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テーマ:今日行ったコンサート(1138)
カテゴリ:オペラ
新国立劇場 14:00〜
3階右手 先週に続いて2回目です。 まぁ、正直言って、色々ブラッシュアップされてる気はします。言い換えると、やっぱり1週間前のはゲネプロだったんじゃないの?というような、ですね。今日初めて観た人はそれほど悪い感じはしなかったんじゃないですかね。だからいいってもんではありませんが。 ただ、本質的なところが変わるというものでもないのであって。日本人歌手による歌い手達は、やっぱりそういうものだよね、と。こんなんでいいわけないじゃん、という。外題役は幾分か良くなった感はあるし、ヴォルフラムも改善はされてますけれども、まぁ、マシになった、というくらいかなぁ..... 合唱は、幕切の合唱だけは力強さは増してますが、やっぱり、ハレルヤ!のところがダメダメ。腹から声を出せ!みたいなところではあるのですが、そもそも演出も含めて、やっぱりこれはかなり問題が多いんじゃないかなぁと。 このオペラをどうしたいか、というのが感じられないんですよね。 ちょっと一般論的な話になりますが。 読み替え演出、あれを嫌う人って少なからずいるんですけれども、私は読み替え故に良しとも悪しとも思わないのですが、じゃぁ、何がポイントか?と考えるに、なんというか、作品そのものを信じているかどうか、かな、と思い至ったのですね。これ、多分オペラに限らず、クラシック音楽全般にも、演劇でも文学でもなんでもそうじゃないかと思うのですが。 信じている、といっても、その話が事実であると信じるか、とか、そういうことではなくて、その作品を作品として受け入れるか、信頼しているか、みたいなことかなと思うのですね。その話の中で、たとえば法皇が「この杖に芽吹くことがないようにお前は救われない」と言ったら、その杖が芽吹くという奇蹟が起きた、という話を受け入れるか、そういう物語としてそこにあって、それは何某かの人の心に働き掛けるとかそういう力があると信頼するか、そんなようなこと。よくリスペクトなんて言いますが、はっきり言ってそんな薄っぺらいものではないです。まずそういう話を話として受け入れるか、ということ。決して肯定しなければいけない、というものではないんですよね。読み替えて別の話にしてもいい。結末を書き換えるのもアリかもしれない。でも、元々の話を一つの作品として受け入れて、それを前提にして作り込めるかどうか、そういったことかと。 この演出、原演出それ自体はそれほど突拍子もないものではないと思います。オーソドックスと言えるかどうかの設えではあるけれど、別に話が変わってしまうわけではないし、そういう意味で素材はいいと思うんですね。ただ、そのままゴロンと投げ出せば作品になる、というほど簡単なものでもない。上演関係者のレベルがモロに見えてしまう怖い演出という気もします。いや、そもそも舞台ってそういうものという気はするのですが。 3幕の合唱なんかはその典型例だと思うんですけれどね。例の「ハレルヤ!」は、楽譜上はffになっているけれど、それだけの問題ではないんですよね。ヴァルトブルクのあるアイゼナハのあたりからローマまで歩いて巡礼に行く、それも中世の話です。それがどれだけのもので、そこまでして贖罪を熱望し、無事赦しを得て懐かしい土地に帰ってくる。その喜び、というものを、何某か理解しての上でのその声なのか?神への感謝なのか?幕切の方をもっと盛り上げたいからここは、なんていうことなら、心得違いも甚だしい。それと、その合唱の現れ方と去り方もまた。率直に言って「歌うから舞台に出てきて皆で並んで歌って、歌が終わるので捌けます」というようにしか見えないですよ。そうじゃないんだよ。歌うかどうか以前に君達は何ヶ月もかけて今ローマから歩いて帰ってきた巡礼じゃないのか、ということ。 その辺が如何にも弱い。なんというかそういうことが腹落ちしていないから、一人一人の歌も「自分はこいういう歌を歌う役割」になってる気がします。精神論?いや、舞台芸術というのは、そういうものではないかと思いますよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年02月04日 21時59分32秒
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