サンセツキ <本編> 第四章 殉血の騎士 1
村内にある廃墟の教会に、“彼”は一人立ち竦んでいる。怒りに震えるように、嬉しそうに、悲しそうに、ありもしない過去の亡霊に怯えるように・・・・・・・・・あるいは狂おしく。“彼”の濡れた着物からのぞく手足は仄蒼く、その薄い皮膚の下からは死に急ぐ血潮の呪われた音が聞こえる。頭(こうべ)を垂れて、祈るように立ち竦んでいる。呆然と。罅割れたステンドグラスから、月光だけが降りそそいで“彼”を照らしている・・・・・。贖罪のように。“彼”はその光を受け、月を一筋に見上げた。罰のように。だが、その虚ろな瞳の色は色々なものに意志を拡散させていて、焦点をえない。「・・・・・・・・・時、を、・・・・繋ぎ・・・止めて欲しい・・・・・と、・・・・神よ・・ただ、・・・・・一つの願いすらも・・・・・貴方は、叶えてはくれないのか・・・・?」“彼”の擦り切れた恨み言に真冬の夜の瞬きは応える事はない。ただ恐ろしいほどの数の星の光が時折揺れるのみだった。裸足である“彼”の足元を切るように冷たい木枯らしがすくう。満天の星空を、“彼”はまるで奈落のようだと思った。「会った事も無い大多数の者のために命をなげだせるのか、正義と言う名の剣を振りかざし、その刃が虚構と分かっていても、それでもお前は戦えるのか・・・・・・・・・・・・貴方はそう俺に、聞いただろう。・・・・・・そうして俺はその言葉を体現するために何千億という年月を生きてきた。記憶を持ったまま転生を繰り返し・・・・・【界の歪み】を喰らい己が見の内に念の毒素を棲まわせても、今を生きている人の人生を守りたかったからだ。」挑むように天に向かって告げられる言葉は、先ほどとは打って変った凛然さで告げられる。“彼”の口から。「だがそれは、そう思わなければ生きてはいけなかったからかもしれない。突然自分の身に降ってきた災害に、そう言い聞かさなければ弱い心は立てなかったからだ。命がけの強がりだった。」そうして“彼”は断罪する。「けれど此のやわさは、俺だけの咎ではない。“俺”という存在は貴方の怠惰さと惰弱さの証しだ。猜疑深い神よ、自分しか信じられない貴方はソレが怖いのだろう。」“彼”がそう口にした途端、それに激怒するかのように強い風が“彼”の身体を嬲り、責め苛んだ。まるで意志を持つかのように。だが“彼”はそれに構わず、黒髪を風に嬲らせたまま冷然と告げた。「だから俺が死を願うように仕向けるのだろう。九鬼【クキ】に鬼龍神を入れたのも貴方か、あれの変貌に手を貸したのも貴方だろう。・・・・・・・・・・そうまでして憎いのか。・・・・・貴方はもはや神ではない。犯罪者だ。」「生者による捕食は罪ではない。だが死者による生者への捕食は禁忌だとそういったのは貴方だろう。」一段と強くなった風に“彼”は冷笑を浮かべた。「俺を力で殺すか。」傲然と天に上げられる言葉は一欠けらの容赦もありはしなかった。「生身に触れた神はもはや神ではない。・・・・・・・オマエに俺が殺せるのか?」呼びかけの言葉の変化を聞き、周囲の空気は潮が引くように代わっていく。何処までも澄んだ空気を湛えていた廃墟の教会からは、腐ったような血臭がどこからか静かに香ってくる。荒れ狂っていた風は止み、痛いほどの静寂には淀んだ腐敗の気配が漂う。床が、脈動している。心臓の鼓動のように。月光の蒼に染まっていたはずの室内は、赤黒い気が充満し臓物に近い色合いを湛えはじめている。その室内の空気の変化に“彼”はゆっくり微笑んだ。月光と血色を浴びる“彼”の瞳はいっそう妖しく深い紅い艶を帯び、そして・・・・・ゾッとするほど冷ややかだった。いつもの菩薩のような“彼”の瞳ではない。“彼”を知る人間が今の“彼”の姿を見れば、気づくであろう。“彼”の中には菩薩と悪魔が共存していることに。けれど、今は彼の周囲には誰もいない。在るのはただ、人のものではない赤黒い気を撒き散らすおぞましい“ナニカ”だ。“彼”はその“ナニカ”に声をかける。「オマエは俺に勝てはしない。」その凶暴なまでの誇り高い言葉をきっかけに、激烈な金色の気が“彼”の身体を柔く包み始める。室内に現れ始めていた“ナニカ”その光の殺戮を受けたように気配を凍らせ、血色の中をビチビチとはねる蛆虫のように闇のなかに集まり、凝(こご)った。“彼”はソレを静かに見据え、手に持っていた匕首の鞘をはずした。そしてその刃を強く握り、己の血が刃の切っ先にまで滴るのを見届け。闇にいまだ凝る気配に突き刺した。甲高い断末魔の声を聞き、その刃を返して再び突き刺しそのまま匕首をグルリ、と回して抉る。声は一層高くなり、赤黒い“ナニカ”は声にならぬ叫びを上げて陸に上げられた魚のようにのた打ち回った。それでも“彼”は匕首を突き立てたまま回して抉る事を止めない。「此の程度の男か。」匕首から手を離し、“彼”は普段と変わらぬ口調で踵を返す。「俺は死を言い訳にはしない。・・・・・そう、伝えろ。」そうして消え逝く“ナニカ”には目も向けず、初めのように“彼”はステンドグラスの下に一人立つ。赤黒い気の気配はもう既になく、元の教会独特の澄んだ空気が残った。その“彼”の背に声をかかった。「元虎【もととら】様・・・・・・・。」“彼”は、自分の名を呼ぶ殉教者の声に、・・・・・・・・振り返った・・・・・・・・・・・・・・・・・・。