サンセツキ 【過去編】 黎明 9
目を開けるとそこには上質の深紅色が見える。少しばかり色の重いワインレッドは広すぎるこの部屋の絨毯の色だった。気怠い身体を寝台から起こし、氷翠王【シャナオウ】は室内に視線を滑らせた。苦痛と向き合うばかりだった今までの治療期間は、現時点では多少はましに成りつつある。病室から蒐【シュウ】家縁の別荘(つまり今身を置いている此処)に移されるまでの間、医者が言うには氷翠王は生きているとはいえない状態だったらしい。内臓破裂に両腕の複雑骨折、両足は大腿部の側面から踝まで走る刃物による裂傷、局部の外内部の裂傷・・・・・・・そしてそれらの傷からの感染症。後少しでも助けが遅れていたら危なかったらしい。だが、そんなことを聞かされても氷翠王としては聞き流すほかなかった。くだんの一件からいまだ一週間と半ばしか経ってはいなかったし、未だ身体は激痛に苛まれ安静どころか寝台から離れられない状態だったが文句はなどない。(未だ、生きている。)身体の痛みを慮り静かに寝台から足を下ろし床につける。まだ足に力を入れて立つことはできないが足から感じる絨毯のひやりとした感触を氷翠王は身体に覚えこますようにかみしめる。本来なら御披露目を一ヶ月後に控えた身でこんな所で燻ぶっていて良い身分ではない。だが、今は少しでも身体の調子を整えるほかない。実際の予定なら二週間後だった御披露目は氷翠王の身体の調子の具合で日にちが多少延びたのだが。けれど身体の完治には三ヶ月ほどかかるのだ。多少タイムリミットが延びたところで焼け石に水だ。よほど蒐家の人間は朱樺【シュカ】家の人間である氷翠王を“晒し者”にしたいのだろう。それは重々判っているが披露目を拒むことはできない。周りが敵ばかりの今の状況。不利ばかりの襲名。披露目の意味は一族の跡目が成人した寿ぎと、その跡目が一族を率いる資格を認められ実質一族の長となった襲名の二つ。だが、氷翠王が襲名するのは蒐家の名ではなく朱樺家の名・・・・・・・。名は朱樺家の宗主となったとしても蒐家の人質である自分は朱樺の地に帰ることはならない。馬鹿馬鹿しいことに遠く離れた地で朱樺の王座を譲り受け、王は自国の城も臣下も民も土地すら見ることが叶わないまま名だけを受け継ぐのだ。実は何一つこの手には入らない。父が愛した朱樺の民を地を慈しみ愛することすら許されない。蒐家はこのまま氷翠王をその命が絶える刹那まで飼い殺す気でいるのだ。だが、氷翠王の心は凪いだ海のように静かだった。迷いは一筋もなく、時を増すごとに冷静な眼差しは冴え渡っていく。何故か。一つは、そのようなことはもう九年も前から分っていたことだからだ。当たり前の事実を知らされても人は驚いたりはしない。だが厳しい現実は時には人の心を荒立て、腐らせ絶望へと導くこともあるだろう。氷翠王はそのことを自らで不思議に思っていた。何故こんなにも心乱されないのか。かといって諦観に満ちているわけではない。何故か腹が据わっていた。堂々と一人で立てる、そんな実感すらある。何も保証などない。むしろ事態は最低の底をぶち抜いている。周りが敵ばかりのこの場所で、自分を立証できるのは自分しかいない。遥か昔から自分はこうして一人立ち続けてきた気がする。嘲りの言葉は氷翠王に何の傷もつけはしなかった。何かに縋らなければ生きてはいけないほど、何かに頼らなければいけないほど自分はか弱い存在ではないはずだ。己の中の“真実”が揺るぎないものなら赤の他人の言葉に身も世もなく揺り動かされることもない。脅威には、成り得ない。そのことを自分は知っていた。他耳を汚す言葉が自分すら穢していく事実にどうして気がつかないのか。そしてそんな人間にかかずらわっていられるほど、氷翠王は目的意識のない人間ではなかった。自分は、朱樺の地に戻らなければならないのだ。『例え一時であっても朱樺【シュカ】の指揮官が入れた者は我が家の子だ。ましてや、お前たちは朱樺家に心血を注ぎ尽くしてくれたいた。お前たち在っての朱樺家だ。・・・・・・・成人し、国に帰れることが許されれば、私は全てを捨てよう。この身も心も全てお前たちのために生きると誓う。・・・・・許せ。辛いことを言っていると分かっている・・・・・・・、だが、・・・・・今しばらく、堪えてくれ。』この自分の言葉に背く事はないと誓う。「失礼致します、氷翠王様。」氷翠王の思考を切り替えるようにしっかりしたけれど耳障りではないノックの音の後に、涼やかな低い男の声がかけられる。外に居た黒髪も美しい青年は室内に入ると、その涼やかな美貌を下げ開けた扉の前で丁重に礼をする。他の蒐家の人間の氷翠王に対する礼儀も欠いた言動の非礼を詫びるように。そしてそのまま青年は頭を上げない。部屋の主の許しが与えられるまでは動かぬ心積りだろう。「・・・・・・・・・・・。」蒼炎【ソウエン】のその態度はいつものことだったので、氷翠王は継ぐ吐息一つで部屋に入るよう促した。そうすると一瞬の間も置かず、律儀で如才ない男は室内に入り音を立てず扉を閉める。こうした動作もいつものことだ。蒐家の宗主に氷翠王の目付けとして就くように言われたこの男は以来、怪我で動けない氷翠王の看病を一人でしている。蒼炎の甲斐甲斐しい看病がなかったらここまで早い回復は見込めなかったであろうし、下手をすれば死んでいたであろう。「御身体の調子はいかがですか。」「大分いい。」「それは良かった。」そう言い、蒼炎はすっと瞳を細め、目だけで微笑する。が、次にはその瞳は厳しくなり、氷翠王を見据えた。「ですが、まだ本調子ではないでしょう。身体を寝台から離すのはお辞めください。貴方の傷が開くのと同時に私の寿命が縮みます。」早々に叱責をくらい、起こしていた身体を丁重に寝台に戻される。大人しくされるがままになっている氷翠王の体調が整っていることを確認して蒼炎は話を切り出した。「私は披露目の準備でしばらく此方に顔が出せません。今日から代わりの者をよこしますが、今お会いになられますか?」「今、か・・・・・・?」「ええ、呼んでおりますので。獅吼【シコウ】といいます。」「獅吼・・・・・・・・・・。」「そうです。獅吼です。あとは惨砂【サザ】だけです。他は例え身分が上の者でも私が許可した者しかこの階には上がってこれません。」説明する蒼炎の言葉に無粋なノックがかぶる。タイミングが良いのか悪いのか分からないそのノックに氷翠王はため息を吐いた。「いい。・・・・・・・入れ。」