カテゴリ:芯聞であります。
脳死がヒトの死であるかないか。 それは知らない。 ただ社会的死ではあろう。投資をそれ以上して自立意思で動くことがなさそうということで。 だから、ここを分岐に社会的生と死をデジタルで瞬間に分けて論じるもよし。 だが実際は、経過時間が存在する。
対象が死につつあるという経過時間。観察結果は、死んだ後なら、 ちょっと前に死んだと死亡時刻を推察することもできる。考古学。
だが、対象の死を待ちつつ計測機器によって死亡判定するのは、 現代の量子力学的世界だな。 ま、どうでもいいが。
ところで、ローマ兵なら、自分があと数分で死につつあることを知ったなら、 スパルタの兵でもいいや。戦友が生き残るなら、己を活き造り処理されるのを認めるだろうな。 ついでに、キリスト教では、映画なんかで観るけど、死ぬ前の懺悔の時間処理。 死につつあるものに、臓器移植ようの施術を施すに相当する。
一体感への贈与と、過程の受け入れ。
それらを考えず、助かるヒトがいるんです。そこだけ注目。 青年将校の暴走。ま、それもいいや。
ところで、海外への移植ツアーがなくなるのは、(俺には)いいことに思える。 実際になくなるかどうかではなく、活き造りの国内生産と消費の建前。 恨みの買い方が外からのはどうも好みでない。
さて、尊厳死ともこれで関わってくる。 尊厳死どうのこうのはどうでもいいが、医療費。 だれが生命維持装置運転費用を払うのか。金の問題。 そして、その生命維持装置を外す判断や、 生命維持装置をつけるかどうかの判断。
いままで命は地球より思いだなんてアホな話してたんだからおもろい。
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最終更新日
2009.06.18 22:14:40
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