虚 第一章 邂逅 13
気がつくと、静まり返った夜気の底に、何故かとても穏やかな虫の音がしていた。「・・・・・・・・・・?」冷ややかな夜気の底に沈むような木の匂いと、沈丁花の香りがする。けれど目覚めたばかりの頭と眼は十分に働かず、ただ咬(ぜん)の身体と頭はのたのたと眠りと目覚めの間を惑い、時間を浪費するばかりだった。・・・・・・なのに。痛みだけは時間と共に増してきて、チリチリと疼く。どうしてか、全身が、痛い。熱くて。横たえられているシーツすら熱くて。掛けられている上布団すら重くて。身体の内奥が・・・・・・内臓すらキリキリと痛みを生んで、・・・・・・・熱くて。とても、熱くて。何も見えなくて。何も聞こえなくて。熱くて。・・・・・誰も、いなくて・・・・・。眼が、喉が、指が、唇が、吐く吐息すら熱くて、重い。このままどんどん身体の全てが熱くなって、腐り落ちるように感じた。その想いが歪んで、何かひどく冷たいものが目尻を伝って落ちた時、初めて自分が泣いていることを知った。その涙がこぼれる音が聞こえそうなほど、自分のいる“此処”は静かで、自分以外に人がいるとは思えなかった。(誰も いない。)それが何か、とても嫌なことを、・・・・・・・怖いことを思い出しそうで。指がガクガク震えた。熱さが一気に冷水をかけられたように痺れていく。冷たい痺れが唇を縛って、吐息が切れ上がる。一度味わった、身体を二つに裂かれる様な怖気をもう一度、今、再生されるような・・・・・・・その、・・・・恐怖。『嘘、だ。・・・・・・・あいつが・・死んだなんて、有り得な、い・・・・。あいつを殺せるのは俺だけだ・・・・。俺を殺せるのもあいつだけ・・・・・・・ッ!』続く言葉が息の根が止まるような慟哭に砕け散ったのを、咬は覚えている。二度とは帰らない、温かな血の通う声も、思いやりに満ちた其の腕も、咬は覚えている。絶対に失えないモノ・・・・・。それを失った痛みに、泣いて泣いて、身体中の血の全てが涙に変わるように泣いたことも覚えている。(・・・・・だっ。・・・・・・イヤ・・・・だっッ!!)『・・・元、・・・・・虎様・・・・。』喪えない。二度と、思い出したくはない。堪え切るより先に死ぬ、痛くて死ぬ。(お前が、いない。)切り刻んで捨てたはずの想いと痛みが、今、再び熱を帯びゾクリ、と身体の内を走り抜ける。けれどそこまで思い出しても、呼びたい名はちらりとも思い出すことはできない。そのことが更に痛みを倍化させる。涙は、止まらない。いっそ死んでしまいたかった。と、ふいに視界が真っ暗になる。「・・・・・・・・・っ。」急すぎる変化に咬は一瞬痛みを忘れた。が、それも本の一瞬で、咬は再び苦い記憶の底に引き戻されそうになり、恐慌に陥りそうになった。「泣かないで。・・・・・悲しい夢を見たんですか?」驚嘆するほどのタイミングの良さだった。ひたむきで咬を抱き締めてくるような、温かい声だった。その声は咬を現実に引き戻し、けれど驚き故か、怯え故か、自分でも分からない新たな心の痛みを咬に与える。そしてまた、ズルズルと引き摺られそうになる。「もう、いいから・・・・・。」泣きたくなるほど温かな声に、呼ばれる。「何も考えないで。・・・・・・ゆっくり休んで、・・・眠って。」柔らかく叱り付けるように、温かく思いやるように、声は咬を撫でる。視界が暗くなったのは、この声の主の手の平が置かれているせいだと、ようやく気づく。こんな奇跡のような思いやりは、自分は知らない。ふいに怖くなった。こんなものを知れば、後で自分は一人で立てなくなる。なし崩しに、自分を拾い上げてくれるこの手を、声を求めてしまう。しかも、この手も、声も聞き覚えがあった。ならば余計に、自分はこの腕を求めてしまうだろう。縋ってしまう。(自分を救うのは自分しかいないのに。)生半可な優しさなど、俺はいらない。そんなものは信じていない。だから近寄るものは全て退けてきた。張り巡らせる鉄条網は自身を深く傷つけるものと分かっていたが、咬はそれで満足だった。傷つけられる前に、その傷の深さを想定し、それに堪えるために敢えて自分に牙を剥いた。裏切られる前に裏切り、他の誰かに心を殺される前に自らでその心臓を引き摺り出す。哀しいほどの防衛本能は、幼い頃咬が自分で必死に築き上げた防波堤だ。それでも温かいこの声は皮膚に溶け込んで、身体の内にしみる。(こんなのは、痛みと熱のせいで弱気になってるだけだ・・・・・・。・・・・・・本気で求めてるわけじゃない。)未だどかされない手の平をよけようと、頭を振る。少し視界が戻り、手の平がずれるとそれを拒み、咬は自分の手で目を覆った。「・・・・・もういい・・・・・、やめてくれ・・・・・・・・みじめで、たまらない・・・・・・・。」一度与えられたぬくもりは、必ずこの胸を焼き、その温かさを思い出させる。“それ”を与えられたら、野生の獣でも、甘ったれた子供のようにそれをどこかで求め、心の中で夢見るだろう。そして、死ぬのだ、・・・・・否、殺される。厳しすぎる生に。そして後悔し、憎むだろう。温かみにほだされ、弱くなった自分を。強く立てなければ、生き残ることすらできない。(少なくとも、俺は・・・・。)「そうやって強がって・・・・・。」声と共に、咬が自分で目を隠していた手を、温かい手にどけられる。夕闇の藍色の瞳と咬の黒瞳の視線がかち合った。その瞬間咬は凍りつく。「あなたはほんの少し求めれば癒される傷があるということさえも知らない。」静かな声がかすかに熱を孕んで真上から落ちてくる。「何が欲しいですか。何でも与えてあげる。・・・・・・人のぬくもり、ですか。」静かな声に、内臓まで探られる気さえする。知らず、顔に血が上がった。「っ・・・・・・何もっ・・・・・いらねえ!・・・・・どけっ。」「嘘をつかないで。」図星を突く声が、痛い。(俺は、馬鹿だ。)キリキリと唇を噛む。目でギリリ、と睨む。見間違えようもない、あいつだった。ここ一ヶ月間、毎晩毎晩見続けた夢の・・・・・男だ。けれどそれより以前から、咬はこの男を知っていた。この眼だ。この眼が俺を殺す。「強がらないで。俺に求めてください。あなたの強がりも辛さも孤独も忘れさせてあげる。全てなし崩しにして求めさせてあげる。あなたの全てを拾い上げる。」息もできない真率な、神を愛する殉教者のようなひたむきな、殺気すら秘める声に、言葉に、灼かれる。なし崩しに、と言った通りに壊されてしまいそうになる。「・・・・・どうか、許して・・・・・。」正面から抱きしめられる。その肩が、かすかに震えていた・・・・・・・泣いているのかもしれない。許して、というのはその言葉の前に告げた行為を許容して受け入れろ、ということなのか・・・・・・、それとも・・・・・別の何かなのか。「会いたかった・・・・・・。」簡潔なその言葉に、どれだけ多くの意味がこめられているのか、咬は何故か分かっていた。「あなたを、愛している。」その男のひたむきな言葉を感じ取ろうとするように、咬はただ、一筋に男を見つめ返す。言葉は、ない。が、静かに咬が声を向けた。「おまえか・・・・・・・。」まるで噛み締めるようにつぶやき、ふいに柔らかく笑みを浮かべる。突然のことに驚き、男は目を丸くした。それに視線を返しながら、咬は続けた。「小さい頃、よく誰かの面影を母さんとか周囲の人に重ねて、けどちっとも似てなくて癇癪起こして泣いてた。“誰か”なんて顔もはっきり分からなくて、何者かも分からないくせに、“泣かないで”って言うあんたの声とあんたのその表情だけ覚えてたんだ。・・・・・・・よく、寝る前とか外に出かけたとき、探してた。でやっぱり、見つからなくて一日中泣いてた。」懐かしむように目を少し細め、咬は笑う。本当に懐かしいのだろう、表情がさっきより柔らかかった。「あれはおまえだ。その表情だけ、覚えてる、今も。」(・・・・・・・この人は・・・・・・。)その言葉が自分にどれだけ影響をおよぼすか、分かっていない。有家(ありえ)は咬を見返しながら、心中で言葉を返した。今のこの体勢も、おそらくは分かっていないだろう。有家はそう思いながら片手で咬の髪を梳いた。「・・・・・・・・・・・。」幼い頃、咬の母が生きていた幸せだった記憶に、有家の残影があることが分かったからか、よほどその頃は幸福だったのだろう、あの時に有家を知っていたとゆうことが今の咬をほっとさせるぐらいには。先ほど向けられていた、野生の獣のような警戒心は向けられない。(あなたは変わっていない。)一度心を許した者にはこちらが心配するぐらい無防備になるところも。それとも、咬が今も覚えていると言った自分の表情が、彼を安心させているのだろうか。“あなたを、愛している。”と言った時の表情が咬の指している表情なら、あなたは此れほどまでに俺の前で無防備をさらけ出すべきではない。「・・・・・・・・・。」髪を梳かれるのが心地良いのだろう、咬は息をつき、目を細めた。緊張し、強張っていた身体から、力が抜かれるのを感じる。(あなたは俺の前でこんなに無防備になるべきではない・・・・・・。)たまらなかった。髪を梳いていた手を止め、その手で咬の顎を上向かせる。静かに、唇を重ねる。永く、深く、口づけた。