|
カテゴリ:田中一村
みなさん、こんばんは、やまももです。
私は画家の田中一村の絵が大好きで、拙HPにも「田中一村の遊印」という拙文を載せています。そんな田中一村の画家としての苦闘を描いた映画「アダン」が鹿児島でも上映されましたので観に行って来ました。 この映画は、松山善三が脚本を書き、五十嵐匠が監督し、榎本孝明が田中一村を演じています。それで、観終わっての感想は、絵を描くことに精魂を傾ける田中一村の芸術家としての真摯な姿が榎本孝明の迫真の演技を通して描かれているとても真面目な映画だと評価したいのですが、なんだか余りにも生真面目過ぎるため、映画として面白みに欠ける作品だなという感想も持ちました。 映画の前半に、軍鶏を描くのに自ら軍鶏の動作を真似て首を振り足をバタバタさせる一村が描かれていましたが、このような絵に没入する画家のひたむきな姿は、私の心を打つとともに、またその滑稽な姿に思わず笑みも浮かんできました。こういう田中一村の常人離れした側面を思いっきり客観的に描いたらよかったのではないでしょうか。私が思いますに、田中一村という人物はかなり浮世離れした考え方をしていた人で、その言動も第三者から見たら相当の奇人変人的なものだったと思われます。そういう田中一村の人物像とその絵画の本質を第三者にユーモラスに語らせるとともに、そこから浮かび上がってくる芸術家としての無垢の魂に観客が自然と心打たれ共鳴するような描き方が出来なかったのだろうか……などと観終わった後に心の中でそんな勝手な注文をつい付けたりしてしまいました。 それから、何より残念なのは田中一村が実際に描いた絵画が画面にほとんど出てこないことです。これはおそらく一村の絵の著作権を継承する一村の遺族の方と映画製作上でこじれたことからこうなってしまったのだと思われますが、ことの経緯はどうであれ、画家を主人公にした映画でその絵が正面に据えられて語られないのは致命的ですね。田中一村が従来の自分の技法では描き出せない奄美の亜熱帯の自然にどう対峙し感応したのか、その自然の生命を画家として画布にどう汲み上げ再現していったのか、その芸術家としての苦闘の過程を一村の実際の絵を通して映画にしっかりと描き出してもらいたかったですね。 なお、一村が奄美の自然を画家として自分のものにし絵の中に表現していく過程について、映画では少女アダンと一村との嘘っぽい交流を通じて象徴的に描こうとしたようですが、このよな手法はスクリーンのなかでただ空回りしているだけで、私には少女アダンのエピソード部分はただ退屈なだけでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[田中一村] カテゴリの最新記事
|