フランスAAR 「フランスの黒」 第9章
軍事的な抵抗力を損失したカオシュンに対し、フランス陸海空軍は共同で強襲上陸作戦を展開。空母16隻、戦艦4隻、航空機1,000機等の支援の下、新編成されたフランス海兵隊10万が上陸した。海兵隊員は即座に日本軍の拠点であった場所を占領し、簡易的な基地とした。 海兵隊員たちが上陸後最も悩まされたのが放射能汚染であった。放射能汚染はフランス軍首脳陣や科学者の予想を上回り、フランス軍はカオシュンを最低限の兵力だけを残して放棄、火災の鎮火や被爆者の治療に注力する事になるが、それは対日戦が終結してから本格化する事になる。 4月中に台湾全土を制圧したフランス軍は、台湾をアジア戦線の拠点として活用し始めた。5月1日、フランス海兵隊が朝鮮半島のプサンに上陸。フランス軍が加わり、インドシナ、ビルマ、インドといったアジアにまで展開する枢軸同盟が全力をもって中国大陸制圧に乗り出したのである。 7月に入り、フランス軍は朝鮮半島全域を占領し、間を置かず満州に侵攻を開始した。満州はアムール川沿いに防衛線を張るので精一杯であり、新たに発生した朝鮮という戦線に対応できなかった。 首都である新京、工業都市ハルビンは早々に陥落し、満州と旧ソ連国境沿いに追い詰められた日本、満州軍は次々に降伏、全滅して行った。8月15日には満州の全ての重要拠点を押さえたフランスは満州の併合を宣言した。フランス軍は中国国民党との国境沿いに主力を駐屯させると、満州、モンゴルの敵兵力掃討と徳王政権下の蒙古連合自治政府解体に乗り出す一方で兵力の回復に努めた。そもそも、時間をかけて困るのはあくまで日本勢であり、枢軸同盟にとってはいかに損耗を抑えるか、言ってしまえば勝って当たり前の戦争なのであった。 1956年に入ると、フランス・アジア派遣軍司令部は、麾下の兵が十分に回復したと判断。凍結した路面を蹴り、フランス軍は歩を進めた。2週間で足の速い機甲師団が北京の日中軍を完全に包囲。解囲攻勢に出た日中軍を退け、閉じられた北京ポケットの日中軍は徹底抗戦を叫んだが、3日と持たず敗退した。この北京包囲戦の成功後、急速に戦線は前進する。日中軍は兵の頭数こそ多かったが、食料、兵器の不足、相次ぐ敗退で士気は下がる一方であった。 更に3月になると、これまで強襲上陸作戦を嫌って来たアメリカ軍が華南に上陸。明らかに枢軸同盟の拡大阻止を睨んだ上陸作戦に枢軸同盟各国首脳は白い眼を向けたが、逆にフランス軍の攻勢を速めるという副次効果を生んだ。山東半島で起こった包囲戦では日中軍10万名余りが戦死、降伏した。フランス政府は7月1日に中国共産党を再建させ、華北に政権を樹立した。 国家社会主義という、本来相反するイデオロギーを受け入れた共産党政権は延安を首都に独立を宣言。その矛盾した存在は、まず食料の配給という手段を取り、民心を掴む事に成功する。こうして、新たな中国の主が受け入れられ、国民党、日本という旧体制の排除を叫ぶ声が中国大陸において日増しに大きくなって行った。 8月2日には国民党政権の首都、南京が陥落。南京を落ち延びた日中軍30個師団(数字上。事実上は半数以下)は上海北方の都市ナントンにおいて包囲され、降伏か、全滅かという選択肢を突き付けられた。ある部隊は降伏、ある部隊は玉砕覚悟の突撃を敢行した。8月26日、フランス包囲軍が総攻撃を開始。抵抗した部隊は全て殲滅され、中国大陸における最大の包囲戦が幕を閉じた。これ以降、日中軍は中国大陸において姿を見る事はほとんどなくなる。そして秋が過ぎ、冬を迎え、北風と共に国民党は消えた。* 中国大陸は国民党が消え、南北を共産党とアメリカ合衆国が分け合う形となった。また、ビルマ領をアメリカが侵犯した(日本軍が占領→その上をアメリカ軍が踏み潰す→ビルマ領がアメリカ領に)ため、これが後々の火種の「口実」となって行く。この時点で、枢軸同盟と米国の陣営の拡大競争はすでに始まっていた。 資源のない日本にとって、中国大陸は貴重な資源、外貨獲得の場であった。中国大陸の失陥は、日本という国家の生命線が断たれた事を意味していた。もはや日本の命運は定まったようなものだったが、枢軸同盟は日本本土の残党兵力に注意を払っていた。中国を支配下に置いた以上、日本本土が「不沈空母化」しているのは自明だったためである。 そこで計画が進められていたのが、日本本土の核攻撃であった。計画はラヴァルやフランス軍上層部が提唱し、日本各地の主要都市を核攻撃、しかる後に強襲上陸で占領するという単純な作戦である。ラヴァルの「多くの日本人が死ぬだろう。だが多くのフランス人が死ぬよりはいい」という論理に基づき、ヒトラーも賛同する意向であった。 しかし、ここでフランス軍上層部である議論が持ち上がる。「本土をわざわざ核攻撃をしなくても、単純に強襲上陸すれば占領できるのではないか」というものである。相手は万年物資不足で士気も低下しているはずであり、意外に脆いのではないか、と。核攻撃への準備が進む中で、議論も白熱した。最終的にはラヴァルが判断を下し、海兵隊のみによる強襲上陸作戦が実行に移される事になったのである。これには後の本格的な上陸作戦へのデータ収集という目的もあったと言われているが、この作戦はフランス政府、軍の上層部が誰も予想しなかった方向へと向かい始める。 なんとあっさり成功してしまったのであった。空母4隻からなる第3機動艦隊の支援があったとは言え、死傷者も予想をはるかに下回るものであり、大成功となってしまったのである。これはラヴァルにとっても軍上層部にとってもいい意味で誤算となった。 それから枢軸同盟の対日戦略は急速に加速し始めた。6月中旬に行われた上陸作戦から、8月23日には大阪に立てこもった日本軍に対する総攻撃が実施されるに至った。数にして倍、士気旺盛かつ機械化率も高いフランス軍に対し、日本軍は兵器の数・質両面で劣っていただけでなく、兵士の士気も著しく低い水準でしかなかった。中には強い反撃を見せた部隊もあったが、それもフランス軍の圧倒的な戦力の前に、次々と屈して行った。翌日には、フランス軍は日本軍の解体を宣言。そして同時に、フランス政府は日本の併合を宣したのであった。* わずかな期間に急速な展開を見せた日本情勢を巡り、各国、各陣営は直ちに戦後処理に入った。中でも活発な動きを見せたのがアメリカである。日本本土での権益争いに遅れを取ったアメリカは、すでに枢軸同盟の一角を成していた朝鮮に対し切り崩す工作を行った。結果、朝鮮半島では南北を隔て建国される事態が起こり、アメリカは韓国を属国下に置いた。 このあからさまな「侵略行為」は枢軸同盟にとってみれば宣戦布告に等しいものだったが、今すぐアメリカと対峙するつもりはなかった枢軸同盟は、これを認めた。一方で枢軸同盟は、アメリカが起訴しようとした日本の戦犯者を擁護し、起訴を取り下げさせた。更に彼らを無罪放免とし、再び日本の地を統治させた。こうして日本の枢軸同盟入りが確実なものとなり、朝鮮半島は「敵中」深くに孤立する事態となり、アメリカは中国の南半分と、太平洋各所に海軍、航空基地を得た程度に留まった。1940年前後から始まる枢軸同盟とアメリカの根深い対立は、後に「冷戦」と呼ばれる事になる。冷戦は、この後3年で急速に危機を高めて行くのであった。 枢軸同盟とアメリカの対立はその後3年間に激化した。特に、日本、朝鮮半島、中国を中心とするアジア情勢に対し、両者は一歩も引かない姿勢を見せていたためである。ラヴァル、ヒトラーら枢軸同盟首脳とアイゼンハワー米大統領は、1度スイスのジュネーブで会談を行ったが、この首脳会談でも緊張状態を解く事はできなかった。 更にこの時期、フランス国内外で「ラヴァル・ドクトリン」が浸透し始め、各国で枢軸同盟を絶対的な存在として重視する動きが加速し始めた。ナチズム、ファシズムの政策をより強固なものとし、民主主義、自由主義をはじめ、この2色に色分けされつつある世界情勢において、中立を保とうとする姿勢すら悪だという考えを持つ人間が若者を中心に増えていたのである。この運動は結果的に第3世界と呼ばれていた中立国をアメリカ寄りにするものであり、危機感を覚える者も少なくはなかった。だが、ラヴァルは意に介してはいない様子であり、実際に気にも留めていなかった。彼は、枢軸同盟の実力が世界で最も強力である事を十分に認識していた。戦って勝機がないのは、アメリカ陣営であるという事に疑いを持っていなかったのである。 アメリカ陣営と枢軸同盟の対話は平行線を辿り、ついぞ交わる事はなかった。お互いがお互いの譲歩を望み、結果何の成果も得られなかったのだ。しだいに民心も互いに憎悪を抱くようになり、平和主義は敗北主義と石を投げられ、いざ戦争という機運が高まって来た。そんな中、新たなるアメリカ大統領を選ぶ大統領選が1960年に開かれる。最大の焦点となった対枢軸同盟政策において、民主党候補のジョン・F・ケネディは対話継続を訴え、史上まれに見る接戦を制した。 戦争の機運が高まったとは言え、10年以上に及んだ戦争でついぞ小国日本を屈服させられなかったアメリカ軍と政府を、アメリカ世論が見限り始めていたためと思われる。しかし、「それ」は、彼らのすぐ目の前に迫っていた。続く。HoI2集フランスAAR