「わたしが孝の・・あの子の存在を知ったのは、あの子が五歳を迎えようとしている頃だった。わたしはその日、信孝の婚約披露のパーティーに出席していた。信孝の妻となる女性は、由緒ある家柄の娘だった。」
眞一郎は、環に初めて孝と会った日の事を話した。
その日、彼は信孝の婚約披露パーティーに出席していた。
本当は彼の婚約披露パーティーに出席などしたくなかったが、仮にも親戚の集まりに自分だけが顔を出さないという訳にはいかなかった。
「元気そうだな、眞一郎。」
「ああ・・」
「最近結婚したと聞いたが、まさかお前の相手が凛子様だったとはな。俺もあんな美人を嫁に貰いたかったよ。」
「何を言う、お前の嫁さんとなる人だって美人じゃないか。」
「そうだろう?」
信孝は少し自慢気にそう言って笑うと、女性達に囲まれて笑っている自分の婚約者を呼び寄せた。
「初めまして、眞一郎様。梨津子と申します。以後お見知りおきを。」
「梨津子さん、こちらこそ初めまして。信孝とどうかお幸せに。こいつは色々と神経質な所がありますから、大変ですよ。」
「有難うございます。」
眞一郎の遠回しな嫌味を軽く受け流し、信孝の婚約者・梨津子は彼の腕を取って招待客達の方へと向かった。
眞一郎は母屋から出て、人気のない離れへと向かった。
そこは、かつて信孝と眞一郎の祖父が存命だった頃に良く遊びに行った所で、盆や暮などは親戚連中が集まっては宴会などをして賑わっていたが、祖父が亡くなってからは誰も顧みなくなり、かつて美しかった日本庭園は、今や雑草が生い茂り荒れ果てていた。
溜息を吐きながら眞一郎がその庭を眺めていると、叢(くさむら)の向こうから微かな物音がした。
猫でも入って来たのかと思いながら眞一郎が叢の方を見ると、そこから襤褸の着物を着た子供が出て来た。
目鼻立ちは信孝には似ておらず、何処か蠱惑的(こわくてき)な美しい顔をしていた。
「君、何処から来たの?」
「蔵から来た。」
俯いていた顔を上げた子供は、切れ長の黒い瞳で眞一郎を見つめた。
「貴方、誰?」
「わたしかい?わたしは、神谷眞一郎というんだ。君は?」
「孝・・ねぇ、貴方は僕を助けてくれるの?」
「君は何を言っているの?」
眞一郎がそう言って子供を見ようとした時、彼が怯えた目をして眞一郎の背後を見た。
「孝、また蔵から脱け出したんだな!」
「ごめんなさい・・」
子供―孝は恐怖に震える声でそう言って信孝に許しを乞うたが、彼は持っていたステッキで孝を激しく打擲(ちょうちゃく)した。
「お前なんか、産まれてこなければよかったんだ!」
「止めろ、信孝!」
眞一郎はいつの間にか、孝を信孝から庇っていた。
「こいつはこの家の厄介者だ!生かそうが殺そうが、俺の勝手だ!」
「ではこの子は、わたしが引き取る。お前は梨津子さんと幸せな結婚をして、甘い夢を見ていろ!」
震える孝を抱き上げ、眞一郎は信孝に背を向けてそのまま松阪邸から出て行った。
「わたしが孝を地獄から救い出したとき、彼の全身には夥しい火傷の痕があった。それは、煙草や火掻き棒で押し付けられた痕で、恐らく信孝があの子を毎日折檻したのだろう。」
「酷い・・」
環は眞一郎の話を聞いた後、涙を流した。
「信孝は梨津子さんと結婚して、幸せな生活を送っているよ。」
「酷い方、幸さんと孝を苦しめて、何事もなかったかのように振舞って・・信孝さんのような方を、鬼と呼ぶのだわ!」
激昂した凛子は、そう叫ぶと拳でテーブルを叩いた。
にほんブログ村