「外国漫画に描かれた日本」という本を図書館で借りたのは、ワーグマンやビゴーの漫画に興味を持っていたからです。
だけど、読んでいくと・・・日中戦争、太平洋戦争あたりの漫画に迫力があるわけです。とにかく、ジャーナリストの手による風刺漫画であるだけに、戦争の本質が見られるというものでしょう。
【外国漫画に描かれた日本】
清水勲, 湯本豪一著、丸善出版 、1994年刊
<「BOOK」データベース>より
ペリー来航から今日までの140年間、日本および日本人の行動は世界の漫画ジャーナリズムに多くのテーマを提供してきた。そこに描かれた傑作の数々を通して、改めて日本の姿をみたとき、もう一つの近代史が浮かび上がってくる。それは国際社会に生きる現代の日本人にとって、世界を理解するために、そして日本という国を理解するために知っておくべき知識であろう。
<大使寸評>
ワーグマンのポンチ絵から、1994年の漫画まで、外国人による政治風刺漫画が網羅されています。
明治維新、日清戦争、日中戦争、太平洋戦争、敗戦、朝鮮戦争、日米経済摩擦など、主に戦争がテーマの作品とその解説が見られるが・・・風刺漫画であるだけに、戦争の本質が見られるというものでしょう。
これらの作家の描く日本人はいずれも辛辣である。彼らはアーティストというより、ジャーナリストなので、当然といえば、当然なんでしょう。
大使一押しのビゴーにしても辛辣であるが、一転して鄙の女を描く優しさもあるのです。だけど、風刺画とならないそんな絵は、この本では見られません。
rakuten外国漫画に描かれた日本
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この本から太平洋戦争開戦時の漫画を紹介します。
<ヒットラーにあやつられる日本>よりp158,159
ベルリンで昭和15年9月27日、日独伊三国同盟の調印が行われた。すでにヨーロッパでは戦火がひろがり、ドイツ軍はロンドンへの爆撃を続行していた。
三国同盟が調印された翌月には近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足し、国民生活は完全に戦時体制へと入っていった。
昭和16年になると、戦時色はさらに強まり、世界大戦の危機が深刻にとりざたされた。1月にはワシントンで米英参謀本部の秘密会議が持たれ、戦争準備がすすめられた。6月、ドイツ軍がソ連軍を急襲し、独ソ戦の火ぶたがきられた。
このような中で、日米間で戦争を回避するための最後の交渉が持たれていた。しかし、すでに戦火をひろげていたドイツには日本の参戦が是非とも必用であった。
図はこのような日独関係を風刺したもので、「お前はわれわれ枢軸側の一員だろう、さあ、お前の手で火種をつかみ取ってごらん」と暖炉に日本猫の手をつっこませようとしているのはヒットラー猫。
10月、東條内閣が成立し、日米交渉もついに結実せず、12月8日に真珠湾攻撃へと至る。
東條英機がいなくても太平洋戦争は起こりえたが、ヒットラーがいなかったら太平洋戦争は起こらなかっただろう、と言われる。
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<緒戦の勝利が何だったのか、いまにわかるぞ>よりp170,171
真珠湾を日本軍が奇襲してアメリカ海軍主力艦隊に大きな損害を与えた。日本国内では真珠湾攻撃の成功に酔い、アメリカ恐るに足らずとの空気につつまれていた。しかし、日本の戦争指導者たちは、アメリカ本土に侵攻し、ワシントンを占領するなどは考えも及ばず、戦局の有利な時点で第三国の仲介により戦争を終結する程度の見通しであった。
アメリカの国力を考えると、そんな日本の甘い判断はとんでもない間違いであった。
図は真珠湾攻撃直後に描かれた漫画で、日本のおろかな無鉄砲さを風刺している。大きな洞窟の中から少しだけ出ている尻尾をわしづかみにして引っ張っている日本人には、洞窟の中にどんなものがひそんでいるのか見えていない。「ついに敵をつかんだ」とほくそえんでいるのである。
キャプションに曰く、「何をつかんでいるのか、いまにわかるぞ」
すなわち、「緒戦の勝利が何だったのか、いまにわかるぞ」と言っているのである。
こうした論理的な説得力を持つアメリカ漫画に対して、日本の漫画は反米感情むき出しなものが多く、人々に戦争の正当性を説くものは少なかった。こうした迫力のある漫画を見ると、漫画でも日本は負けていたと、つくづく感じる。
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ビゴーはジャーナリストとして風刺漫画を描いたが、「日本素描集」を描いたように画家でもあったのです。
この本の趣旨とは異なるのだが、ビゴー作品の魅力を黒田清輝自筆文献より紹介します。
ビゴーは仏蘭西人でポンチ絵を以て有名であつた。ポンチの雑誌を発行して居たこともある、竹内久一氏が其雑誌を持つて居たと聞いて居る。よく其頃渡米した外国人をポンチに描いたので、喜ぶものもあつたが、中には不興に感じたものもあつたさうである。日本人の骨格などは巧みに其特徴を描くので面白かつた。私は仏蘭西に行く前、十八か九の時分からビゴーを知つて居た、其頃松波正信と云ふ人が仏蘭西語の塾を牛込に開いて居て仏蘭西人が教授に来ると云ふので、私は其塾へ行つた、其前私は寺尾壽博士に仏蘭西語を習つて居たのであつた、松波の塾に私は行つたけれども此塾は不思議な塾で、生徒が僅二、三人だけで、松波と云ふ人の態度は授業といふより、生徒と共に研究すると云ふ風で、話沢山であつた。ビゴーも来たが別に何を教授すると云ふ程のことはなかつた。其頃ビゴーは二十二、三位の青年であつた。いつの事か知らぬが、司法省の法律学校の語学の教師にもなつたことがあるが間もなく止めたと云ふことである、元来画家であるから、語学教師としては適任でなかつたらしい。私は偶然巴里で、ビゴーの友人で、日本に来るまでのことを知つて居る人に会つた、其人は石版屋の画工であつた。その話に依ると、ビゴーは頗る有望な青年画家であつたが、日本が大変好きになつて、それで殆んど何の目的か知らんが、二十歳前後に飄然出懸けて行つたと云ふことであつた。
私は仏蘭西から帰つた後、ビゴーと交際した、其交際の初は明治二十七年の十月頃日清戦争の時、広島で会つた、私の宿の隣に居た、英吉利の「グラフイツク」の依頼を受けて従軍記者として画を描きに来て居たので、朝鮮などに旅行して帰つて来て広島に居たのであつた。私はそれから別れて従軍した。それから一二年後、汽車の中で偶然逢つたことがある。伊豆の三津に行くところだと云つて居た。広島で同棲して居た日本の女を女房にして居た。其後たしか明治三十二年頃稲毛の海気館の裏に画室の付いた家を建てゝ居た頃に逢つたことがある、五歳位の子供が居た、女房は離縁したと云つて居た。間もなく仏蘭西人で知名の画家ヂユムーランが、其汽船会社の依頼で、世界一週のパノラマを画く為に来遊した。其画家と懇意になつて、其材料を大分描いたらしい、そのパノラマは、三十三年の巴里の大博覧会で見たが、五月の幟の立つた絵などが日本の部に出た居た。其画家と契約が出来たものか、ビゴーは日本を去つて、巴里の或印刷会社の画工とか工場監督とかになつたと云ふことを聞いた。
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そのほかに、ビゴー作品のネット資料です。
ビゴー銅版画集「日本素描集」より
稲毛の女漁師と子ども
ビゴー作品の魅力
仏人の描いた明治