虚 第二章 磔刑 1
落ち着いた淡い照明に、広い壁一面に埋め込まれている水槽の中には熱帯魚たちがきらきらと傲慢に光を纏い、優雅に泳いでいる。耳障りには決してならない程度にほど良く流れているのは生のジャズ演奏。ショットバーに近い装いの店内にはカウンターと、ボックス席が七・・・・・・。ほとんどの客は演奏を楽しみながら酒を嗜んでいる。こういう御客様はとても好きだ。心からこの店の雰囲気を楽しんでいるのが分かるから。だが、何処にでも例外はいる。と、言うより。この店は十一時まではショットバーの様相を保っているが、その時間以降はボーイズバー・・・・・・(ホストクラブとは違い、常にテーブルでの接客ではなくカウンター越しなのだが)・・・・・だからか。カウンター内で注文された酒をつくりながら、咬【ぜん】は相手に気づかれぬように微かに視線を逸らせた。そのしぐさに濡れたような柔らかそうな黒髪が耳を滑り落ちる。ソレに触発されたようにカウンター越しの相手は微かに目を伏せた咬の流れた横髪を掬い、耳に掛ける。やけにねっとりとした絡みつくようなその相手の手管は、あまり好きではない。「ねぇ・・・・・・・。」頭の足りない、甘い、甘い声音は咬を酔わせる代わりに失望させる。そのくせ、女は誘いかけながらも決定的な言葉は口にはしないのだ。だからその口調よりかははるかにこの女性は頭が良いのだろう。その証拠に、誘う口調はあくまで下手(したて)であり、主導権を男に握らせるようであるのに、この女は何時でも逃げに打てるように・・・・あるいは責任を追及されぬように、誘いの言葉は口にしていない。それでも女の口調がねばねばとしているのは目の前の極上の獲物への欲情と焦りからであると咬は理解していたが、応じる気はなかった。この店で自分が働いていて相手が御客様である限り、最上級の接客ともてなしを提供するが、その後の自分のプライベートな時間を店が規定していないアフターに使う気はない。やっと都合の合うバイトを見つけたのに、客になど手を出すつもりはなかった。それが普通の“付き合い”ではなく、あからさまに視姦をしてくる相手ならば尚更。「お待たせ致しました。」優しくなだめるように甘い声音で促し、少し距離を詰めることで逆に女の手を振り切る。「え・・・・・・・?」と、地に足の着いていない返答を唇から零す女に咬は今度は口調を変えて話しかけ、蕩けるような笑みを浮かべた。そうするとヴェネツィアン・グラスの色合いに似た瞳が深みを増す。そのまま咬はその瞳を細め、蠱惑的に笑む。「菜穂さんのためにつくったんだから、はやく飲んで?」ね?と囁くように“お願い”すると、名前を呼ばれた女は近づいた距離を恥じるかのようなしぐさをして、頬を微かに染める。だが、そのしぐさの何割かは計算だ。半ば以上その駆け引きにウンザリしていると、女はやはり増長し、ねっとりとした声でこちらを絡めとりにかかる。「ねぇ、ゼン君も一緒に飲も?」甘ったるい上目遣いに感じるのはやはり失望だった。いっそ媚を売られるより、その高慢なまでの無知さ加減と傲慢さで突っ走っていてくれたなら惚れたかもしれない。(どういう趣味だ。)手早く先ほど作ったものと同じ酒をつくりながら頭の中で自重する。こんなのはよほど歪んでいる。「ん、できたよ菜穂さん。じゃ、一緒に?」軽く女の持つグラスにグラスを合わせ、見苦しくはないように一息に飲み干す。同じ酒、といっても咬が飲んだほうはかなり水で割っていて、女が飲んだ方は口当たりは良いがかなりキツく作ってあるが。前者はこれからの仕事に差し障りが出ないように。後者はやっかいな客が絡んできた時に咬がよく使う手だ。はやく酔わせて、迎えのタクシーに放り込みたい。この女は咬が他の御客様の指名がかかると邪魔をするのだ。はっきり言って、邪魔だった。飲んだグラスを下げ、店内に視線を走らせると、マネージャーと目が合った。視線に促される。その先に目を遣ると、ボックスの方で一人グラスを傾けている上品な男性客の姿が目に入った。常連客だった。どうやら指名が入ったらしい。その視線での遣り取りに女は敏感に気づき、苛立たしげに絶妙なタイミングで男性客を斜めで見据えため息をついた。「あの人?・・・・ゼン君に格別ご執心だもんね。」侮蔑と自分が女であるという優越と敵愾心の潜んだ声に吐き気を感じたが、女に断りをいれ、男性客のところへ行こうとカウンターを出て足を踏み出したところで、唐突に後ろから腕を掴まれた。菜穂かと思い思わずうんざりするが、引く力のあまりの強さに別人だと悟る。「・・・・・・・・っ。」酔っ払った他の客かと思い直し用心し、微かに腕を引いて振り返ると、在ったのは予想もしない人物の姿だった。「あの方より先に指名したんですが。こちらを先に受けてもらえますか?」シャープでくっきりとした余計なもの全てを殺ぎ落としたかのような鋭利な声。だがその口調には穏やかさとその人物の誠実さが表れていて不思議なほど冷たくは聞こえない。容貌は端整ながらも抜き身の刃物を連想させる。物腰は洗練されていて一分の隙も見られず、ただ立っているだけで溢れるような威圧を感じさせ、黒のダブルのスーツがよく似合っていた。「は・・・・・・・有、家【ありえ】・・・・?」有家清綱【ありえ きよつな】だった。その存在感でホール中の視線を集めている男がその容姿にふさわしい笑みを浮かべ、そのまま咬の反応を無視してカウンターの方へ歩いていった。それを信じがたい思いで立ち尽くしていると、その咬の様子をいぶかしみ、マネージャーが視線で急かしてくる。まさかあの男の座ったカウンターであの男の相手をし、あの男のために酒をつくってあの男とこの場所で談笑しろと言うのだろうか。「・・・・・・・・・・・・・。」・・・・・・・冗談ではなかった。