこの地域はほとんどの家屋が掛け作りで 家が無くなると、ただの傾斜地です。 そこに建物があった記憶を持っている人は、 「こんなところに建物があったのか?」 と驚きをもって眺めますが、そうでない人には とても建物があったことなど想像されない。 それゆえ、余計に哀愁を誘ってしまいます。(*^_^*) かつて日用品を扱っていた店の多くは閉めています。 土産物店も閉めています。 かろうじて、飲食店は残っているようですが、 温泉街に場違いな?ファッショナブルな店も ありますね(*^_^*) 以前は木造二階建てだった旅館が、鉄筋コンクリートのビルに 変わってしまったのは、バブルの頃でしょうか。 やり手の町長の宣伝によって全国的に温泉が知られるように なったのも同じころの話。 町には観光客があふれ、その波に乗って旅館も店も やり手の経営者はどんどん事業を拡大していました。 「一泊2万以下では泊めない」 今では考えられない様な条件がまかり通り、 多くの成功者が出現して、永遠の発展が続くように思われました。 その頃、私はこんな提案をしました。 ライバルは郡上八幡と高山です。 他の観光地と比較されることはない。 比較されたとしても、1日で届く圏内のその二つの観光地に 勝つことが最低条件です。 ちなみにそれは今も変わることはない。 郡上と高山は城下町で街の完成度が高い。 勝てる部分は温泉しかない。 少なくともハードで負けても、ソフトでは勝つ必要がある。 1、駐車場とトイレを整備すること。 2、温泉街は車両通行止めにして、馬車や人力車を走らせること。 3、温泉街の町並みを作るために補助金を出すこと。 4、多くの客を呼び込むよりも、質の高いサービスを提供して リピーターを増やすこと。 この提案は今でも通用すると思う。 しかし、耳を傾ける人はいませんでした。 あれから20年、時代は緩やかに温泉街を安楽死へ 導いているように見えます。 多くの成功者たちは、時代の波にさらわれて、いつしか 財産を失っているようです。 一部の旅館の成功とは裏腹に、多くの地元経営者たちは 旅館を手放したと言います。 残っている旅館の壁のシミが没落する風景を 暗示しているように見えます。 多くの個人商店も店を閉めました。 私が子供の頃、多くの客を迎え賑わっていた商店が ある店はシャッターを、ある店はカーテンを閉め 貸店舗の札が空しくかかっています。 活気がありそうなのは、銀行と病院だけ。 衰退する街のランドマークでしょうか。 実はある旅館に泊りました。 その経営者は子供のころから知っています。 その人がこんなことを言われていました。 「街がきれいになっているでしょう?」 「えっ」 「街並みが少しづつきれいになっていませんか?」 返答に詰まってしまいました。 確かに人工物は増えました。 それなりに整備されてもいます。 地元の人から見ると「きれいになっている」感覚なのでしょう。 しかし、考えてほしい。 温泉地へやってくる人は何を望んでいるのだろう? 人工物なら都市のほうが優れたものが多いはず。 田舎なら都市に無いものを提供するべきではないか? 皮肉っぽい言い方で、しかも、ダラダラした文章では ありますが思う所を書きました。 みなさんいかがお考えですか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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