椰娜達が料亭へと向かっている頃、その一室では椰娜を助けた英国貴族・エドワードとその友人であるウィリアムは、静かに酒を酌み交わしていた。
「エド、あの子・・ユナとか言ったか? その子を殴った相手が今夜ここに来るらしい。」
「そうか。」
エドワードはそう言うと、ワインを一口飲んだ。
彼の脳裡に、椰娜を殴った男の名が浮かんだ。
華族で資産家としての顔を持っているその男は、傲慢で常に自分より下位の者を見下しているという。
もしその男の宴席に椰娜達が呼ばれているのだとしたら、彼女達は酷い目に遭う事は明白だ。
「何とかしてあいつを懲らしめられないか?」
「難しいな。明らかに昼間の一件はあいつに非があるし、目撃者も居るが、相手は日本人の華族。彼らがどう騒ぎ立てたところで警察は相手にしてくれないだろうよ。」
ウィリアムは溜息を吐きながら、料理を口に運んだ。
「それでもわたしは、彼女を救いたい。」
エドワードは少し扉を開き、空を仰いでそう言った。
そこには、白銀の月が浮かんでいた。
「椰娜、大丈夫?」
「大丈夫です、成煕(ソンヒ)姐さん。初めて宴席に出るので、緊張してしまって・・」
チマの裾を揺らしながら、椰娜はそう言って溜息を吐いた。
「大丈夫、わたしがついているからね。」
成煕はそっと椰娜の手を握って彼に微笑んだ。
「はい・・」
先輩妓生(キーセン)の励ましに、椰娜は笑顔を浮かべた。
「あんた達、早く来なさい!」
別の妓生達に怒鳴られ、二人は慌てて彼女達の後へと続いた。
「お待たせいたしました。」
ベクニョ達がそう言って部屋に入ると、数人の日本人達がわぁっと歓声を上げた。
「待っていたぞ、そこの女、さっさと俺に酒を注げ!」
少し肥満気味の男はそう叫ぶと、ベクニョの背後に控えていた妓生に手招きした。
「失礼致します。」
「お前達、ぼけっとして突っ立っていないで、酌をせぬか!」
妓生達はそれぞれ客達の元へと侍り、彼らの猪口に酒を注いだ。
「椰娜、成煕、準備をおし。」
「はい、ベクニョ様。」
愛用の伽耶琴(カヤグム)を絹の袋から取り出し、椰娜は抑揚をつけて歌い出した。
その歌とともに、成煕が優雅に舞い始め、男達は彼女の舞にほうっと溜息を吐きながら魅入った。
伽耶琴を弾いて歌いながら、椰娜はちらりと宴席の端で酒を飲んでいる男の顔を見た。
どこかで見覚えがある顔だと思ったら、昼間自分をステッキで激しく打擲した男だった。
宴が終わるまで、男に気づかれないようにしなければ―椰娜はそう思いながら、伽耶琴を弾き続けた。
「椰娜、どうしたの?」
椰娜の様子がおかしい事に気づいた成煕が、そう彼に囁くと、椰娜は口だけで自分を殴った男がここに居ると彼女に伝えた。
「わたしが何とかするから、あんたはベクニョ様か賢淑(ヒョンスク)の傍に居てなさい、いいわね?」
椰娜は成煕に頷くと、演奏を終えてさっと立ち上がると、賢淑の傍に座った。
「どうしたの?」
「姐さん、わたしを殴った男が宴席に居るんです。」
「そう。成煕姐さんから言われたのね? 安心なさい。」
このままあの男が気づかず、宴が終わってくれればいいと椰娜は思っていた。
「さてと、わたしは先に帰るとするよ。」
椰娜を殴った男がそう言ってさっと立ち上がり、部屋から出て行ったので、椰娜は彼と目を合わせないよう、咄嗟に俯いた。
幸い男は椰娜に気づかず、上機嫌な様子で料亭から去って行った。
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