|
カテゴリ:鹿児島
![]() 芳即正の『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)に拠りますと、島津久光は重富島津家の当主でしたが、薩摩藩主斉彬の死後に久光の子どもの忠義が藩主に就任したことから彼自身の運命も大きく変わります。藩主忠義の藩政補佐役をしていた島津斉興が安政6年9月12日(1859年10月7日)に死去した後、文久元年2月18日(1861年3月28日)に江戸幕府より久光を藩主参勤留守中の補佐役とする通達が出され、久光はこのときに名実ともに薩摩藩の実権を握り、藩主の忠義からも「国父」と称されることになります。島津久光は文久2年2月24日(1862年3月24日)に重富邸から鶴丸城二の丸邸に移り、明治維新後も二の丸に住んでいましたが、1877年の西南戦争のとき、二の丸が政府軍よって焼かれたために桜島に避難し、西南戦争終了には指宿に移り住んでいました。玉里別邸も同じく西南戦争のときに焼失しましたが、西南戦争終了後、久光の住居として再建され、明治11年(1878年)11月17日に同邸に入り、明治20年(1887年)に死去するまでこの玉里邸を住居としていました。 玉里庭園は1951年に鹿児島市が取得し、1959年には開校した鹿児島女子高の敷地となり、同校の生徒や職員の努力により良好な状態が維持されて来ました。 この旧島津氏玉里邸庭園が2011年4月12日から一般公開されることになりましたので、昨日(4月15日)に妻と一緒に見学に出かけました。同庭園の黒門入口には「国指定名勝 旧島津氏玉里邸庭園」と題したパンフレットが置かれており、つぎのような紹介文が載っていました。 「旧島津氏玉里邸庭園は,『上御庭(うえおにわ)』と『下御庭(したおにわ)』という二つの庭園からなり、江戸時代末期の庭園の様子がうかがえます。また、庭園内のさまざまなところに、南九州独特の趣向をこらしたり、材料を用いるなどの特徴もみられます。 このように,景観にすぐれ、歴史的にも貴重なものであることから、平成19年7月26日に、国の名勝に指定されました。」 ビデオで同庭園の様子を撮影し、YouTubeにアップしましたのでご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/atuhime.htm#tamazato お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年04月16日 19時00分26秒
コメント(0) | コメントを書く
[鹿児島] カテゴリの最新記事
|