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カテゴリ:音楽・テレビ・映画・小説
最初に検証される事例は「オール・ロマンス闘争」です。 当時の部落解放全国委員会京都府連合会によると、もとになった小説が、京都市行政が部落の劣悪な住環境を放置してきたその差別の結果に他ならないと指摘されている。 部落差別に対する行政の責任が部落差別論として設定されることで、必然的に同和行政の必要性が用意される。 いいかえれば、差別とは何よりも劣悪な部落の生活実態であり、その責任は行政にあるという論理がここで作られたという。 一番関心を抱いたのは芦原病院の歴史をたどった3章です。 最初に創設された芦原診療所における、最初の医療活動の大半はトラホーム対策と結核であった。 診療所を実際に運営するのは童話事業促進協議会地区役員の運営委員であったが、累積赤字を抱えたまま、神戸市内の医師・看護婦の紹介機関であった「医交社」を通して、船医を務めていたMS医師を初代所長として迎えた。 1969年には、特別措置法が施行され、芦原病院の役割を大阪府市同和地区医療センターとして総合病院化が方針決定された。 しかし、今後の病院のあり方について検討された答申において、以下の記述があります。 病院の運営において、本来行政が実施すべき保険や福祉事業を始め、病院運営とは切り離して別途の対策事業として実施されるべき就労保障的な役割をも担ってきたにもかかわらず、それらが持つ不採算的な側面が明らかにされないまま、病院事業における赤字の増大あるいは事務処理上貸付金対応とならざるを得なかったものも累積債務としてとらえられるなど、主として病院の経営収支のみが論じられてきたことも否定できない。 問題は、運営責任を担う体制廃止を中心として組織されるべきであるが、その根幹の決定権がなぜ大阪市にゆだねられたままであったかということである。 トラホーム対策と結核予防を達成した後、高齢化社会が伴う疾病構造に直面した浪速・西成地区でも、地場産業である皮革・靴産業の衰退によって、地域は停滞化を迎える。 そのように考えれば、逆説的に、佐久総合病院が周辺農村に対して同じ役割を担ったように、芦原病院も地域の停滞化傾向に歯止めをかけてきたといってもいいだろう。 しかし、佐久総合病院では医療スタッフが地域医療や地域福祉に積極的に参加し、施策を実践する責任と決定権を有したのに対して、芦原病院はその一歩を踏み出すことが結果的にできなかった。 経営破たんを回避するための優れた提言がなされていながら、常にそれは棚上げされたままであった。 問題となるのが放漫経営や病院の利権化というよりも、公的サービスや管理組織が主体の力量とは関係なく自立化し、逆に主体を駆動し、結果的に意思決定の回路が失われてしまうそのプロセスであると指摘することはできよう。 これまで見てきたような部落解放運動は、住民主体のまちづくりが行われてこなかったことの具体的な表れの一つであるように感じました。 国による地方の労働化・国民化の収奪構造は、原発立地自治体でもみられますが、同和行政においても同様の構図が見て取れることが理解できました。 差別は見えにくくなっているけれども残っている。 現在でも声を出せない高齢者や貧困者が不利益を生活に必要なインフラを利用できない状況におかれていますが、これらを知らない、あるいは知っていても知らぬふりをすることは社会的に許容されるのでしょうか。 まずはどこでどのような問題が起こっているかを明らかにして、その改善に向けた具体的な策を住民とともに考えていく必要があると感じました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.06.26 14:21:26
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