カテゴリ:幸せ哲学
一つのことを言うと、どうしても、次の事をしゃべりたくなる。 これは、しゃべったことが、恥ずかしいから それを消したい思いが働くのからです。 だって、それこそ、私の人生の軌跡なんて、 どのようにも解釈できます。 素晴らしいとも、支離滅裂にも、人間のクズとも解釈できます。 そして、どれも間違いではない。
私は、神様は信じてます。 ただ、教団というシステムを信じてないだけです。
神様なら、どんなことを求められるだろう、と考えます。
私は、心のリトマス試験紙として、 どんな団体であれ、 病人や子供また弱い立場にある人を救うために活動を行っているか、 をチェックします。 「救う」と言いながら、教団に引っ張り込むだけで終わっている場合、 本当に生活のことを配慮していない場合、 それは、いかがわしいと見ます。 カルトの本質は、生活感を喪失させてしまうことです。
自分達の組織を大きくすることを是としたお金集め、 勧誘、それでいて周囲に何かを押し付けるならば、 それはただの組織拡大主義です。 宗教でも思想でもなく、 株式会社やNPOと何ら変わりません。
自分達の考えや思想を貫くことこそが目的で、 その目的の過程には何を犠牲にしても構わない、 といった傲慢さを滲ませるならばカルトと言えます。
教えを広めるために、なりふり構わない、というのも一つの生き方でしょう。 その全てを否定するつもりはありません。 ただしそれは、愛だの社会正義、社会平和だなどとは違うものだと 認識すべきです。 私は自分の考えを他人に押し付けることは、愛ではないと思います。 ごう慢で自己中心的な思い込みが存在するだけでしょう。
多くの人を悲しませたり お年寄りや子供達、障害者や社会的な弱者を食い物にする団体、 ごまんとあります。 人が傷つくことを厭わない教義や思想など「糞喰らえ!」です。
どんな立派な建物だろうと どんな大きな組織に成長しようと、 神様には何の意味も持ちません。 神だろうと悪魔だろうと住むのは建物の中ではなく「人の心の中」です。 人間の言うどんな素晴らしい教義も 表面だけを取り繕ったものです。 人間の本質、神と言う存在はそんなものではない。 それらは本当の意味での「救い」「神」や「愛」とは対極にあるものでしょう。
本当に神に仕えているならば、 貧しい人、特に路上生活者を放っておくことはできないはずです。 ホームレスの人々こそ、修行の実践者として、讃えるべきでしょう。 自分は高級車を乗り回し、立派な服を着て 信者にかしづかれて、立派なことを言っている状態 人々から讃えられたら、その時点でおかしいのです。
私は、金儲けや組織拡大が悪いと言っているのではありません。 正々堂々とやればいいのであって、 神様の名を使って、儲けたり、名誉を得たり、組織を作ることこそ、 最高の「罰当たり」だと思うのです。
<注意>、これは、寅さんのフィルターに過ぎませんよ。 私も明かに、偏ったフィルターをもってます。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[幸せ哲学] カテゴリの最新記事
|
|