山形屋は、鹿児島県内で最も歴史の古いデパートですが、1914年に鹿児島市の中心街に路面電車の路線が敷設されたときに尽力しており、またそのことによって山形屋自身を大いに発展させています。
鹿児島市の路面電車は、鹿児島電気軌道が武之橋から谷山間を走らせたのがその始まりでした。鹿児島電気軌道は、その後も市の中心部へ次第に路線を伸ばしていき、市街地を走り抜けて鹿児島駅に達する路線案として、当初は高見馬場、いづろから広馬場を経由することが計画されました。
当時の市の中心地は、いづろから広馬場(現在の鹿児島銀行本店の裏通り)で、そこに多数の老舗が軒を連ねていました。しかし、実際には目抜き通りの広場場を路面電車が走ることはありませんでした。広馬場周辺の商店主らが商売の邪魔になるとその計画に猛反対したからです。そのために市の中心地に路面電車を通すための計画案は頓挫しそうになります。
そのときに、当時の山形屋の当主だった岩元信兵衛がこれこそ千載一遇のチャンスと考えて新たな私案を出します。そのことについて、今尾恵介『路面電車』(ちくま新書、2001年3月)によりますと、
「山形屋(現在同名のデパート)の岩元信兵衛が私案として、木屋町通の中間の小路に電車を通すことを提案、これが通れば道路敷地のために土地を寄付するとし、ようやく解決したという」と述べています。また、この新しい電車通りがもたらした結果について同書はつぎのように解説しています。
市の中心部を貫く路線の完成で、一九一四年(大正三)には現在の1系統である谷山~郡元~武之橋~高見馬場~鹿児島駅前の幹線が完成した。これで中心部の新しい電車通りは表通りの繁華街となり、反対運動のあった昔のメインストリート・広馬場通りは「裏通り」になっていく。この種のエピソードは、京都の三条通りから四条通りへの繁華街の移転など、路面電車草創期によくあったようだ。 |