「お待たせいたしました。」
襖を開けた千尋が理哉達に頭を下げると、しゃなりしゃなりと部屋の中へと入った。
「まぁ、金髪の芸者さんなんて初めて見ましたわ。」
理哉の隣で座っていた美琶子はそう言って歓声を上げたが、理哉はじっと千尋を見ていた。
(千尋ちゃん・・)
突然姿をくらました千尋が、長崎で芸者として自分の前に居ることが、彼には信じられなかった。
「あなたが、琵琶の上手い方ね。一曲弾いてくださいます?」
「ええ。」
千尋はさっと琵琶の撥を握ると、弦を爪弾き始めた。
三味線の小気味良い音色や、筝の優美な音色とは違い、琵琶のそれは力強く、また哀愁漂うものであった。
その音色に乗せて歌う千尋の声も美しく、思わず理哉は聞き惚れてしまった。
「良かったわ。あなたはこちらの半玉さんなの?」
「いいえ。わたくしは・・」
「その子はうちの跡取り娘です。」
女将が部屋に入って来て、誇らしげに理哉達に向かって千尋を紹介した。
「そう。春鶴楼の将来は安泰ね。ねぇ、理哉様?」
「う、うん・・」
宴はあっという間に終わり、理哉は千尋の後を追った。
「千尋ちゃん、待って。」
「理哉様・・」
「どうしてこんな所にいるの? ロシアに居るんじゃないの?」
「わたくしは、あそこから逃げ出しました。」
「逃げ出した? 一体どうして・・」
理哉が千尋を問い詰めようとした時、誰かが千尋達の方へと向かってくる気配がした。
「明日、会える?」
「はい、何とか・・」
「じゃぁ丸山近くのカフェ―で。」
「解りました。」
千尋はそう言って理哉に頭を下げると、部屋の中に入っていった。
(理哉様、このような所でお会いするだなんて・・)
突然の理哉の再会に、千尋の胸は躍った。
まさか長崎で理哉に再会するとは思わなかった。
(旦那様は、お元気だろうか?)
あの悲しい別れから半年が過ぎ、もう二度と土方や理哉に会えないと思っていたが、長崎で理哉に再会するとは。
千尋が物思いに耽っていると、急に足元に柔らかな感触がして彼女がそこを見ると、一匹の黒猫が千尋にすり寄っていた。
「餌をあげるのを忘れてた。待っていてね。」
千尋がそう言って黒猫の頭を撫でると、部屋から出て行った。
その後、すうっと襖が開き、誰かが部屋に入って来た。
「お待たせ。ちゃんと食べてね。」
部屋に戻った千尋が黒猫に餌をやろうと腰をかがめた時、少し違和感がして辺りを見渡した。
「あ・・」
いつも壁に掛けている琵琶の弦が、何者かに乱暴に切られていた。
(酷い、一体誰が・・)
夜も更け、春鶴楼の主・栄祐はある一軒の飲み屋へと入っていった。
「いらっしゃい。」
「今日千尋の琵琶の弦が、何者かに切られたようたい。お前やないかね?」
「まさか、うちがそんな事する訳なかろうが。」
女はそう言ってキッと栄祐を睨んだ。
「お前を疑っとる訳はなか。」
「それよりもあの女、まだ始末できんと? こげな飲み屋で朽ち果てるのは真っ平御免たい。」
「まぁそう言うな。」
栄祐は女に笑うと、彼女を抱き締めた。
春鶴楼を巡る策謀が、密かに動き始めていた。
素材提供:涼夜様
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