“椰娜、わたしのことを忘れないでいて。”
あの部屋に閉じ込められる前、母はそう言って自分に笑顔を浮かべながら、牡丹の簪を渡した。
“あなただけは、幸せに生きて頂戴。”
母はもう一度椰娜に微笑むと、部屋の扉を閉めた。
それが、彼女を見た最期だった。
母の死後、椰娜は当てもなく街を彷徨い、飢えに苦しみながらいつの間にか路上に蹲り、そのまま眠ってしまった。
その時に助けてくれたのが、ベクニョだった。
彼女は全身垢と泥に塗れた自分を風呂に入れてくれたばかりか、妓生(キーセン)として自分を大切に育ててくれた。
いつしか椰娜にとって教坊は我が家となり、ベクニョ達妓生は家族同然の存在となった。
ベクニョと暮らしている内に、過去の辛い記憶を椰娜は忘れてしまった。
そして、その代わりに自分は何処かの国の王女として生まれ、王妃である母は自分を守る為に敵国軍に殺されたという妄想を、勝手に作り上げていった。
そしてその妄想の中には、仁錫(イソク)も居た。
椰娜と仁錫は、過去に何回か会っていた。
そしていつからか、仁錫は椰娜のことを“姫様”と呼ぶようになった。
だが、そのことも椰娜の記憶から消えていった。
「椰娜、しっかりおし!」
誰かに揺さ振られ、椰娜がゆっくりと目を覚ますと、そこは病院のベッドの上だった。
鼻に突くような消毒液の匂いと、レースのカーテンがつけられた白い病室の中に、椰娜は居た。
助かったのだーそう思いながら椰娜が首を巡らせると、ベクニョが泣きそうな顔をして椰娜を見ていた。
「良かった、神様があんたを助けてくださったんだね!」
「あの人は?」
「ニコライ様なら無事さ。さぁ、何も考えずにゆっくりとお休みよ。」
「はい・・」
もっと話したい事があるのに、睡魔に襲われた椰娜はゆっくりと目を閉じた。
一方、仁錫は横浜で悠馬に連れられ、英国領事館主催のパーティーに出席していた。
「本当に、ここに父が来るんだろうな?」
「ああ。僕の方から君の父上に話をしてあるから、心配要らないよ。」
「そうか・・」
いつも女装を悠馬にさせられていた仁錫だったが、今日彼が纏っているのは華やかなドレスではなく、漆黒のスーツだった。
初めてスーツに袖を通した仁錫だったが、サイズはピッタリだった。
悠馬の周りに居た貴婦人達は、彼の隣に立っている仁錫に好色な視線を送っていたが、仁錫はそれを無視して父の姿を探した。
「居た、あそこだよ。」
悠馬が指差した先には、真紅の軍服を纏った男が数人の貴婦人達に囲まれながら彼女達と談笑していた。
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Last updated
2013.09.04 08:50:57
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