2015年8月16日
2015年8月16日14時15分パパが天へと旅立ちました。昨日四十九日を終えました。これまで、ドナーさんをはじめ、多くの方に励ましを頂き、支えられ、何とか頑張って来れました。遅くなりましたが、この場を借りまして御礼申し上げます。また、永きにわたりパパを診て下さっていた先生方、病棟の看護士さん、病棟の主のようになりつつあったパパの最期に、温かいお見送りありがとうございました。毎日自宅の中で療養し、時々調子の良い時に外へ出て。。最後の1年半はそんな感じでした。好きな海にも行かれず、窓からお天気空を眺めては「ああ、遊びに行きたいなぁ」と漏らしていました。でも、子ども達が遊びに来ている時は元気な素振りを見せ、いがぐり君の元気なパパであり続けようとしていました。永く、永遠に続くのかとさえ思われた社会との関わりの減った孤独の中で、パパはずっと自問自答を繰り返し、最後は仙人か、もう仏になったかのような悟りを開き、私には及ばないどっしりとした大木のような存在感になってからこの世を去っていきました。亡くなる数日前に最後の神頼みと、鎌倉八幡宮にお参りしに行ったのですが、まるで数年前までそこにあった大銀杏の大木のように、無くなった(亡くなった)今でもどっしりと皆を守ってくれているような気がします。何とか治し守りたかった。この8年間、ただそれだけでした。でも、それは私がパパに守って欲しかったという事だったのかもしれません。人は一人では生きていけない。誰かに守られ、支えられ、その中で切磋琢磨しながら生きる。私は一人でも大丈夫、と思っていた時期もあったけれど、そんな風に人を選り分けていた事もあったけれど、歳を重ねて生きていくという事は人と関わり合ってその中で、自分がどんな所で存在しているのかという事を感じ取りながら時間の中を流れて行くという事。大切な人の死を看取って人として何が大切なのかを教えてもらって今はそう思えるようになりました。自分が選ぶ事だけが全てではない。むしろ選んでもらえるだけの存在である事。それだけ動かぬ何かを自分の中で成長させる事こそが大事。我が家の大銀杏はそんなメッセージを残して旅立ちました。8月16日はいがぐり君の誕生日。10歳の誕生日でした。産まれた時間を朦朧としたパパに伝えるとパパは意識を戻し「お誕生日おめでとう!!」と言って、2時間後に息を引き取りました。今、毎日、お線香をあげているのですがパパはこれまでの人生をどう思っているのかな。私は、何とか守りたかったとは言え、疲れている夜はリフレをしてあげるどころか先に寝てしまったり、パパを置いていがぐり君と遊びに行ってしまったり。肺が苦しくて咳き込んでいるのに自分の眠さが勝って優しく出来なかったり。。。もっとこうしてあげれていれば、もっと楽だったのでは??と、今になってするのは後悔の念ばかりでなかなか前に進めません。今度はこんな料理を作ってあげようと買い込んでいた材料を使う事もなく今更それをストックボックスから見つけては胸が張り裂ける気持ちになり何で早く作って食べさせてあげれなかったのかな、あんなに食べる事が好きだったのに、とそんな風に思ってしまいます。白血病が見つかったとき、数時間の命でした。最初の抗がん剤が効かなければあの時点で亡くなっていた。でも、それを乗り越え移植を乗り越え合併症で肺が悪くなりその治療でステロイド投与による骨の壊死壊死した大腿骨人工関節にかえて歩行困難の障害者にそしてそのステロイドで糖尿病になり肺がさらに悪化し両肺の気胸を併発し生死を彷徨い合併症で全身蕁麻疹で強いかゆみをやり過ごし目も見えにくくなり筋肉がひきつり始め最後は自力で呼吸が困難になりながらも酸素ボンベを拒否あくまで強いお父さんを貫き通し最後に脳梗塞を起こしてそして白血病の合併症の中で一番重篤だった肺炎による呼吸不全で力尽きました。お前は新しい友達が出来ていいな。。。俺はもう友達は出来ないな。そうつぶやいたパパの寂しそうな様子が私の脳裏にこびりついてます。お前はこれからを大事にしろよ。こっちに越して来て出来た友達にももっと頼っていいんだぞ。そんな風に最後まで私たちを心配してくれていた。そんな温かくて大きな人でした。本当に私にとって大切なパートナーでした。いがぐり君を与えてくれ文字通り命がけで私たちの事を考え、守ってくれた。そんな人でした。ICUにいる時、本当は15分しか面会が許されず、何度も出たり入ったりして時間を稼いだり、この日も離れがたくて30分以上粘っていました。でももう行かなくちゃ、ってなってしまい、マスク越しに、看護士さんの眼を盗んでパパにキスをしました。マスクのかさかさとした感触しかパパにも私にも伝わらなかったけど、切ない最後のキスでした。彼にしてもらった事は沢山あったけど私が彼にしてあげれたことはあったのかな。病室のカーテンを閉める時にいつもそんな事が頭をよぎり余計に辛いのですが、その日は「名残惜しいけど、またね」と言って弱々しく手を振ってくれました。もっと一緒にいたくて、この時個室に移してもらえるよう強く要請。いがぐり君の面会もその後かなう事になりました。そして8月15日。いがぐり君のお誕生会の為一日病院には行かれず。気持ちの中は複雑で、でも、いがぐり君の誕生会は今年は何としてでもやってやれと、パパからの強い希望もあったので決行。いがぐり君の本当に嬉しそうな顔を見れて、これで良かったんだと今は思っています。翌早朝、病院から危篤の連絡が入り、子ども達と分かれていがぐり君とタクシーで病院へ向いました。15日の誕生会の時間を一人で乗り越えてくれ、でも、もうそれが限界でした。「お誕生日おめでとう!!」そういがぐり君に告げて旅立ちました。パパはきっといがぐり君の守護神になったのでしょう。そう思わなければ、この出来事は乗り越えられないです。まだまだ沢山の書ききれない思いがありますが、病気の為に幼い頃強く抱きしめる事が出来なかった我が子への愛情は私の持つ愛情よりも遥かに深く、私はこれからその想いを少しずつ受け継ぎながらいがぐり君と今まで通り地道にやって行こうと思っています。今はそこまで。パパ、本当にありがとう。あなたが亡くなってからお線香をあげに来てくれる人が毎日後を絶ちません。それがあなたの人生だよ。それを伝えたいけれど、聞こえているのかな。そんなあなたがこれからもずっと大好きだよ。ありがとう。移植後4ヶ月の入院を経て、半年程経ったある日の夜いがぐり君はこんな風にいつもそっとパパのそばに寄り添う感じでした