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カテゴリ:古典
「照千一隅」というコトバそのものではないが、その由来になったと思われる話なら、司馬遷「史記」に次のようにある。
威王二十三年、与趙王会平陸。二十四年、与魏王会田於郊。魏王問曰、「王亦有宝乎?」威王曰、「無有。」梁王曰、「若寡人国小也、尚有径寸之珠照車前後各十二乗者十枚、奈何以万乗之国而無宝乎?」威王曰、「寡人之所以為宝与王異。吾臣有檀子者、使守南城、則楚人不敢為寇東取、泗上十二諸侯皆来朝。吾臣有眄子者、使守高唐、則趙人不敢東漁於河。吾吏有黔夫者、使守徐州、則燕人祭北門、趙人祭西門、徙而従者七千余家。吾臣有種首者、使備盜賊、則道不拾遺。将以照千里、豈特十二乗哉!」梁恵王慚、不懌而去。 (「史記」田敬仲完世家) 威王の24年(前358年)、会見の席で魏侯は「あなたも財宝を持っているでしょう?」と威王に聞いた。威王は「持っていない」と答えた。魏侯は「我が国は小国ですが、それでも車12台分の長さを照らすほどの光を放つ径1寸の珠を10枚は持っています。どうしてあなたが持っていないと?」と問うた。威王は「私の考える宝は、あなたが言うそれとは違う。家臣の檀子に南城を守らせると、楚人は攻めてこなくなり、泗上の12諸侯が皆、朝貢するようになった。眄子に高唐を守らせると、趙人は河の東まで来て漁をすることがなくなった。黔夫に徐州を守らせると、燕人が西門に、趙人が北門に集まるようになり、7000余もの家が従うようになった。種首に盗賊を取り締まらせたら、道に落ちている物さえ拾う者がいなくなった。これらの宝は、千里をも照らす事ができますよ。車12台どころでは」と答えた。これを聞いた魏侯は恥じ入り、去った。 昨日のブログで触れた「山家学生式」にも「径寸十枚、是れ国宝にあらず」とある。真の宝は「物」ではなくて「人」なんだと、最澄も言いたかったのだ。 ※威王…田因斉。のちの斉王。鄒忌を相国、田忌・孫臏を将軍として、政治改革と軍事力強化に成功。最強国の魏と対峙し、桂陵の戦い(前353年)、馬陵の戦い(前341年)に大勝して、魏を衰退させた。前334年、斉王を自称した。 ※魏侯、梁恵王…姫罃。のちの恵王。宰相の公叔痤が推薦した公孫鞅(商鞅)を登用せず、秦への逃亡を許した結果、商鞅の手腕で急速に強国化した秦の侵攻を受け、徐々に領土を削られた。馬陵の戦い(前341年)で斉に大敗すると、すかさず侵攻してきた秦にも敗れて魏都の東遷を余儀なくされたため(安邑→大梁、現在の開封)、梁王とも呼ばれた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023年09月11日 18時13分31秒
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