サンセツキ <本編> 第二章 雪啼き小鳥 【ユキナキドリ】 14
静謐な空気の中に、侵略者のような降雪の音を聞く。微熱に火照った身体に張り付く薄い絹の、ただ素肌に羽織っているだけの白い布は防寒の役目を果たさない。故に氷翠王【シャナオウ】の身体を凍る夜気から守るのは広い寝台の沈んでしまいそうなほどに柔らかなクッションと身体を覆う羽毛の布団だけ。・・・・・・・・・だが。いきなり隣に入って来た熱に、羽毛の布団に包まるようにして眠っていた氷翠王は泡沫から引き起こされそうになって、おさな子のように少しだけむずがるように頬をクッションに擦り付けた。嫌だ、というように。その動作に、引っ掛けてあっただけの白い絹の浴衣がうつぶせの首と肩を滑り、素肌を露わにする。それに気づき、深夜の侵略者は細い息をつき、剥き出しになったなめらかな肌に浴衣を掛け直す。「・・・・・・・・・あ・・・・?」その微かな動作にも氷翠王は眠りの中でも気づいたのか、むずがるようにうつ伏せのまま自分の頬の下のクッションを縋るように握りしめ、いやいやと首を振る。「・・・・・嫌、・・・・・・だ・・・。」何が嫌なのか、それが眠りを妨げられることへの不満なら微笑ましい、と言えないこともないが、それにしては氷翠王の苦しげな表情がそれを裏切る。先ほどまで、冷気の乱れ零れる寝台の部屋の空気に震えていたはずの氷翠王の身体は薄っすらと汗をかいている。微熱が一気に熱を上げたかのように。いつになく無防備な氷翠王の気は、いつも本人が意識してセーブしているのに今はそれすらもなく、垂れ流しになっている。毒のような、その芯から横溢する気の輝きはまるで、ぶわっと灼熱が燃え立つように見える。いつもは静謐で穏やかな氷翠王の様子からは見て取れないほど、その気は見る者に一秒だって息をさせないほど残虐なほど燃え立つ。表情も、いつもとは違っている。厳しい表情ではなく、普通に眠っているようなのに、何故かその菩薩のように慈愛に満ちたいつもの様子ではなく、絶対零度の人のように。そう表現するのが的確なように思えた。どんなになっても、誰もが堪えられずに死んでしまっても、この人だけは絶対零度になっても生き残る、最後の人のように思えた。乱れる黒髪に、滾る金のオーラ、不屈の意志を表す唇は静かに引き結ばれている。 何をも縛ることなどない、できない人に見えた。 誇り高いこの人はそれだけで死を選ぶであろうと思えた。 血反吐を吐き、途方もない孤独にその身を震わせながらも、一人立ち続ける人であるように見えた。眠る氷翠王の姿は、まさしく勝者であるように見えた。いつもの氷翠王からは想像できない残酷ながらも美しい気。この姿が、深夜の侵略者には不穏に映った。 「氷翠【シャナ】・・・・・・・?」侵略者はそっと眠る氷翠王に声を吹きかける。甘やかな少女の声が寝台にゆっくりと妖しく、けれど美しく響いた。氷翠王に覆いかぶさるようにのぞきこむ少女の容貌は声と同じほど、妖しく、美しい。年相応とはかけ離れた老成した怖い意志を宿す瞳は、夜の暗闇のなかでも綺麗に分かるほど瞬く。10歳の少女は、・・・・・・・・・・紅丹【ボタン】はゆっくりと微笑んだ。それでも目覚めない氷翠王に、愛らしく、小首を傾げながら。少女の白銀の髪は月光を綺羅綺羅と撥ね返し、血の青い筋が透けそうなほど白い肌もそれと同じ風情を感じさせる。相反するようにそっと紅に濡れた口唇が、はんなりと美しい。思わずこちらがゾッとするような感情を宿す瞳は、目が覚めるような湖面の碧。とても十歳には見えない。その少女の貌は神の悪戯のように恐ろしいほど整い、肌や瞳、髪の色と相まって人形のような冷たさと無機質さ、小奇麗さを見る者に与える。その少女の唇が見る者に一種の怖さを感じさせるように涼やかに笑みを孕んだ。「・・・・・・ごめんね?ずっと、全部聞いてたわ。・・・・・・・どうしてあんな男にあんなことを?・・・・・まあ、どうでもいいわ。邪魔になったら、殺すから。」歳相応の愛らしい少女の声には不似合いなほど物騒な色が滲んでいる。その声には本気しか含まれていない。真性の殺気を紅丹はその瞳に浮かべる。何を確認しなくとも判る。本気だ。しかも愉しい事に、紅丹にかかればこの手のことは実現不可能なことではない。紅丹は、【守人】だ。守人は貴族の護衛と言うべき者達のことで、立ち始めた頃には剣を握らされ、暗殺業、正当な武術を全てたたき込まれる。また、その血故に神懸かった力と容姿を持つ守人は、その度が過ぎた強さと美しさのため、堕天した神の御使いと呼ぶ者すらいるが、一騎当千を地でいき、死すことを恐れず、腕が千切れ、受けた傷から内臓が飛び出ようとも何事もなかったかのように単身戦い続ける彼らはまさにそう評するにふさわしいものであっただろう。六歳から九歳ほどで戦場に出される守人達は子供であろうともその強さは比類ない。その守人である紅丹が言うのだ。洒落にもならない。それでもいったん殺気を消し、思い出したように言葉をその紅い唇に乗せる。「雪花【セッカ】と話をしたわ。・・・・・・雪花、とても驚いてた。何で氷翠が雪花の心がそんなに分かるのか。」その声にゆっくりと氷翠王が伏せていた瞳を開ける。それはかなりの突然だったが、何時から起きていたのか、それすらも知っていたように紅丹は氷翠王をのぞき込み、泣きたくなるほど柔らかい声で聞いた。赤子をあやすように。「ね?ずっと、“知ってた”から?・・・・・ずっと、自分が昔に思ってたことだから?だから、知ってた?・・・・・・・・ずっと、痛かった?」紅丹の言葉に氷翠王はよく見ていても分からないほど微かに首を横に振った。否定。紅丹が何を言っているのかは直ぐに分かったが、それ故に容易に頷くことはできない。氷翠王の十三年にもわたる人質生活の時のことを言っているのだ。雪花を襲った境遇と、氷翠王を取り巻いた環境は奇しくも似ている、と言えたものだったから。その言葉を肯定することはできない。なぜならそれは自覚を促すほどに正しい。そしてそれは簡単に自分の首を絞めることになる。そして決定的。そうした自分は求められていない。そのことを氷翠王は誰より知っていた。この思いも口に出すことは叶わない。このことを自分から認めて口に出すことはできない。許されてはいない。紅丹は氷翠王の研磨された宝石のような瞳を見つめた。何も返さぬ氷翠王の頭を小さな胸に抱き、紅丹は呟く。「ね?殺しちゃってもいい?氷翠を泣かした奴等。」「紅丹・・・・・・・・。」微かに目を見張る氷翠王の言葉を遮り、紅丹は続ける。「氷翠はいいのよ。私は氷翠の味方だから。氷翠が何をしたって全部許す。狗王【クオウ】みたいに説教なんてしてらんないわ。」未だ十歳の紅丹が朱樺【シュカ】家が続いて以来の忠臣である血筋の稀なる忠義の参謀のことを事も無げに切って捨てる。「氷翠が今、そいつらのことを許してるなら、それでいいのよ。私は何も言わないわ。氷翠がそう思ってるならそれが一番大事だから。後のことなんか、私は知らない。」何処までも優しい慈母のように紅丹が声を子守唄のように紡ぐ。けれどその言葉に宿る意志はマグマのように熱く苛烈で激しく、一片の嘘偽りもなかった。「ねぇ、氷翠・・・・・・・・辛い?」その問いに氷翠王は首を横に振る。辛い、とは思わなかった。もう過去の事だ。悪夢は追って来ても、未練も後悔も憎悪も追ってはこない。人として見られているかも怪しかった人質時代は、苦しかったが恨みは後を引かなかった。一番大事な“唯一”がこの胸を焼くから、蒐【シュウ】家の仕打ちなど何の意味も為さなかった。朱樺の地が無事ならば、どんなに苦しくても他は何もいらなかった。それを素直に言葉に乗せる。「いや・・・・・・、辛くない。」(何も。)今抱えている生まれてから十九年間の血反吐を吐く様な苦しみも努力も、怒涛の様な祈りも苦痛と悲痛の涙も、突き上げる様な渇望と硬質のダイヤモンドの様なプライドも、氷翠王の身体中を駆け巡る氷翠王自身の魂の激烈な光の渦と悪流もそれらを全て抱えいても、氷翠王は心からそう言える。この手に残っているものが、自分の誇りだ。あとはどうでもいい。この誇りだけ在れば、この身は生きている。(これだけあれば、俺は生きていける。)何も、いらない。欲しくはない。安らぎなんて、俺は欲しくない。どんなに苦しくても、どんなにか孤独でも、その寒さに凍えていようが、今、この時点で氷翠王の手を離れている朱樺の地が、氷翠王の欲しかったもの。自分の手の中になんか無くていい。他の地の干渉を受けず、美しい地をさらす“暴君”。それが氷翠王の知る朱樺の地だった。“アレ”が、あの姿が欲しかったのだ。死んだ古神の力をそこかしこに残し、謹直と閑寂な暮らしを誇る慎ましい土地。けれどその朱樺の地は、幾重もの“理想”を厚塗りし、唇の端でたがの外れた欲望と醜悪な本能の含み笑いを漏らす皓【コウ】国と言う“王者”の中にあっては“暴君”であった。否。皓国は王者ではなく、“楽園”か。どちらにしても、偽りの朽ち掛けた“神”の御意志が何にはばかることなく君臨していることは間違いなかった。“神”とは実存の三神のことではなく、その神の存在の意味を好き勝手に解釈し、膨大な“民”という名の“贄”を手に、欲望と言うカンフル剤を得て肥え太った醜悪な“貴族”【ブタ】のことである。“それ”は自らを『神に守られた国』と驕り高ぶり、謹直と閑寂な暮らしを嘲笑う。その“ブタ”の中に在りながら、朱樺は気ちがいのように色が違った。あの地に他の手垢がつくのは阻止したかった。そうして今は此処に居る。“唯一”が再びその姿を甦らせたのに一体何が辛いことがあるというのだ。しっかりと不屈の瞳を上げ、横たわっている真上から覆いかぶさる紅丹の瞳を見つめ返す。「・・・・・・・・・・・。」その頬に、氷翠王はゆっくりと手を伸ばした。そして触れる。温かな血の通うその肌に。紅丹は氷翠王のことだけを真っ直ぐに・・・・・・、真率に見る。氷翠王にだけだ。紅丹がこの瞳を見せるのは。紅丹のその瞳は、無意識ながらも氷翠王の傍らにしか現実の世界に帰る場所がないという事に、心の奥深くで大きな闇が出来ていることに紅丹はまだ、・・・・・・・・・。気づかない。その色を見て取って、氷翠王は瞳を閉じた。「もう、寝よう。」「一緒に?」すかさず聞いてくる紅丹の身体を抱くように引き寄せ。「一緒に。」その言葉に紅丹は満足げに頷き、ゆっくりと羽毛の寝台に入り抱きついてくる。しばらくするとその十の少女から安心したような寝息が聞こえてくる。それを聞き、氷翠王は閉じていた瞳を開き、紅丹を見遣る。そしてその髪を撫でてやりながらも、少女には聞こえない言葉を唇に乗せる。「・・・・・・・生きていけるのか?」-----------私なしで・・・・・・。その言葉は届く前に降雪の夜に沈んで逝った。此処は。片翼のもがれた鳥の居る所。誰もかもが何かを失い、その重みに飛べぬ者ばかりが居る所。未だ飛べぬ空を夢に見て仰ぎ見る、一時の休息の場所。(地獄ノヨウナ)けれど、まだ終わっていない。全てが。だから今は夢に見よう。閉鎖された空に鳴る、雪啼き空に、啼きながら。憐れな強い、小鳥たちよ。 雪啼き小鳥:完