サンセツキ <本編> 第三章 孵化の刃 7
雪が、降っている。優しい音で室内に焚いている薪が爆ぜる。深夜。このような時間になりながらも火を絶やさず室内を適温に保っている様子を見れば、給仕が度々部屋を細やかに見て回っているのだろう・・・・・・・この部屋を使っている人物に対する屋敷の主の気遣いの程が分かる。室内には三人。少し離れて二つに並べられた寝床には、守人の少女と少年が横たわり、静かに寝息を立てていた。その静かな室内に一つだけ、その空気と隔する“異質”がまぎれている。不自然なその存在に。室内の空気は一部分だけ撓(たわ)んでいる。あまりに似つかわしくない、重厚な漆黒が。黒い髪、褐色の肌、闇色の眼・・・・・・・・。その男はあまりにも狂暴で残虐な気配を纏っているのに、鋭敏なはずの守人の少女と少年は目を覚ましもしない。その瞳に凍った狂気と十年来の覚悟の残滓が冷たい色が沈んでいる。その瞳を静かに少女たちに向けながら、隻腕の男は襖の前に立っている。無表情な面には何も浮かんではいない。九鬼【クキ】だった。彼らを眼にしながらも九鬼は微動だにしない。が、その眼が眠る少女の姿だけを視界に映した時、ふいに九鬼の瞳には狂暴な灼熱が燃え上がった。その原因の存在を九鬼は思う。数刻前。『氷翠王【シャナオウ】様・・・・・・・。』驚きを通り越して背筋が凍った声が、張り付いたような無表情から漏洩した。そんな自分の無様さを九鬼は知りながら、だが力の抜き方が分からなかった。『それ、は?』不自然な、首筋から肩にかけての『証し』。氷翠王にはあまりにも似つかわしくない、浮薄な、そのライン。氷翠王はそれを死しても失うべきではなかったのに。昨夜までは在った艶やかな黒髪の腰までの長さは、無残なまでに首筋までに切られていた。長い髪は【貴】の者である証し。朱樺【シュカ】の地とその血の者を尽く継承せし正統なる者の証し。それが失くば、あの地には支配者として戻れぬもの・・・・・・・・・。九鬼は一つ大きく呼吸した。指先にふつふつと血が溜まっていく。落ち着かなくては。分かっている。氷翠王はこの若さで朱樺家を束ね、蒐【シュウ】家を束ねてきた存在だ。何の考えも思惑もなしにこのような暴挙にはでないはずだ。・・・・・・だが。だとすればこのいきなりの暴挙は“朱樺を継ぐ気はない”という表明にはならないか?それは引いては朱樺家を捨てるということか。氷翠王が跡目を兄に譲る心算があったことは知っている。それが氷翠王の望みなら反対はしない。九鬼とて、それぐらいの理解はある。だが、それならそうと、何故、言わない?氷翠王は・・・・・、主は静かに九鬼を見据えていた。その眼差し。まるで“お前に話しても仕方ない”と言っているような・・・・・・!この時そう聞き返せば、氷翠王は即座に否定したことだろう。“そのようなことは一度も思ったことはない”、と。だがこの眼差しの揺るがなさは、氷翠王が自分の中以外の他に答えを求めていないことから来ている。ならばそれは“そうするに値しない”と思っていることにならないか。そう思っていたのだろうか。当てにならない男だと、心の奥で自分を軽視していたとでも言うのだろうか。一瞬にして九鬼の背筋が凍りつく。九鬼は微笑んだ。『・・・・・三日前に、あなたが拾ってきた、守人の、客人の、御為ですか?』九鬼の内心の動揺に氷翠王は気がついたかどうか。答えによっては、この人を、どうにかしなくては、ならない。『違う。元から考えていたことだ、彼らは切っ掛けに過ぎない。』真っ直ぐな真率な瞳が淡い微笑を宿して九鬼を見つめている。その氷翠王からは一途な想いと彼らに対する温かな思いやりが透けて見えた。氷翠王は頷くべきだった。九鬼のこの問いに肯定以外の答えを返すべきではなかった。氷翠王が頷きさえしていれば、九鬼は氷翠王の全てを許したのに。氷翠王が頷いていたならば、心根の美しいあなたの慈愛であったのだと九鬼は納得をしたのに。頷く、べきだった。二人の関係を崩壊させないため、絶対に、越えてはいけない境だったのに。『逃げるつもりですか。』と、なじってやりたい衝動を九鬼は殺し、両指を握り締めた。そうしないと氷翠王の首を絞め殺してしまいそうだったから。九鬼は微笑んでみる。『そうですか。年甲斐もなく見っとも無い醜態を晒しました、お許しください。』とも付け加えてみた。その言葉に、美しいあの人はこの上なく優しく微笑んだ。そして労うように九鬼の硬直した肩を柔らかく撫で、『いや、相談もなしに驚かせてしまった。すまない。』と真摯に謝りさえした。だが、もう遅い。九鬼は裏切りを感じていた。氷翠王のそれに、九鬼も微笑みを返した。だが心は空だった。静かに孵化する狂気的な衝動は、何故微笑み返してやる必要がある、と返してきた。あの人は我らを・・・・・・朱樺を捨てようとしているのに!朱樺はあの人を愛し、求め、一番辛かった人質時代をも乗り切った。あの人もそれを理解し、あの地を、血を、人を愛しているはずだった。なのに、愛されてはいなかったのだ。どころか九鬼は必要とさえされていなかった!あの人は二重の意味で九鬼を裏切ったのだ。これほど忠義を尽くし、片腕さえ斬り捨て、こんなに愛し身体ごと地獄にまみれたのに。殺戮の日々。累々たる屍、血臭。捨て身の誓いと儀式を経て、九鬼はそれらと連れ添ってきた。全ては足しにもならない事象だった。氷翠王以外には。何もかも捨てた。氷翠王に添うことで失った幸せすら省みることすらしなかったのに。それでもあなたさえ気高くいてくれさえすればそれでよかったのに。その身体一つ朱樺だけに捧げられずに、あなたは心すら裏切るというのか!他愛のないことだ。あの人は高みに上ることを諦め逃げに走ったのだ。血反吐を吐き、途方もない孤独にその身を震わせながらも、一人立ち続ける人であったのに。あれほど美しく、輝くばかりに残酷な人だったのに。あの人はまさしく勝者であったのに。あの人は知らない。縋る者の苦痛を。その手足は縋る者の存在を感じ、その血で確かに濡れているのに、その唇は確かにその血の味を知っているのに。それなのに、あの人はなお強く輝きを増した。あの人はまさしく勝者であるから。孤独を抱き、何にも縋ることのない彼の立ち姿は誰もが王者と認めるだろう。あの人は一人極地に佇み、ただ上を仰いでいた。だがそれも昨夜までのことだ。私は止められなかったのだ。あの人の腐敗を。知りもしなかった。あなたは変わらずに、泥の中でも気高くあれると思っていた。とんだ勘違いだった。九鬼は思考の海から戻り、再び現実へと視線を滑らせた。あの人の腐敗を引き起こした存在へと。守人の少女は静かに眠っている。その横には半分だけ守人の血が入った少年が。少年が眼を覚ます気配は一分もない。よく睡眠薬が効いているようだった。無論、だからこの時期にこの場所へ来たのだ。十年来愛用してきた武器・・・・・・・・茶色い血の染みがいたる所にこびり付いた鉄の棒を静かに少女の喉笛に滑らせる。原因さえ亡くしてしまえば、あとはどうにでもなる。「あなたは何よりも光輝な存在で在らなければならない。」ふっ、と空気を切るように短く呼吸をし、少女の喉元を血に汚れた鉄の棒が突き刺す刹那・・・・・・・!「何をしている。」凛、と響く冷たい凄絶な声が室内の淀んだ空気を切り裂いた。条件反射で九鬼の動きが紙一重のところで静止する。他の者の声ならば誰が間に入ってきただろうとも九鬼はその凶器を振り下ろしただろう。だが、その人物の命令には如何なる時でも従うようにしてきたこの十数年が仇になった。襖に手を掛けこちらを切るように凛然と佇んでいるのは氷翠王であった。だがそんなことは関係ない。いくら、氷翠王であっても九鬼は行動を為す事を止めるつもりはなかった。九鬼が再び凶器を振り下ろそうと少女に眼を戻すと、かすかに少女が咽喉を鳴らした。眼が覚めかけているらしい。薄く少女が眼を開く。いまだ焦点の合っていない少女のその瞳を見留める。そして不意に九鬼は己の武器を少女から離し、下ろした。その一瞬の後、少女の瞳は焦点を結び始め、やっと目の前の男の姿を見止めた。「・・・・・・・・・・・?」その薄い紫の瞳を九鬼は見。不意に笑った。その瞳に神呪が見えたからだ。(・・・・・・“神の子”、あるいは“月”か・・・・・・。)氷翠王は少女の正躰に気づいていないらしい。この少女の身体があれば、氷翠王の瞳に執りつき氷翠王を喰らう忌神を取り出しこの少女に移すことができる。・・・・・・・殺すのはそれからでもいいだろう。「・・・・・いい、拾い物をしましたね。」*「・・・・・いい、拾い物をしましたね。」低い低い、哂いを陽炎のようにゆらりと声から立ち上らせ、男は氷翠王を振り向く。男の頬にある縫合痕が蝋燭の光をてらり、と映し返す。ドクン、と内臓が脈打つ音を氷翠王は他人事のように聞く。無意識に、指先が震えた。恐れではない。怒りでもない。ただ、すでに離れすぎた“ズレ”を思い。「お前にとって、私は、何だ。」部屋から出て行く九鬼に氷翠王は声を向けた。静かに静寂を揺るがす、声。このような場合であっても、凄絶な凛然さはその声からは失われない。その届くか届かないかの声の、切なる問いの一筋も、九鬼はもらすこともしない。なのに何故、「あなたは私の神だ。」その返事を最後に、九鬼は去った。知らず、氷翠王は下唇を噛み切った。苦い血の味が口内に広がる。其れさえも夢が与えた傷のようで、叫びだしたい焦燥に駆られた。腕から己のすべてが奪われそうな気配が九鬼からしていた。九鬼の“理想”は知っていた。迸るような熱情も知っていた。(あの男は俺の可能性を摘み取ろうとしている。)そんなことはものの前から知っている。(けれど。)九鬼を己の傍から排除することができない。本当は。“理想”など生きている人間に向けるなとその残酷さを声も限りになじりたかった。けれど。生きているから、俺は“もっと”と思う。それに、“かもしれない”と。一度失った信頼も信愛も生きている限りまたいつかこの手に取り戻せるかもしれない、と。だけど違う。・・・・・・・・・それは、・・・・・・違った。あいつと俺は、求めるものが違いすぎる。(けれど、可能性があるから生きていける)相反している。願いと求めるものが。だから九鬼に見抜かれた。けれど、離すことができない。解き放つことはできない。俺は俺のエゴのためにあいつを生かしておきたい。肉親のように思っている。深く大切に思っている。だから、苦しめても生かしておきたい・・・・・・。(最悪だろう。)遥か高みから見下ろしてくる月が自分を照らしている。それを見上げ、氷翠王は震える声をつむいだ。「・・・・・だからどうか、こんな俺を笑わないでくれ・・・・・。」一体何人が何の支えもなく生きていけるというのか。徐々に孵化していく九鬼の激情の刃が、氷翠王はただ、恐ろしかった。 【孵化の刃:完】