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カテゴリ:お出かけ
日曜日は地図から読み解く歴史とドラマ 横濱 地図ものがたりへ行ってきました. 赤レンガ倉庫で行われた「横濱地図博覧会2009 vol.2」のリバイバルだそうです. 古今の地図を通じて横浜150年の歴史をたどる市民企画です. 石黒徹さん(横浜市まちづくり調整局)が30年にわたって収集してきた古地図を中心にして,開港から現在に至るまで横浜のまちづくりがどのように行われてきたのかを読み解きます. 日曜日は解説をしてくださるというので時間に合わせて行ってきました. 横浜中央図書館にて第1期 「通史編1」 開港前~震災前と第2期 「通史編2」 震災~現代に分けて展示を行っています. 今回は前半の第1期が3/22で終わるというので期限ギリギリでした. 感想はとにかく凄かったの一言です. 気になる方は以下の記事を読んでください. まず開港以前の地図を見せていただきました. ペリー来航当時1859年は横浜には横浜村という100戸の村があるだけだったそうです. その内側は入り海でした. 最初は食糧増産のために,横浜の釣鐘湾とも呼ばれた入海を埋め立てて新田開発(吉田新田)されたそうです. 新田開発は通常,水際線に沿って行われますが,少し出っ張った部分(横浜新田)については畔道が斜めにつくられました. それが今の中華街の町割になっているとのことでした. 「BAY OF EDO」という海図にはペリー艦隊が植民地政策で船がどこまで入ることができるかを知るために横浜湾の水深が描かれています. 「PLAN DE YOKOHAMA」という横浜絵図面にはフランス人クリペが精巧に横浜を描いています. 江戸幕府はこの横浜の地を出島化するために関内として外国人の出入りを規制しようとします. そのために掘った川(今の堀川)の跡がきれいに描かれていました. 1866年には豚屋火事が起こって横浜の大方が焼けてしまったそうです. これをきっかけとして,横浜の近代化がすすめられたそうです. 「武州横浜湊焼場方角図」には出火元も描かれていました. 近代のまちづくりでは,日本大通りの整備が象徴的です. 「PLAN OF THE SETTLEMENT OF YOKOHAMA」では,36mという当時としてはかなり広い大通りを整備,歩道もつけて延焼を阻止しようとしたそうです. 遊廓は関内にあったそうですが,伊勢佐木町に移転されます. 明治以降,遊廓は伊勢佐木町から真金町へさらに移転されます. 「横浜真景一覧図絵」には,風船からみた鳥瞰図が描かれています. この図には艀(はしけ)が接岸したり,川を渡っている様子が描かれています. しかし,大型船は遠方に停泊しています. このことから,1.艀(はしけ)は川を物資輸送の手段とされていたこと,2.大型船は接岸できないため,艀が陸地と大型船との物資受け渡しをしていたことが分かります. そのほかにも,煙を吹き出す発電所や当時からある郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)は横浜港にしっかり描かれています. 1898年の「改正横浜市全図」には,鉄道網の発達の様子が分かります. 東京方面から来た物資は軍用バイパスで横浜を経由したのち,東海道へ延びています. 1909年の「明治四十二年之横浜地図」には,港湾整備の様子も分かります. 防波堤もあります. 海運と鉄道をうまく結びつけるために,汽車道が埋め立てられている様子も描かれています. 1921年の「横浜名所案内図絵 市街電車案内」には,横浜駅が移転して,軍用バイパスがなくなったことが分かります. この地図は鳥瞰図であることが特徴で,寄席の場所や花月など名所が描かれています. 1923年(大正12年)の「対象調査番地入 横浜市全図」は1923年9月に起きた関東大震災の直前のすがたが細かな番地入りで描かれています. そして,1926年の「MAP OF YOKOHAMA SHOWING THE DEVASTATED AREA(横浜火災延焼状況図)」には,270カ所以上の発火点と延焼方向(北東)がヒアリングをもとに描かれています. 赤の縁が被災個所を示し,火災による二次被害がいかに大きかったかが分かります. この地図では,山手や山下町が空白となっていますが,ここに居住していた外国人は神戸などに避難したためヒアリングできず,データが入手不可だったそうです. このような感じで時代とともに,地図は如実に横浜という街の歴史を物語ってくれています. 今回,石黒さんの丁寧な解説のおかげでその歴史が垣間見えました. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.03.23 00:07:58
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