|
テーマ:歴史なんでも(784)
カテゴリ:歴史散歩
当時のテニス・ノートが手元にありますから、1980年三月以降のテニス部の活動記録を順に追ってゆきましょう。
レポート提出期限などすべての期末試験が終わったのは、3月15日のようです。 16日は休みで、17日は卒業式があったと記されています。 おそらく試験期間中は自主練習で、その期間中でも試験が終わった部員から徐々に本練習に入ったと記憶しています。 すでに二月には、リーグ戦の抽選があり、私は二年生主務のK君と一緒に渋谷の岸記念体育館の抽選会兼試合日程調整会に出席しました。 その結果、我々のリーグ戦ブロックは、シード校が山梨大学で、ほかに防衛医科大学、足利工業大学、高千穂商科大学、芝浦工業大学、日本工業大学とわが校の7校によるリーグ戦となりました。 日程調整は難しく、期末試験で2週間試合を組めないICUは、いつものように強行日程となります。 それでも相手校は事情をある程度考慮してくれて、ホームで4試合、アウェイで2試合と、ホームで2試合多い、日程を組ませてもらいました。 その結果、決まったのは次の通りです。 3月18日 対高千穂商科大学(at ICU) 3月19日 防衛医科大学(at ICU) 3月21日 山梨大学(at 山梨大学) 3月23日 日本工業大学(at ICU) 3月24日 足利工業大学(at ICU) 3月26日 芝浦工業大学(at 芝浦工業大学) 9日間で6試合という超ハードスケジュールです。 関東大学リーグですから、参加校も関東地方の広範囲に及び、山梨県甲府市に遠征しなければならなくなりました。 他校は、大体一週間に二試合くらいしか組まないのですが、勉学を徹底的に優先させるICUでは、1週間で5試合と倍以上の過密さで試合をこなさなければならないわけです。 さて、3月18日、いよいよリーグ戦が始まりました。 オーダーは、練習試合と違って、「関東学生」「インカレ」などの資格(本戦出場者)を持っていない限り、必ずしも実力通りの順番にする必要がないことは既にお話ししたとおりです。 本当の実力順だと、私がNO1で、NO2が同期のN君、NO3が同じく同期で副将のM君、NO4が同期のS君、そしてNO5が一年下(二年生)のA君、NO6も二年生のM君ですが、リーグ戦の順番はガラッと変えて、NO1は二年生のA君(実力はNO5)、NO2は同期のN君(実力と同じ)、NO3 同期のM君(実力と同じ)、 NO4が私(実力はNO1)で、NO5に二年生のM君(実力はNO6)、NO6に同期のS君(実力はNO4)が入ることになりました。 つまり私がNO4に紛れて暴れまわるオーダーになっているわけです。 各校とも戦術は大体同じで、NO2、3、4、5辺りに実力NO1~3を持ってきます。 第一戦は高千穂商科大学(現高千穂大学)でした。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.09.13 11:23:41
コメント(0) | コメントを書く
[歴史散歩] カテゴリの最新記事
|
|