カテゴリ:映画逍遥
1955年の正月封切りだった『人間魚雷回天』は、前年末までの完成を目指し、撮影編集録音とてスタッフ総勢大忙しだったことだろう。それから52年という、人の半生にも当たる年月を経た2006年の年の暮れに、ぼくは、ふとした行きがかりで松林宗惠監督について思いをめぐらせている。
きっかけはラジオのインタビュー番組。 問われるままに松林さんは、ややしゃがれてはいるが張りのある声と表情ゆたかな語り口で、いわゆる自分史を語っていた。仕事の途中ひと休みのつもりで横になっていたぼくは、番組が始まる10分ほど前に目覚め、そろそろ起きなければと思いながらも、松林さんの誠実味のある話に引き込まれた。 上京し、大学に入り、児童文学を志したそうである。 大学そのものについてはすでに京都・龍谷大学で仏教を学び卒業している。東京にきたのは早稲田に再入学し文学をやろうと思ったからだと思うが、ラジオに耳を傾けて得ただけの知識なのだ、はっきり覚えていない。ただ壺井繁治の講義を聴きたくて日大芸術学部文芸学科へ入ったことははっきり覚えている。話し方がとても明晰だったからだが、まぁ総じてそういうものだろう。中身に自信のある話をするときの滑舌にしろ頭の中のはたらき具合にしろだれでも明晰になる。 “わたしは壺井繁治の作品に共感していたので……”といったかどうかはともかく、ぼくは松林宗惠という人は安易に“~を好きだから”とはいわない人なのだ、いいなと思った。 そのころ壺井繁治は日大芸術学部で教えていたようで、要するに松林さんは壺井繁治の講義を聴きたくて日大芸術学部を受験し合格したのだった。その後、たしか在学中に、何やら住まいの場所と関わる話があった気がするが、ひょんなことから東宝撮影所の助監督部に入ってしまうのだ。 ああ、知ってる。 ぼくも学生時代、小田急の成城学園前駅で降りてはバスに乗り、あるいは歩き、東宝撮影所へ出かけていったものだった。卒業までは1年半ほどあったころだった。映画の道に進みたいと考え、父の友人である谷口千吉監督をお訪ねしたのだ。 撮影所を初めて訪ねた日、門を入った目の前の建物の壁に海の光景が描かれ、手前がプールになっているのを眺め、なるほど戦争映画やゴジラの海上シーンはこういうところで作られるのかと思ったものだ。 谷口さんは食堂へ招いてくださり、いまも忘れないが「これから映画界に入る若い人は得意な分野をもつといい、どんなことでもいいから、この話はあいつに聞けといわれるようなものをもって撮影所に入ることを薦める」と話してくれた。 食堂の、ちょうど真ん中当たりのテーブルだ。ずいぶん長くお邪魔したが、谷口さんは愉しげに次から次へと映画の話をしてくれた。その後、ご自宅へ伺うようになってからも開けっぴろげな様子は変わることなく、本当にたくさんの話を聞いた。谷口さんの助監督仲間に黒澤明監督(当時)がいて、谷口さんがチーフ、黒澤さんがセカンドという関係だったそうだ。 たとえばロケ先の宿で、酔っぱらって寝てしまった谷口さんが夜中の3時ごろ眼を覚ますと、同室の黒澤さんが隅の小机に向かっている。「毎晩、ああやってシナリオを書いていたんだよ。ぼくにはできなかった、優秀なやつなんだ」と心から感心したようすで話してくれた。 「先輩の無駄話がだいじだよ、旅先で麻雀をするような席でも無駄話を聞くといい」と口癖のように仰有り、結局これはぼくの生涯を通して活きる警句となった。 谷口さんは、撮影所にはいつでも遊びにいらっしゃいともいってくれたので、ぼくは何度も何度も成城学園前の駅で小田急線を降り、東宝撮影所へ向かったものだ。そのうち何回かは、帰宅する谷口さんのハイヤーに同乗させていただき、そのままご自宅へお邪魔するのだった。小生意気なぼくは、直前までいたステージ内でのあれこれについて質問したが、谷口さんはいつも真剣に答えてくれるのであった。小生意気な若造にも真剣にと、ぼくはそのとき心に決めたけれど、それから40数年、さぁてどこまで実行できているものやら。 東宝撮影所の門を入った正面の建物の2階に助監督部の、とここで松林さんはことばを切り、東宝では助監督部といわず演出助手部の部屋といっていたといい直した。ぼくが何度かお訪ねした“谷口組”の部屋は1階にあったから松林さんのいう演出助手部の部室はその上だったのだろう。 予想とは異なり試験に合格してしまった(といういい方だった)松林さんはいよいよ出社の日を迎え、タイムカードの前に立つ。目の先には演出助手部員全員の名札。当時の東宝には46人の演出助手がいたそうで松林さんは「47番目の演出助手部員」となったわけである。 聞いていて驚いたが、松林さんは自分以外の46人全員の名前を暗記していた。いきなり1番がだれだれ2番がだれだれと挙げて行くのである。ゴジラを作った本多猪四郎監督の名が2番目か3番目にあった。そして、4番目の名札には「谷口千吉」とあったという。インタビュウアーも思わず声を上げる瞬間だった。次が「黒澤明」で、さらに豊田四郎あり佐伯清あり市川昆あり、学生時代に映画をよく観ていた松林さんは“たいへんな処へ入ってしまった”と実感したそうだ。 入社した年の11月だという。 松林さんは演出助手部の部屋におり、片隅で小さくなっていたそうだ。 室内にはもう2人いたという。2人とも背の高い先輩たちだった。1人は窓辺に立ち、1人はソファに横になって台本を読んでいる。外には桜が咲いている。外が明るく、室内は薄暗い。 松林さんは雑然として薄暗い部屋のようすをぼんやりと見ていたのであろう。 窓辺に立つ背の高い男がこうつぶやいたそうだ。「撮影所の桜はバカだなぁ、いまごろ咲きやがって……」。 するとソファの男が「そりゃそうだ、夏に褞袍(どてら)を着、冬に浴衣を着るような仕事をしているのだもの、桜だった調子がおかしくなるさ」といったという。 窓辺の男が谷口千吉で、ソファの男が黒澤明だったそうだ。 松林さんはこのシーンを忘れられないという。 撮影所というところはすごいところだと、つくづくそう思ったそうだ。 1954年、松林さんは映画『人間魚雷回天』を撮る。その企画段階で胸にあった思いについての話も興味深かった。 念頭にあったのは、ルイス・マイルストン監督の名作『西部戦線異状なし』(1930)だったという。戦争映画を作るならああいう映画を作りたいと思った。 この間も書いたが、ぼくは『西部戦線異状なし』は観ているが『人間魚雷回天』を観ていない。 松林宗惠監督作品そのものをあまり観ていないのだ。 社長シリーズは何本か観ているが、50年代のものとなると思い出せるのは『潜水艦イ-57降伏せず』(1959)ぐらいか。 いま思うと無念でならないが、DVDになっているものだけでも機会を見つけて観ていこう。 2006年12月27日早朝、ラジオで松林宗惠さんの話を聞くことができたのは本当にうれしいことだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.12.30 22:56:04
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