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カテゴリ:映画・テレビ
「水戸黄門 実説」その三(最終回)
将軍継承問題の皮肉 2023/02/02開始 貞享(じょうきょう)元年(1684)の堀田正俊暗殺事件ののち、将軍・綱吉(つなよし)は、幕閣たちに不信感を抱(いだ)くようになり、老中たちを身辺から遠ざけ、代わりに柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)を初めとする側用人(そばようにん)を重用するようになった。「生類憐みの令」に代表される如く、綱吉は独裁色を強めるようになった。柳沢と言えば現代で言うイエスマンである。 将軍継承について自らが第五代将軍となるのには、刺殺された堀田正俊、さらに後押しをした光圀の働きに負うところが充分にあった。 しかしながら、さらなる将軍継承につき、次代将軍としては己れの血筋を継ぐ者をとの強い願望が綱吉にはあった。 この継承に関して、下々(しもじも)ながら私が長く印象に残す言葉がある。 我が家に祖母(明治30年、1897年生まれ)の頃から母(昭和2年、1927年生まれ)へと、語り継がれる如く、よく話の端(は)にのぼってその都度、言葉と意味を強く意識したものだ。曰く。『血は汚(きたな)い』である。 大意は「身内には甘い」を自他共に嘲笑し、あるいは反省せんがために、折りに触れて発せられたなかなか痛烈な批判的文言と察する。 ついでに連想する言葉がある。これも祖母がよく口にしたものだ。 『所詮、犬畜生だからね』。これは子供ながら私にハッと気づかせてくれた言葉であり思想でもある。 昨今定着したライフスタイルに早速異を唱えるようではあるが、祖母たちの時代、身内に不幸があれば当然ながら深く嘆き悲しんだ。 しかし、飼い犬や猫が寿命、事故などで死んでも、必要以上に悲しまない。これが常識だった。 今や、ペットロス症候群という言葉が既にあるように、犬猫の写真を額縁に入れ、遺影として飾り供え物などして、一家一同ごく普通とみなしているが、その家族に年寄りはまあいない。核家族を当然として、犬猫を家族の一員に加えてご満悦だが、現代の嫁は妻は、ペットを最重視しても、夫の母すなわち義母を同居させはしない。時々は幼い子供を老夫婦の住まいに連れて行って、身内の仲は首尾よく収まっていると言いたげだが、これはまやかしに思えて仕方がない。 さてさらに、私が文章・コラムの師として尊敬おかない、故・山本夏彦氏のコラムにも印象深く残るものがあった。 山本氏がお元気な頃、主宰していたインテリア雑誌『室内』の編集子女子社員の一人の家庭について書いたコラムなのだが無念なことに、所収した書籍を紛失したままで、タイトルがわからない。 おおよそは記憶しているので、かいつまんでみたい。 要するに「畜生には畜生の可愛がり方がある」との主旨で、女子社員さんが弱年のころ、祖母がいらっして、そのお宅では猫を飼っていたが、祖母は決して猫を抱いたり、膝に乗せたりはしなかった。そして「畜生には畜生の可愛がり方がある」が、その老婦人の口癖だったというような内容で、尋常な風潮だったと思われるいっぽう、恐らく当時も今も変わらぬある意味異常なペットブームを取り上げたものだった。 さて、私の祖母も同様で、例えば人間より寿命が短い犬猫が死んでも、気味の悪過ぎる悲しがり方はしなかった。なお、祖母が壮年のころ、家族の中に犬または猫が飼われていて、犬は業者のトラックの下敷きになって大怪我に苦しんだあげく死んだ。 のちに母から聞いたのだが、可哀そうに思った家族の誰かが頭を撫でようとしたら、既に苦痛の極にあったためか、楽になるまでの苦しみを苦しみぬいて、必死に耐えている犬にとって、頭なぞ撫でられても、むしろ苦痛が増すばかりと思ったか、いかにも煩わしそうに、撫でようとする手を払わんとしたので、息を引き取るまで、家族たちは見守るばかりだったと話した。 超大型犬とも言われるグレートデン犬ジョイと兄。もはや両名ともこの世にない。 この話をした時、母も「所詮、犬畜生だからね。家族の誰かが亡くなるのとは違って、ほどなく自然に明け暮れに任せるようになるものだよ」と言った。 その母も、私たち兄弟が昭和42年から46年まで正味四年弱の短いあいだに飼ったグレートデン犬が突然死んだ時、目に涙をいっぱい浮かべてしばし愛犬の死に、悲しみを示したが、ほどなく日常生活に追われるようになった。 閑話休題。徳川五代将軍綱吉は、己れが将軍になると早々に、後継ぎに執着するようになる。第六代さらに第七代にまで血をつなぎたいと切望の念を露わにした。 綱吉は将軍に就任早々の延宝八年(1680)、息子・徳松を次期将軍候補として江戸城に招き入れた。 これに対し光圀は苦言を呈した。「時期尚早である」と。 光圀の言に綱吉は耳を貸さなかった。綱吉の思惑は以下の如くだった。 息子・徳松を次期六代将軍にし、己れの血筋をつなぐこと。 ところが、不幸なことに、延宝十年(1682)、息子の徳松はわずか五歳で夭折(ようせつ)した。 このままでは、兄・綱重の遺児である綱豊が次期将軍の最有力候補になってしまう。 そこで綱吉は一計を案じた。徳川御三家の紀州藩の嫡子(ちゃくし)・綱教(つなのり)を我が娘・鶴姫(つるひめ)の婿に迎え、将軍後継者とすることだった。 そして、この二人に子が生まれれば、己れの孫を七代将軍にできる。 自分のあとが、二代にまで血を継ぐ将軍となる。綱吉はそれを強く望んだ。 だがそこに、又も光圀が立ちはだかる。 貞享三年(1686)元日、年賀のために江戸城へやって来た大名らを前に、その場を仕切っていた光圀は、まず綱豊を上座(かみざ)にすえた。 あっけにとられる綱吉と大名たちを尻目に、続いて光圀は綱教(つなのり)を下座(しもざ)にすえた。綱豊が綱教(つなのり)より上だと宣言したも同然、次期将軍は綱豊だと公然とアピールした。 繰り返しになるが、その後光圀は家督継承の模範を示す。 三男であったにもかかわらず、藩主となった光圀は、兄・頼重の子・綱條(つなえだ)を養子にし、家督を継がせた。綱條(つなえだ)は水戸藩第三代藩主となるのだ。 さて、紀州・綱教(つなのり)を第六代候補とたのみにしていた綱吉だが、光圀の「綱豊、上座にすえる」の行動に出鼻をくじかれ、さらに娘・鶴姫が子を残さぬうちに死亡し、将軍後継問題は決着を迎えた。 綱吉は自らの血を将軍家に残す望みを断たれ、仕方なく綱豊を養子に迎え入れた。のちの六代将軍・徳川家宣(いえのぶ)である。 初め綱吉を応援して将軍の座に就く大きな力ともなって、支えた光圀であり、綱吉も光圀に感謝していたはずだ。 その二人がのちのち対立するようになるきっかけの一つが綱吉による『徳松』後継意思と、それに反対する光圀の反意反論であった。その根本には幕府を築いた家康以来の『嫡子継承』の習慣遵守の基本思想もあったかも知れない。なお、当初は綱吉も光圀に好意的だったことの証拠として、水戸の記録に「綱吉公、御家督のみぎりは、西山(せいざん)公をことのほか、ごねんごろに御座候(そうら)いしが・・・」が残っている。 もちろん、登城し諫言(かんげん)した光圀の意を悟って、にわかに下問し『生類憐みの令』を綱吉が廃止させたという東映映画の物語は真っ赤なウソであり、彼は生涯このお触れを解いてなぞいなかった。 もっとも、綱吉のこの禁令にも評価すべきところがあるというのが不肖のこの私の考えだ。 今の世の中で「いろいろな肉のほかに、犬の肉も食べる」なぞと言うのは、それこそ動物虐待の犯罪となるのだが、綱吉はその先駆となって、戦国の蛮風を廃したとも言えよう。なお、支那(しな)つまりチャイナでは、未だに犬の肉を食べる習慣がある。ウィキペディアで「犬食文化」と検索すれば、写真入りで解説してある。 さらには支那だけでなく、東南アジア、朝鮮などにも食習慣が残っている。 まあ昔から余り肉が好きでない私に言わせると、スーパーなどでごく自然に鶏肉・豚肉・牛肉を買って調理して食べるを当然の食文化ととらえる人々のある種の無神経さに恐怖を覚えることがある。「ええーっ ! ? 牛肉おいしいじゃん。変わってるねー ! 」とあざけり顔さえ浮かべる女人の気が知れぬ。 弱年のある時期まで肉が食べられなくて、吐き気をこらえながら訓練しある程度克服出来た経験で言うと、食用ガエル、まむし、ウサギの肉をも食べられるようになった私が、解剖実習でおなじみのカエルの肉を差し出したらすこぶる気味悪がる女人が少なからずいると思うが、人間なぞその程度のものだ。ろばた焼きの店で提供するところは必ずあるとも仄聞した。牛肉が好物ならば、カエルさらにまむしの肉も想像されるが良いとしかいう。 戯れが過ぎた。 晩年、隠居した光圀は、水戸領内の西山(せいざん)荘で、ライフワークであった『大日本史』の編さんに取り組んだ。 しかし光圀の隠居は自ら望んだものではなかったとも言われている。綱吉が半ば強制的に光圀を水戸へ追いやったというのだ。 後世の評価とは往々にして皮肉であり、我々庶民の見識なぞたかがしれている低さなのも不承せざるを得ないが、「戦国の蛮風を廃して、文治政治を広める」ことに注力せんとした徳川綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」と揶揄(やゆ)され、その内面に迫るドラマにもならず、徳川光圀は「天下の副将軍」、「水戸の黄門様」として、古往今来の様々なジャンルの娯楽に描かれた。目下はテレビドラマが終了となり、現実にTBS(我が静岡県ではSBS)のゴールデン・アワーの定番としての役割がなくなって、平成・令和の新世代、殊に今の20代の人々は、ほぼ「知らない」という。 私が訪問看護を受けている組織でも、看護師さんとは別に『作業療法士』さんという国家資格を持つ人の訪問も毎週一回受けているが、或る時、新人の実習との名目で、数名の療法士さんたちの訪問を迎えた。この時たまたま話題が「水戸黄門」に及び、誰もがみな知っているとばかり思っていたのが「甘かった」と気づかされた。二十歳(はたち)そこそこの若いレディことごとく「知らない」と言ったのだった。 「ジブリ」や「鬼滅の刃」は常識と心得る世代が、水戸黄門を知らなくて当然の世が訪れた。 昭和30年代の娯楽の王者として大活躍した、かつての東映も、昭和40年代からこれことごとく任侠路線へと転じてヤクザ映画を量産し、東映のドル箱スターとして銀幕に登場し、多くの映画ファンを熱狂させた数々の時代劇スターたちも、今や鬼籍に入って久しい。 ただし、町井勲さんのようなギネス記録を数多く残し続ける現代の侍がいるのも事実である。時速数百キロのBB弾を真っ二つにし、抜刀・納刀の型もきれいにこなす人が、この日本に存在する現実もまた確かなこと。 修心流居合術兵法を主宰する居合の達人だ。 地上波しか見ない年配者が依然多いのも事実のようだが、私は4台のテレビ受像機すべてに「You Tube」設定をして、地上波は事件・事故報道以外、ほとんど見なくなって久しい。 ―了― お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.26 06:39:40
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