カテゴリ:幸せ哲学
寅さんの中の、思考実験的な試行錯誤です。
現代の社会では、「私」という存在が基本になっています。 私を大切にする。私の価値を最大限にする。 強い私をつくる。 自己を肯定する。 これが教育の基本にもなっています。
全く大切なことで、異議をはさむつもりはありません。 しかし、世の中がこぞって、強くあれ! 存在意義あるものであれ! 勝ち組になれ! って、意識している風潮の中では、 かえって、その逆張りの方が、意味深いような気がします。
もちろん、「強さ」って何を言うのかが問題です。
寅さんは、ある人たちを見て、思うのです。 自分が弱いと思ったり、何もできないって思うことも 素敵な美徳って言うか、魅力のような気がします。
強さも持っているのですが。 それを意識することが、一番大切なことなんだろうか? 「自分」を意識するから、人と比べてしまうんじゃないだろうか?
最初から、最後まで、周りのヒトに意識をもっていったらどうだろうか? それを感謝し尽くす。
傲慢さがアタマをもたげてきて、 私がしてあげているんだ、ってなってきます。
でも、何かをしてあげてるってのも、幻想なんですよね。 実際は、させていただいているのです。
それが自然に何かのアクションにつながるのなら、それでいいし、 「愛する」という思いだけでも、十分のような気がします。 人を愛せないかというと、そうじゃない。 自分が何でもないと思うから、愛する意識が生まれるんじゃないかと。 少なくとも、真実の愛は、そんなもんじゃないと思うんです。
聖書に「自分の命を差し出す」ことが愛のように書いてあるところがありますが それも、まだ、「自分」があります。 本当に愛すると、「自分」は無くなってしまって、 相手だけが存在する世界になるんじゃないでしょうか? 対象が人間に限らずですよ。
そして、人間の幸せって、自分が大きくなることよりも 愛する対象で意識がいっぱいになって、 自分が無になるところにあるんじゃないでしょうか?
科学的に言っても、そもそも、「私」っていう存在は、 様々なモノやコトとの関係性において認識されるものです。 いわば、情報の交差点に過ぎない。
我を忘れさせる教育が必要な気がします。
以上、試論でした。 この論の欠点はいっぱいあります。 相対的なバランスの問題として、とらえてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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